消えゆくアジール 直接体験と非思量
福田恆存の「一匹と九十九匹と」は、政治と文学の役割について深い洞察をしています。彼は、政治が救えない群れからはぐれた一匹の羊、つまり社会の枠組みから外れた個人のために文学が存在すると述べていますが、
この比喩は、ルカによる福音書の一節に由来しており、イエスが一匹の失われた羊を見つけるために九十九匹の羊を野に残すという話から引用されています。
まぁ最近の人文界隈の傾向性を見るに、「そこにアジールはあるんか」という感じですが、しかしそれよりも、「神も天国も地獄もなく罪やら正義やらもないピダハン族の世界」の方が遥かに「ヒトにとってのアジール」ということは見過されたままでしょう。
アメリカの社会哲学者のエリック・ホッファーは、見事なまでに人間と社会の逆説的な関係を捉えています。
「教育」は確かに必要だし社会の役にも立っていますが、ほんとうに全てがそうでしょうか? むしろ「教育されてしまった人々」の方がより野蛮化していたりしないか?ということ。
教育というものは、人の心を陶冶(とうや)するよりは、むしろ往々にしてより野蛮化してしまうというのは衝撃的だ – エリック・ホッファー
「構造的差別」を語る側、ジャッジする側、啓蒙する側にこそ強力な構造的差別が内在している。結局のところ言語の権力性。そして禁止令の増大、漂泊社会の結果は、むしろ人々の心をますます攻撃的・暴力的・冷淡・無慈悲にしていないか?
明確に特定できる悪を抑圧すると、その代わりに、広く蔓延する悪、生活の隅々まで伝染する悪がそれにとって変わる危険性が常にある – ホッファー
正直なところ、ブレイキングダウンのやんちゃな若者の肉体的暴力性の方が冷淡さや無慈悲さを感じない。相手の仕事・人生・家庭まで追い込んで破壊していくようなキャンセルカルチャーやスラップ訴訟のような圧力の方が遥かに暴力的で無慈悲。
他者への没頭は、それが支援であれ妨害であれ、愛情であれ憎悪であれ、 つまるところ、自分から逃げるための手段である – ホッファー
本を読むと良き市民になるって人文系の人は期待するんだけど、ぼくは全く思わないんだよなあ。— 綿野恵太 (@edoyaneko800) April 28, 2024
ではここで一曲紹介、少し「葬送のフリーレン」っぽい感じののケルト風インストゥルメンタルです。BGMとしてかけ流しておくといい感じですね♪
消えゆくアジール
小3女子かのちゃん「心の中で考える時、言葉を使うけれど、言葉がなかった時はどうやって考えていたんですか?」
これだから子ども科学電話相談は侮れない。— A1 Kamayama (@eikama) April 28, 2024
「言語以前には思考がない」という人はロゴスの作用で既に「ヒトの死」に至っている。『「心以前」の「気」』を感じれなくなったとき、それは「その人にとっては存在しない」というだけで、「気」はそれを感じれる人には存在するように。
身体の思考は「私の思考」よりも早い。言語を取得する以前の子供は大人の思考よりも早く身体で察知している。それによってしか感受できないものがあるが、現代人の大人の多くは「言語」だけがもっとも具体的な情報を得られると思い込んでいる。
一般的な意味での「心」というのは、平均的な身体性によって感受されたものの1部に過ぎない。特殊な身体性においては「一般的にはない(とされるもの)」が極自然に感受される。
「言語以前」において「感じること」は世界と身体が境界なくダイレクトに触れている状態。「自他未分離」、「主客未分」の「純粋経験」の状態は「我思うゆえに我あり」の「私」が不在のまま、「我感じるゆえに我あり」それ自体を生きる。
信仰と真実という支えのない人生を生きることは可能だろうか。ピダハンはそうして生きている。
(中略)
ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や畏れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。 ー『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』
『ポリコレ型牧人権力に「実存」まで鋳型に嵌められた「ザ・社会」みたいな顔した者たち』が、レトリックだけが多彩な「道徳説教屋」の姿で現れたり、「私の傷つき」を多彩に彩る「ザ・多様性」で現れたりするが、それならば「ちゅ、多様性」を聴いていた方がまだマシ。
「道徳説教屋」や、押しつけがましい「ザ・多様性」よりは、「ちゅ、多様性」の方が多様性を生きているともいえるし、「ザ・社会」の啓蒙を根底から舐めている感じがアジール的だ。
「傷つき」を、「社会のみんな」と同様に「傷つき」という意味・価値としてしか認識しないその愚鈍さには、「傷つきそれ自体を生きる」ことでそれを変容する力はない。
それ自体を生きているとき、「傷つき」という意味・価値の枠組みに固定されず、それは『誰かが勝手に「これはこうだ」と決めつけて、みなが異口同音に「そうだそれだ」とそれに同化して一元化された意味』を超え、そのフレームの外からそれに触れる。
「それは何か?」が「わからない」という意味以前のそれを生きてそれに触れていく前に、先に特定の意味・価値の範囲に一元化して、その前提から言葉を紡ぐ姿は、既に社会化された個人が特定の価値基準で経験を意味づけするだけ、というような再帰性しかない。
「起きること」、自己体験を全て一般化してしまうだけなら、もはや社会から一歩も出れない。それはアジールの喪失であり、自己がアサイラムそのものになった状態は、脱獄不可能な「言語の牢獄」を自ら完成させた状態(自己家畜化)。
かつては、「言語の牢獄」の外部に連れ出すのが人文アジールだった。ところが今やアニメ、漫画の方が遥かに人々のアジール的なものになっている。
人文も今や「ザ・社会」のようなものになりつつある。そうなれば、もはやイデオロギー運動から一歩も外に出ない言語のアサイラムが形成されるだけ。
直接体験と非思量
『万物の黎明』読書ノート その1 より引用抜粋
