狂気と病の詩 「わしらには救えぬもの」
ヒトは何故 歌を 旋律を 詩を 求めるのだろうか?
まず最初に紹介の曲はブルーノ・マーズの代表曲「Just The Way You Are」のcoverで、ミュージカルコメディ映画 「ピッチ・パーフェクト」(PitchPerfect)のバージョンです。
PitchPerfectでは男女のアカペラグループが対戦するのですが、女子のグループがアカペラで歌う「Just TheWay You Are」のテンポ・リズム、声のゆらぎ、が好きです。
過去記事で紹介したアナ・ケンドリックも出ています。アナの声質、いいですね♪
Pitch Perfect – Just The Way You Are
では本題に入ります。今回は無意識から見たニンゲンがテーマで、比喩的な表現を含んだ抽象的な内容になっています。
ここで使われる「ヒト」というのは、特定の個人の領域ではなく、「ヒトの自然界」、無意識領域であり、イキモノとしてのヒト、自然界にルーツを持つヒトの存在の心の意味です。
狂気と病の詩
世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう by レヴィ=ストロース
このレヴィ=ストロースの言葉を少し変えてみよう、世界はニンゲンなしに創造されたし ニンゲンなしに破壊されるだろう
こう表現したのは、創造と破壊の根源的なダイナミズムを直接受けているのはヒトであり、ニンゲンではない、ということ。
テレビや個人的な体験などで語られる薄っぺらい霊感、オーラや霊視、エンタメとしては面白いのですが、全く浅いです。いや、「浅い」からこそ面白いのですね(笑)
「神頼みでの不安からの解消」も同様に、個人が信じてやる分には何の問題もないですが、
神父たちがコロナでバタバタ死んでいくように、原理主義・教条主義的な姿勢は問題を生じさせます。そして「恐怖や不安から神や何かに必死に祈ったら、恐怖が消えた」などいうものは、無意識のほんの浅い作用に過ぎず、
そんなものを霊とか神とかいう人々の精神の平たさ、これは無意識の浅瀬でしか生きていないニンゲンの成れの果て、なんですね。
無意識の波の表層ではなく、そのさらに奥を感受するヒトは極端に減り、そして言語では伝えられないものを感受できないため、もはやニンゲンはただの知識でしか物事を分析できないかのように思えてきますが、
「今無意識で何が起きているか?」それを知らないがゆえに、「情報」と「知識」で過剰に補い、概念によって均一化され、そして類型の感情を生起させ集団に同期する「疑似共感」となっていくわけですね。
「ヒトの共感」は即時の無意識の感受であり自然・生命に属するものですが、ニンゲンの共感は概念化された感情の追体験であり、社会的に構築され増幅された複合反応です。
自然に根を持たない構築物であるため、「何もしない、何もない」と根源的な不安が生起し、その解消・忘却のために自然を超えようと「思考」するが、その不自然な余剰によってさらにズレていくわけです。
そしてニンゲンは概念モンスターと化していきます。どれだけ複雑な煩悩を持ち、複雑な思考をしようが、その動機の根源は、シンプルに「ただ生きること」それができなかった、ゆえであり、
「ただ生きること」の奥行をその奇跡性を感じるだけの感性を失ったゆえに、片時も「ただ在れない」、というパラドックス状態なんですね。
もはやニンゲンが見ているもの・感じているものは概念だけになっていった、ともいえるほどにそう見える存在に分離化されてしまった、ということです。
そしてニンゲンから見たヒトは広大で不可解で、その一部は物の怪、妖精、異端の者でありモンスターとなったが、本当はヒトから見たニンゲンこそがモンスターなのだった。
追加更新で、「鬼滅の刃」に関する精神科医名越康文氏の関連動画も面白かったので紹介しますね。
〇 新型コロナ問題雑感~鬼滅の刃~体癖論~ゲーム実況の予定(名越康文TVシークレットトーク2020.4.15youtubeライブダイジェスト)
※ 私は鬼滅ファンではないです。そもそもアニメもSFも現実とは違います。そして名越康文先生的な鬼滅の思想的分析は特にしていません。この動画を貼ったことに特に意味はなく、鬼にちなんだ今風なものを気分でちょっと挟んでみた、というだけのきまぐれです(笑)
狂気と病の詩
危機にさらされているのはニンゲンではなく 今ヒトが危機に陥っている ヒトを助けることは現代的な心理学では役に立たない それは全て あまりにも社会的・都市的・ニンゲン的なものだから
ヒト次元の苦悩は 実存にまで届くものでなければ力をもたない それは学問的なものではなく 野生の領域 存在の素肌が触れるもの
ニンゲンの狂気はヒトをただ破壊する それは単なる病んだ自我意識の創造性なき思考の産物 今後 そのような実存次元の苦悩が増加していく
ヒトの狂気は創造と破壊の運動であり 無意識からの揺らぎ それは自然界と繋がる陰陽の運動
ヒトを実存の次元で救うものは ヒトの創造性であり ニンゲンには病んだ自我意識しか扱えない
「わしらには救えぬもの」の物語
「ダイバーシティを掲げる者たち」が、今日も自身の価値だけを絶対と信じて語り、気に入らない誰かの価値を否定し断罪している。
そして多くの人々は本と新聞とニュースとSNSで世界を知るようだ。しかし「そこにある世界」は今も取り残されている。
水のように、大地のように、風のように、ヒトとしての命の現れをそこに感じる。他者が在る、命の現れに触れることを通して私が在る、私の命を知るように。
