同族嫌悪と党派性バイアス 「当事者」の政治的な選別と分断 

草津町の事件、それに共感し一緒に騒ぎ立てた人たちはどこまでも感情的で暴力的だった。あの事件だけではなく他にもいろいろありますが、「気に入らない他者」を卑怯なやり方で陥れて、事実確認すらせずにひたすら感情的に叩くだけ、もうだいぶ前からそういう先鋭化した流れになってしまっているんですね。

 

 

これは以下のニュースも同様ですね。

大量の証拠をちゃんと見ることもせず、証言を聞いてもいない人たちが、女性が嘘をついていたという判決を受け入れる記事を出すことを恐れているだけだ。これは、「#MeToo」がもたらした副作用ともいえる。 ➡  DV疑惑晴れたジョニー・デップ叩くメディアの罪 女性が嘘をついていたことを認めようとしない

 

もはや理性も失った異様な攻撃性は原始的防衛機制の次元。防衛機制の次元が集団の単位で下がるほど先鋭化、カルト化していく。コロナ禍になって防衛機制がより低次の状態になったり酷くなることは予想していましたが、たかが数年でここまで退行してしまうとは..。

まぁとはいえみながみな極端で悪質というわけではないけれど、かなり慢性化している「群れ」が観測されますね。ここで、参考として明治大学の研究「人類の本性は暴力か平和か?—いじめ研究を用いて、どちらでもない第三のモデルを解明」を紹介します。

 

「人類の本性は暴力か平和か?—いじめ研究を用いて、どちらでもない第三のモデルを解明 文学部 内藤朝雄准教授」 より引用抜粋

ポイント
■人類は、進化の過程で、環境に応じて平和相と暴力相の二相に変異する性質を獲得したと考えられる。

■二相に変異する主要単位は個人ではなく、複数個人のあいだで作動する心的メカニズムの連結のまとまり(IPS: Intrapsychic-Interpersonal-Spiral)であり、個人はこの中に埋め込まれて相変異する。

■これまで主要根拠とされた考古学や人類学の知見は完全ではなく、人間を特殊な集団生活のなかで激変させる実験が有用であるが、倫理的に許されていない。しかし学校のいじめをモデル現象として観察し、実験の代用とすることができる。
(中略)
【掲載稿事例1より】「友だちと群れていると、こわいものがなくなる。気が強くなり、安心して暴走し、いじめが止められなくなる(男子生徒)。友だちに「あの人嫌い」って言われると、何かそれがうつってしまう(女子生徒)」

このような状況では、群れの場の情報(ムード)が人格統合や自他境界をとびこえ、人の心的メカニズムの作動系と内的モードを切り替えています。そしてそのように切り替えられた人たちが群れて場の情報が刻々と生み出され続けます。秩序と現実感覚が別のタイプにとってかわり、生徒たちは別の存在相に群塊(IPS)ごとひとまとめに変わります。

この変化を示唆する有用なマーカーとして、外部の世界では尊いとされる人格や人間の生命を、集団生活のなかできわめて軽く扱うようになる現象を用いることができます。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 人類の本性は暴力か平和か?—いじめ研究を用いて、どちらでもない第三のモデルを解明 文学部 内藤朝雄准教授

 

↑に、「友だちと群れていると、こわいものがなくなる。気が強くなり、安心して暴走し、いじめが止められなくなる(男子生徒)友だちに「あの人嫌い」って言われると、何かそれがうつってしまう(女子生徒)」とありますが、

「党派性」における内集団・外集団バイアスにおいても同様のことが生じます。またこれは学歴・肩書等関係ありません。「群れ」の力学と「感染」の力学に関しては、主に「カルト」をテーマに多元的な考察をした過去記事があります。そこで「群衆心理」を考察した社会心理学者ル・ボン氏を紹介しています。➡ 集団心理の暴走 ルサンチマンの多元性

「カルト」という概念は、もともと宗教的なものですが、しかしカルト教祖もカルト信者も「人間」であり、進化心理学、社会心理学的な力学が働いています。そこに「人間の群れ」がある以上、「群衆心理」が働きます。

なので「個々の人間」及び「群衆心理」が暴走するとき、組織宗教であれ、その他の集団であれ、「カルト的な質」になることがあります。「カルト的な質」=「カルト宗教」ではありませんが、「部分的に同じ要素を共有している」ということ。

高学歴集団がカルト組織で暴走していったように、アカデミア、学者、専門家等も含めて「カルト的な質」になることがあります。

 

