タウマゼインと「神の声」の喪失

ジュリアン・ジェインズ(アメリカの心理学者)は、彼の著書『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』で、意識の起源についての革新的な理論を提唱しました。

彼は、意識の起源は約3000年前にさかのぼり、それ以前の人間は古代文明では人々が「二分心」という状態にあり、自己意識が存在せず、脳の片方がもう片方に命令を出す形で行動していたと主張します。その後「二分心」は崩壊し、人間は「文字と意識」を得た代わりに神々は沈黙した、と語ります。

この本が書かれたのは今から40年以上前で、科学的な知見が古いのは仕方ありませんが、ジェインズの仮説が示唆するような、言語の発展と共に自己意識と内省的な意識が形成されたとする「意識の誕生と発達」が、「比較的最近の出来事」というのは、進化生物学や考古学の証拠によって支持されてはいませんし、「脳」の捉え方も極端です。

 

「意識のイージー・プロブレム」においては科学的にいろいろ解明されてきましたが、「意識のハードプロブレム」に関しては解決していません。といよりもそもそも科学的アプローチでは不可能な哲学的な問いを含んでいるでしょう。

それは置いといて、「意識」がどのようにして生じるのか?の現代における理論(仮説)は複数存在し、以下に簡単にまとめました。

 

■ 統合情報理論(IIT):  ジュリオ・トノーニとジラルド・エデルマンによって提唱されたこの理論で、意識を情報の統合度として定量化しようと試みています。システムが高いレベルの統合情報を持つ場合、それは意識を持つとされています。

■ グローバル・ワークスペース理論 :  バーナード・バースによって提唱されたこの理論は、意識は脳内の多くの非意識的な処理から選択された情報が一時的にアクセス可能な状態にあると考えます。これにより、情報は脳のさまざまな部分で処理されることができます。

■ 量子脳理論 :  ロジャー・ペンローズとスチュアート・ハメロフによって提唱されたこの理論は、意識は脳内の量子力学的プロセスによって生じると考えています。この理論は、意識が物理的な世界とどのように相互作用するかを説明しようとします。

■ 高階思考理論(HOTs):  この理論では、意識的な経験は自分の心的状態に対する高階の認識または思考によって生じると考えます。つまり、意識は自己に関する思考の結果として生じるとされています。

 

ではここで一曲紹介♪ 聖ヨハネ賛歌「Ut queant laxis」です。「ドレミファソラシド」の由来となった聖歌で、各フレーズの最初の音節が前の音階よりも高い音階で始まることで、音楽的なスケールの6つの音を作り出し、六度音階の基礎を形成しています。

シンプルで静かな曲ですが、ドナ・スチュワートさんの歌声がとてもいいかんじです。

 

 

タウマゼインと「神の声」の喪失

ジェインズの仮説の話に戻りますが、ジェインズの考察には「いかにも西洋的な」と思えるような二元論が見られるのですが、興味深い部分もあります。

プラトン著『ソクラテスの弁明』の中で、『私の聴き慣れたダイモーンの声の予言的警告は、私の生涯を通じて今に至るまで、常に幾度も幾度も聞こえてきて、特に私が何か曲がったことをしようとする時には、それが極めて些細な事柄であっても、いつも私を制止するのだった。しかるに今度は、…私はそうした神からの警告のセーメイオン(徴(しるし))に接することがなかったのである。』

とありますが、このソクラテスの「ダイモーンの声」は、まさに「二分心」です。

ダイモーンとはデーモン(悪魔)の語源ですが、「ダイモニオン」は、神的な存在や警告の声としてソクラテスに現れたものであり、彼の行動が間違いを犯さないように導く守護的なものです。

ソクラテスのダイモニオンについて : 神霊に憑かれた哲学者

しかし、ダイモニオンは具体的な指示を与えることはなく、「しるし」として機能し、非人格的で神秘的なものであり、ソクラテスの内的な経験として存在していました。

「死刑」を言い渡されたソクラテスですが、執行までには一月ほどの猶予もあり、逃亡も可能だったようですが、ソクラテスは死刑をそのまま受け入れました。神はソクラテスの選択を制止しなかった、ソクラテスは「しるし」に接しなかったから、そのまま受け入れたのではないでしょうか。