空も風も水の流れも刻々と変化しながら、大地も星々の輝きも増しているが、ニンゲンだけが硬直し恐怖し生気を失い、魂の呼吸を失ったかのようだ。
鳥たちは今日も元気に鳴いている。花も木々も今この瞬間を謳歌している。そして不可視化された精霊界は今も衰えてはいない、いや本当は日々力を増しているのだが 殆どの心にそれが告げられることはないだろう。
比喩にとどめておくこと、敢えて詳しく書かないという秘密は大事だが、いやそれ以前に、そもそも多くのニンゲンは もうそれを聴く力をもたないのだから、言葉・文字はほぼ死んだも同然の思考機械。
地の魂を忘れ 水の魂を忘れ 火の魂を忘れ 風の魂を忘れ 空間の魂を忘れ 虚ろな目で木々を見つめながら足早に移動するニンゲンたちが文字を読んでいる。
何にも触れてないが膨大な何かに触れたと思い込み、存在を愛でることなしに善を愛を語り美を語り、そして観念で裁き排除し所有するニンゲンたち。
「生から逃避する」ことを「生きる」ことだとすり替えた結果、虚無に自ら飲み込まれていくニンゲンたち。
文明以前、ヒトは数多くの大自然の創造・維持・破壊のサイクルの中で大きく揺らいできた。文字にも言語にもならないその詩は無意識に記されている。
文明後も 仮想現実社会と大自然の双方の創造・維持・破壊のサイクルの中で 大きく揺らいできたし、その詩は無意識に記されている。
「啓蒙」という単語の原義は「光で照らされること」を意味するといわれるが、感性の座に宿る神性が、思考・理性で概念化された光に置き換わった時、ヒトはニンゲンから切り離され、
そしてそこから時が経ち、今はもう2020年だが、ニンゲン界の本屋には「居るのはつらいよ」が置かれ、ニンゲンはそれを手に取って読んでいるのだった。
「居ることすらつらい」、これがニンゲンの辿り着いた社会であるとは..科学も文明も一体何がしたかったのか?どこに向かいたかったのか?
人類は「光で照らされる」のではなかったか? これではジョン・ロックもヒュームも、「悔しくて涙が止まらない 震える」と、お気持ちが爆発しそうな結果ではないか。
しかし「居るのはつらいよ」よりももっと根底にある「気づかれないもの」、それは今や「ヒト」に出逢いたい、「ヒト」に触れたい、が根源的な衝動なのである。
「光で照らされる」はずの「形而上のヒト斬り抜刀斎」は、理性でヒトを斬りすぎて、「居るのはつらいよ」とどこにも居れずアサイラムを転々とするが、
啓蒙によって殺された数々のヒトの怨念が、どこまでも追いかけてきて自身を斬りつけてくるのだった。
そして「不殺」(ころさず)を誓うようになる。「形而上の逆刃刀」によってヒトの心を取り戻し、居るのはつらいニンゲン界を異端として生きるのである。
神はニンゲンを救えない。「わしらには救えぬものじゃ」、それはニンゲンのことなのである。
そしてヒトで在れない者たち、ヒト性を喪失したゆえの「帰れない者達」が、存在の孤独と深い分断からそれを紛らすゲームを必要とし、
虚無の谷間に堕ちないようひたすら加速し続ける。ニンゲンはゲームなしには耐えられない、何故ならニンゲンそのものがゲーム的存在になったから。
もうゆっくりではダメだ、創造が終わった世界では虚無がグングン追いかけてくる、虚無との鬼ごっこだ、加速だ加速だ加速主義だ!
アクセル全開で燃料が尽きたら鬼がゲームを終わらせる、そしてきっとそこから新しい何かが..起きるはず、というニンゲンの予測は全て絶望に向かう。何故なら、ニンゲンだもの~。
残念ながら、「ヒト」以外に世界に再び息吹は戻らない。ニンゲンそのものが終わりに向かって突進していることに気づかないようでは、どんな立派な理屈も思想も空しい。
「愛にできることはまだあるかい」ではなく、「ニンゲンにできることはまだあるかい」なのだ。そしてその答えは「ない」。
しかしいつだって「世界」には問題はない、ニンゲンそれ自体が終わっているだけなのだ。
ヒトはただ在る実在で在り非ゲーム的存在であるゆえに、ニンゲンにはそのリアルさは耐えられない。ニンゲンは自らの本物の姿に耐えられない唯一の生き物なのである。
かつてニンゲンはみなそれだったがその事実性に耐えられない、そしてそれを無に帰し、非実体的な観念体としてのニンゲンを創造した。
ヒトはニンゲンの故郷、だが今やもう故郷はない。だが故郷を失ったニンゲンはやがて己が虚像性も忘却し、ニンゲンこそが実在だと思い込むまでに強固な観念体となっていく。
ニンゲンはもはや存在の記憶喪失となり「私は誰?ここはどこ?」の哲学を延々としたところで、もう何も思い出せないのである。
何を馬鹿な!ヒトならそこら中にいるではないか?とニンゲンは語る。だがしかし、今やヒトはそう簡単には「いない」のである。
「えええ?ちょっと何言ってるか分からない」「この人やばいです」、とニンゲンはそう言わざるを得ない。仕方ないニンゲンだもの~。
心の治療には、理性を強化することで問題に対処する啓蒙主義的治療と、狂気の声を聴くことで変容を図るロマン主義的治療の二系統があるという仮説。ストア派から認知行動に至る系譜と、シャーマニズムから精神分析に至る系譜。ソクラテスは理性を駆使しながらも、ダイモンの声に従っているヤヌスか。
— 東畑 開人 (@ktowhata) March 6, 2020
ではラストに一曲、ドリー・パートン(Dolly Parton)のヒット曲「Jolene」のcoverです♪
Miley Cyrus – The Backyard Sessions – “Jolene”