原始的防衛機制幼児的万能感は乳幼児だけではなく、境界性パーソナリティ障害(BPD)反社会性パーソナリティ障害(ASPD)、またはカルト等においてもみられます。

カルトをテーマにした記事は過去にも書いていますが、「人格障害+政治的正しさ」に比べればカルト宗教の人たちほうがまともであるとすら考えるようになってきました。それほど酷い。

「バットマンが警察呼ぶレベル」というか、『カルト信者でも「それはちょっとやりすぎでは」と諫めるレベル』という感じです。

「宗教には見えない宗教」の方が信仰の両義性に気づきにくい、というだけでなく、それが今主流の政治正しさに基づくルールであれば、それに従っているだけで正しい側となり、社会もそれを否定しないため、自身の暴力性を自覚できなくなる。

BPD患者は自分の感情・欲求を中心に世界を見ており、他者の視点を考慮することが難しいことがあります。そしてカルトにおいても特に教祖は幼児的万能感を強力に有し、自分が全能であり、外界をコントロールできると信じています。

「嘘」にも可愛い次元のものや、人を傷つけまいとしてつく嘘など多元性がありますが、草津町の事件における嘘は、無実の相手に対してどんな汚い手を使っても社会的に潰そうとするためのもので、その次元はもはや人格障害を疑われるほどのものでしょう。

そしてそれよりも驚いたのは、あのような次元の悪質な言動を人文系のアカデミアまでもが擁護することです。以下のツィートの考察、3年前のツィートとしてみればなかなか鋭いですね。

 

しかし「無自覚なメンタルヘルスの問題を抱えている人」よりも、そういう人を「お目覚め」させて扇動している側の方が悪質なんですね。当初は低次の防衛機制が優位だった言語空間が、ここ数年で原始的防衛機制や幼児的万能感に満ちたものになってきています。

いうなれば人文呪術師たちが、他者の不満や様々なネガティブな感情を「概念」という呪術で囲い込み、「他者の意識を怨霊化させている」という風にも比喩できます。

他者の意識を怨霊化させ、敵(政治的に対立する側)にぶつけるという政治的な呪霊操術であり、その術式名は「ジャーゴン・チェリーピッキング・レトリック・ダブルスタンダード」ですね(笑)

ところでウィニコットのいう「ほどよい母親」という考え方は古典的なものですが、今でも通用しますね。「甘さと厳しさ」にはバランスがある。無限にどちらかだけを極めようとすると全体が壊れれる。

昔は男性原理に傾きすぎていましたが、今は女性原理に傾きすぎて、陰陽のバランスが崩れています。「ほどよい包摂」ではなく、どこまでも不快刺激を与えないように生から否定性や偶然性を排除して「無痛の生」に向かう、そのような家畜アサイラムの全面化が進行している。

 

たぬかなさん、「弱者男性合コン」は賛否両論あるようですが、まぁそれは置いといて、下手な芸人よりもトークが面白いし、貴重なキャラだと思いますね。このスタンスというか、これが出来る人はなかなかいないんじゃないかなぁと思います。まぁあくまでエンタメの次元での話ですが。

 

何らかのパーソナリティ障害ではない人の場合、たとえば専門家とかアカデミアの場合、「性的魅力がない高学歴女性のルサンチマン」が原動力のひとつになってるケースもあるでしょう。「加齢によって」とかではなく、コンプレックスが未消化のまま私怨化している人たちという意味。

インセルがたまに無敵の人になることがあります。無敵の人という形の祟り神は男性に特有ですが、祟り神は女性もなる場合があります。そのひとつが「先鋭化した一部のフェミニスト」です。あれは女性の祟り神の一種ですね。

どちらも「呪い」が全身に回って何かを呪うことしか出来なくなっている、という点で同族です。だから何かを呪っている弱者男性を嫌う。逆に弱くても心根が優しい人は同族を嫌いません。弱くて他罰的な人、コンプレックスがあって自己嫌悪している人らが自己投影でそうします。

この場合の「同族嫌悪」では、お互いに身体的なものに由来する能力や非言語的な能力が乏しいが、「言語的知性」は高めだったりするので、「言葉」で延々と衝突する関係になりやすい。「先鋭化するフェミニスト」=「女性版インセル」で、平たく言えば「イケてない女性のルサンチマン」が変質したものですね。