 

ジェインズの「二分心」という状態において、人の意識は「神々の声」を出していた部分と、現代で言う「意識している心」とに分かれていたとし、古代人は神々の声、つまり内心の声に従って行動していたということです。

二分心時代の代表的な文献として、ホメロによってつくられた最古期の古代ギリシアの長編叙事詩『イーリアス』があります。

キリスト教的ヨーロッパにまとわりついている不寛容,宗派主義,狂信的異端審聞を見詰めつつ,私はホメロスにおけるヒューマニズムのはじまり,人間省察の深さ,繊細な情感を哲学的視界で追考したい
(中略)
キリスト教ヨーロッパはもっとホメロスから寛容と非教条性を吸収すべきであった。今日こそヨーロッパはホメロスから汲むものが多くある。何よりも哲学は学校・講壇哲学臭を脱して,文章による世界と人聞の深い(概念思考を脱した)自己形成から出直すべきである。
(中略)
私は古典学者ラインハルト (KarlReinhardt) が,ナチスの民族的(vδ1kisch) な偏狭な倣慢から脱するためドイツ人はホメロスをしっかり学ぶべしと実質(ナチス批判を声高に出すことなく)説いたことに大いなる感銘を受けたことも忘れずに付記したい。  ホメロス『イリアス.lI IFオデュッセイア」の精神史的考察

 

ジェインズによれば、現代では「二分心」はほぼ消滅し、「幻聴」などの現象がその痕跡をとどめているとのことですが、まぁ「幻聴」に関して二分心で説明するようなことは現代精神医学において肯定できるものではないでしょう。

 

ケンブリッジ大学でF.M.コーンフォードに師事していたヘヴロックは、ソクラテス以前の哲学の性質、特にソクラテス思想との関係について、通説に疑問を抱くようになった。

彼の最後の著作である『ギリシアの文芸革命』の中で、ヘヴロックは、自分が研究していた哲学者たちが使っていた言葉と、標準的なテキストで解釈されていたプラトン的な慣用句との間の矛盾に衝撃を受けたと回想している。

これらの哲学書の一部(パルメニデス、エンペドクレス)は詩で書かれているだけでなく、ミルマン・パリーによって口承詩人として最近(当時はまだ議論の余地があった)同定されたホメロスの音律で書かれていることはよく知られていたが、

コーンフォードやこれら初期の哲学者たちの他の研究者たちは、この慣習をヘシオドスから残されたかなり取るに足らない慣習であると考えていた。

ヘヴロックは最終的に、初期哲学の詩的側面は「様式ではなく実質の問題」であり、ヘラクレイトスやエンペドクレスのような思想家は知的レベルにおいても、プラトンやアリストテレスよりもホメロスと共通点が多いという結論に達した。 ➡ Eric A. Havelock

 

ロゴス」のもたらす作用によって、言葉や思考が明確な形で表現されるようになったこと、そして書記言語によって、人々は自分の考えを外部に記録し、それを再考することができるようになり、自己の行動や思考について「際限なく言語的思考で考える能力」が発達したともいえます。

 

人類の脳において、デフォルトモードネットワーク(DMN)は、大脳辺縁系と大脳皮質の間で情報をやりとりする働きを持ち、自己関連の思考や過去の経験から未来を予測するなどの重要な機能を担っています。    論文 ➡  自己意識の脳科学

DMNは狩猟採集の時代には、リスクヘッジとしての機能を果たしていた可能性があり、目の前の状況を理解し、経験から未来のリスクを予測し、現在の行動を変化させる役割だったと考えられますが、

書記言語による記録が自己反省と共有の基盤を作り、その結果「際限なく言語的思考で考えること」に支えられた「再帰的近代自己」が生じる。

再帰的近代自己とは、個人が自己意識を持ち、自己を他者との関係性の中で理解し、社会的な文脈において自己を位置づける能力を指します。このプロセスは、自己反省や自己認識と深く関わっており、DMNが活動する際に見られる思考パターンと一致しています。