自由・平等・民主主義は「西洋的伝統」の産物ではないとWDは指摘します。ヴォルテールが聞いたら驚く筈だとも言います。第2章で詳述されますが、ヨーロッパの啓蒙思想家たちは揃って、自由や平等といった理想をヤノマミのような「未開人」の口を借りて語らせました。それはヨーロッパで欠けているものだったからです。
そして、プラトン、マルクス・アウレリウス、エラスムスといった西洋的伝統の著述家たちはそうした理想について、はっきりと反対していました。「民主主義」という言葉こそ古代ギリシャで発明されましたが、民主政は劣悪な統治形態であるとも、ずっと思われていました。プラトンが民主制を「衆愚政治」とこきおろしたことは有名です。
これらの理想は西洋文明の独占物ではありません。グレーバーには『民主主義の非西洋起源について』という著作もありますが、合理主義、合法性、熟議民主主義の萌芽と解釈できるものを世界中から探し出すことは簡単だし、それが現在のシステムにどう繋がるのか説明することも簡単に出来ると言います。
ピンカーの議論への反論点2:現代社会の問題はまだまだ多いにしても、ピンカーは我々が進歩している証拠として統計を使います。健康、安全、教育、快適さなどの指標は、我々が未開人より進化していることを示すというのです。しかしWDはこう指摘します。「ある生き方が本当に満足できるものなのかどうかは、複数の生き方を経験した人間に選択権を与えて、彼/彼女がどちらを選ぶかを見るしかない」と。
ピンカーに従えば、まともな人間ならば暴力に晒されている部族社会よりも西洋文明に間違いなく飛びつくはずでしょう。しかし、過去にそういう選択を迫られた個人はほぼすべて部族社会を選んだとして、WDは、ヤノマミに誘拐された白人女性エレナ・ヴァレロの例(いったん白人社会に戻るが、適応できずにヤノマミに戻った)を解説し、北米インディアンでも数多く似たような報告報告があると指摘します。
その反対に養子縁組や結婚でヨーロッパ社会にやってきたインディイアンたちは、高い教育を受けた者も含めて、逃げ出すか、社会適応できずに余生を元の部族のもとで過ごしたともされています。ベンジャミン・フランクリンもそうした事例を書き残しています。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより) 引用元⇒ 『万物の黎明』読書ノート その1
ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』において、福音派の伝道師だった著者は、「右/左の概念、数の概念、色の名前も存在せず、神も、創世神話もないピダハンの世界観」に触れて、無神論になるんですね(笑)
彼はピダハンの世界観を「選んだ」のです。
ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ。わたしが知り合ったどんなキリスト教徒よりも、ほかのどんな宗教を標榜する人々よりも - ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』より
よく社会人は「挨拶は人間関係の基本」みたいなことをいいますが、ピダハン語には「交感的言語使用」がないんですね、ですが全く平和に集団で過ごしています。そしてピダハン語には「心配する」に対応する語彙がないとのこと。
そこにあるのは直接体験「イビピーオ」のみ。言い方を変えると、このとき「天・地・人」がひとつになります。著者にとっての「天」はキリスト教ですが、その観念自体が直接体験「イビピーオ」によって分解されます。
「今」を分離させ、「ココ」を分離させ、私を分離させているものが消える時、分離していた「天・地・人」は境界なく融合します。そこに東洋的な意味での「自己(もともとある)」が立ち現れる。
通常、「私の思考」に強く同化している現代人の多くは、禅的なプロセスでいえば、『「不思量底」を「思量」する』ことで「分別」の状態を解体する、という流れを経ないと分別智にとどまり続けます。このとき「私の思考」ではなく「非思量」をもってそれを行う。⇒ 思量・不思量・非思量(著・伊藤秀憲)
インド哲学、ヨーガでは、「見る者(プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」の関係において、見る者(プルシャ)が「自己」であり、そして「私の思考(自我)」は「見られるもの(プラクリティ)」となり、後者は「虚(マーヤ)」。
直接体験「イビピーオ」は「瞑想状態」の一種ともいえるでしょうが、「瞑想」はそこからさらに踏み込んでいきますが、ここではそれについては書きません。
以前「AIは瞑想しない」と書きましたが、それは言語・思考以前なのでAIには出来ません。当然、AIには直接体験「イビピーオ」はないのです。
ピダハンは現代社会の基準では一切の分野において非専門家の人々になりますが、「ただそれ自体を生きる」だけで一切の教えなく「言語学者であるエヴェレット」にそれを気づかせた。それ自体が瞑想なんですね。それは言語の外にあるもので、そもそも学問領域の外部にある。
「自己」は「世界の外」にあり、『「世界の中」で世界を分析する「専門」の者(訓練された「私」の思考)』は、そもそもそれを捉えられない。博学だからとか、○○の権威だからとか、専門家だからとか、そんなものは最初から一切関係ない。
「『ヨーガ・スートラ』和訳ノート」 より引用抜粋
プルシャがプラクリティを観照すると、プラクリティ(のグナ)が転変(展開)して現象世界が顕われる。プルシャはその現象世界を観照するだけで、それを「svar[pa」(自身自体、それ自身、自己の形色、本態、本性)と言う。
※註3:私たちは、心のはたらきをすべて制止し心が絶対的に静穏になった時、はじめて「真実の自己」がわかる。それをパタンジャリは、「個人が本性にある」と言わずに「見る者がその本性にある」と言う。
私たちの心のはたらきが完全に制止されると、「自己の本性」という意識もなくなるためで、サーンクヤ思想で言う「プルシャ(puru2a)」(「見る者」)の状態で「その本性を眺めているだけ」である(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 『ヨーガ・スートラ』和訳ノート