社会学者アンソニー・ギデンズは、再帰的近代化において、個人が社会的、言語的な基盤に依拠して自己を含めた諸対象の意味を再解釈するという再帰性の概念を提唱しましたが、

この再帰性は、「個人が自己をモニターし、自らの意味を再審したり、行為の帰結が行為者自らに作用したりする自己再帰性、行為が社会構造に条件づけられつつ、同時に社会構造に影響を及ぼす制度的再帰性、さらに概念的言語的な媒介による認知的再帰性などが含まれます。

そして「際限なく言語的思考で考えること」によって言語の意味世界を無限に展開していくが、必ず有限性に引き戻されるという周期性が「人間のマクロとミクロの葛藤の歴史」を生み出していく。

この思考運動が負の形式で「個人」の意識内で無限ループしてしまうと、たとえば「鬱」の反芻思考という現象にも繋がる力学になってしまいます。

 

ico05-005 事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである - ニーチェ

ニーチェは、「言語という牢獄」という表現を使って、言語が現実を捉えるための手段であると同時に、私たちの認識を制限するものであるという考えを示しましたが、言語は現実を解釈するためのフィルターであり、それによって絶対的な真実には到達できない。

そして言語が社会的な構築物であり、権力関係によって形成されるとも指摘していますが、言語は特定の価値観や観念を強制し、それによって個人の思考や行動を制限することがあります。

 

このように、書記言語の発展は、人間の意識の在り方と密接に関連しており、「人間の根源的な問題」も生み出す両義性がある。

古代ギリシャにおいて、現代に通じる様々な「原初の思考の型」が見出されることは以前も書きましたが、「神の死」や「現代思想(ポストモダン)」の原初の型すら古代ギリシャに見出せるとする古東氏の議論もそのひとつでしょう。同時にそれもジェインズの理論と関連すると考えます。

 

『現代思想としてのギリシア哲学』 より引用抜粋

それにしても今日、現代思想のコンテクストのなかで、ギリシア哲学はとても評判が悪い。十九世紀はじめ前後にはあれほど憧憬されもし、ヨーロッパ文化の輝かしい原点として脚光をあびていたのに(ゲーテ、ヘーゲルなど)、今日では悪の源泉あつかいだ。

デリダやハイデガーやアドルノなど現代を代表する哲学者たちはこぞって、合理主義や人間中心主義や進歩思想のベースをつくったのはギリシア哲学であり、そのことが結局、現代世界の過誤や行き詰まりの元凶となったとして、ギリシア哲学をきびしく指弾する。だが、よく調べてみると、驚いてしまった。ギリシア哲学の誕生の状況が、実は現代の時代状況ととても似ていたからである。

 

ギリシア哲学の現代性

たとえば神の死の問題がある。哲学に先立つギリシア神話。それは、神的なものを擬人化する物語。神(神的なもの)の擬人化とは、神を人間的で地上的なものに化すること。つまり神の非神化。その意味で、ギリシア神話とは、神話というその名に反して、実は神の殺害のおとぎ話である。

そのおとぎ話が剥落し、自然というデイノーン(異他的なもの・もの凄きもの)に直撃された「神の死の後」の痛苦の精神状況が生じる。死んだ神に替わるある新しい至高性を確保する必要が、精神史上あった。こうして生まれ出たのが、タレスをはじめとする古代ギリシアのコスモロジーである。

あるいはすでに二元論思考の限界が気付かれ、それを突き破る新しい言説論法が模索されている(ヘラクレイトスの逆理論法、ソクラテスのエレンコス)。進歩思想や相対主義に染められた古代の「近代人」ソフィストたちとの激しい思想闘争を生きた、ソクラテスやプラトンの「ポストモダン」ぶりも見逃せないところだ。 - 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 『現代思想としてのギリシア哲学』

 

私は「意識の起源」に関してはジェインズの理論のように単純なものとして捉えてはいませんが、「西洋の思考の原初的な型」がギリシャにあり、それは形を変えながら現代にも思考の古層においては継続していると捉えています。

また、それは「現代的な自我意識」を支える西洋的元型のひとつだと捉えていますので、その意味においては「起源」ともいえますが、「原初の状態」に変化が生じたのは古代人ギリシャより遥か以前であり、それ以前のヒトは「ジェインズの考える意識以前の状態」のさらにそれ以前、あるいは「それ以外」を生きていたと捉えています。

このカオスな原初の状態、ヒトの多様性は、西洋の思考の型では捉えられない質のため、東洋の思考の型の方がまだ深く捉えているとは思うのですが、まぁ長い学問の歴史で形成された分厚い西洋の権威性は、もはや巨大な地層構造になっているので、頭と心の柔らかい人以外は、パラダイムシフトは無理ともいえるでしょう。

 

それはともかく、「声の文化と文字の文化」ウォルター・J. オング、イギリスの古典学者のエリック・アルフレッド・ハブロック、そして先に挙げたジェインズの研究は、書記言語が人間の思考、自己認識、そして文化の発展に与えた影響を異なる角度から捉えており、理解を深める点で互いに補完し合うものといえます。

オングは、「手書き文字の視覚主義」が科学論理学を生み出し、「印刷文化」が思考の空間化量化をもたらしたと指摘しています。これは、書記言語が抽象的な思考や論理的な分析を促進するというハブロックの見解と一致します。

ハブロックは、書記言語が古代ギリシャの哲学や科学の発展に重要な役割を果たしたと述べており、これは書記言語がより複雑な思考プロセスを可能にするというオングの主張と相まって、書記言語の発展が人類の知的進化に不可欠だったことを示唆しています。

一方で、ジェインズの理論は、書記言語による記録が自己反省と共有の基盤を作るという点で、オングの研究とも関連しています

ジェインズは、意識の起源を言語の発展と密接に関連付けており、書記言語が個人の内面的な思考を外部化し、他者とのコミュニケーションを可能にすると考えています。これは、オングが指摘する『印刷文化による「声から文字への移行」が、個人の思考を社会的な文脈で共有可能にした』という観点と一致します。

 

しかしあまりに言語的思考が優位になり、言語の意味世界に囚われてそれと一体化してしまうことによって、人間は神話を生み出す力を失い、詩を失い、世界と分離し、生と感応する力を失い、「存在へのタウマゼイン(万物への畏敬の念)」を失い、大地の感覚を喪失した。

かつて(神)・(大地)・(ヒト)はひとつだったが、「天」は言語的な牢獄となり、「ヒト」は「パノプティコン化した社会」によって分離した個人(ニンゲン)となり、高度文明化によって大地とも切り離された。

それは「動物化」ではなく、天・地・人のいずれとも不調和で分離した「家畜化」であり、野生とは程遠い存在。「動物」と「家畜化した人間」は全く質が異なり、社会に分離一体化した個人(ニンゲン)は、もはやその違いすらわからなくなってしまったが、その状態を私は象徴的に「ヒトの死」と呼びます。

 

ico05-005 あくまで大地に忠実であれ、そして、きみたちにもろもろの超地上的な希望について話す者たちの言葉を信ずるな! - ツァラトゥストラ

ツァラトゥストラは、プラトン主義や伝統的な形而上学を論じる背面世界の論者、そして身体を軽蔑する人々を批判し、魂だけを重視し肉体を軽蔑する考え方に対して、肉体の重要性と根本的な価値を強調し、肉体は「大きな理性」そのものであり、精神は肉体の「道具」に過ぎないとしましたが、

この考え方は、ニーチェが肉体を単なる器官や機能としてではなく、全人格の表現として捉えることを示唆しています。肉体と精神は分離不可能なものであり、肉体を通じてのみ真の精神活動が可能であるという視点から、肉体を軽蔑することは、人間存在の根本的な側面を否定することに他ならないと考えていたのですね。