よって「ミソジニー呪霊」と「ミサンドリー呪霊」は、共によく似た怨霊で呪霊操術は異なりますが同族嫌悪します。

 

単純なステレオタイプなメッセージによって行われる社会運動が、他者の多様な視点や在り方を逆に排除したり抑圧することがある。

より先鋭化すると、特定思想に基づくモノロジック、ステレオタイプ思考で他者を裁くようになっていきます。スラップ起訴やキャンセルカルチャーが、特定集団の党派性で政治的に使われ、気に入らない他者、反対する他者を私刑にする道具に使われるのもそういう短絡的な思考の結果です。

党派性バイアスは、自分の支持する政党や思想に都合の良い情報を選択的に受け入れたり、都合の悪い情報を無視したりすることで生じます。その結果、自分の政党や思想に反する情報に対しては批判的になり、自分の支持する政党や思想に一致する情報に対しては肯定的になる、そうやって強化されていきます。

自分の支持する政党や思想だけは常に正当化し、他者の支持する政党や思想を常に否定し続けることで、ある種の満足感、自尊心、仲間意識、帰属意識等を得るようになります。

 

政治的なエボシ「男叩きをやめて、女叩きをやれというのか!」 政治的なアシタカ 「違う!男性と女性、双方生きる道はないのか?」 政治的なジコ坊「あいつ、どっちの党派なのだ・・・」

 

ところで電荷には正電荷と負電荷がありますが、男女は電気の陰陽よりも磁気の陰陽の方に質が似ていますね。それは電荷は正負が別々に存在しますが、磁気はSとNが必ずペアで存在するところです。男性原理と女性原理もペアで存在する原理です。

フェミニズムによる男女の分断を見ると、「男性原理を内面化した女性のルサンチマン」対「男性」の構図で、言い換えれば「弱い男性原理」対「強い男性原理」なんですね。構図としてはNとN、あるいはSとSしかない世界です、だから永遠に反発しか生まれない。

目で見えるものだけを見ていると「男性と女性の対立」のように見えますが、それはフェミニズムが引き起こした分断であって、男性原理と女性原理はそもそも対立する関係ではないんですね。陰か陽の一方だけでは存在できない、お互いに支え合っている陰陽の世界は相互依存的で相互補完的な関係です。

男性のもつ傾向性、嗜好性、選好ゆえに生まれた文化を女性も同様に享受したい、というのは男性のようになりたいというルサンチマンでしかありません。「男性の身体」がベースにあって初めてそれは調和したものとなる。

女性は「女性の身体」をベースに女性にしかない文化を新たに生み出すというのであれば、それはルサンチマンではなく創造です。そうであれば男性の文化とはそもそも異なるので、「どちらが優れているか」などと比較する必要はないのです。

オタクの凄いところは、あれだけ蛇蝎のごとく世間から嫌われていた抑圧の時代の中で、陽キャ・リア充に匹敵する独自の陰キャ文化を創造したところです。そうやってルサンチマンを昇華し、今では陽キャ・リア充すらその文化を楽しんでいて、日本を超えて世界に拡大している。

ルサンチマン次元で留まり燻っているような状態でオタクを叩いている場合ではないんですね。男性の劣化コピーみたいなミームの編集やcoverばっかりやってるから、いつまでたっても「本家でありオリジナルである男性文化」を過剰に意識して戦っちゃうんです。

男性と張り合わず、自分たちが本家でありオリジナルである文化を創造すればいい、ということです。

 

「当事者」の政治的な選別と分断

日本型フェミニズムの党派性バイアスがもたらす負の力学は既に様々な方面に及んでいる。しかしそのバイアスの強さを指摘している学者は今のところ少ない。そして「党派性に囚われた専門家」というのは、「共感しない当事者や属性の心の痛みやトラウマ」には何も感じないみたいですね。

フェミニストを自称する人や左の活動家は、「○○はネトウヨだ!○○はヘイトだ!」を連発しますが、自分たちこそが「気に入らない弱者や当事者」に対して二次障害になりかねない憎悪に満ちた暴力的な言動を加えていることがあります。

アンチ○○の人々の中には「発達障害やアダルトチルドレン、様々なトラウマを負った弱者男性」もけっこう含まれています。その中には既に二次障害のようになっている状態の人たちが観察されます。そういうことがあってアンチになっているのでしょう。

それを専門家や学者の人たちはスルーし、女性及び特定の属性に対してのみ二次障害にならないよう配慮しています。

またSNSでは一部の当事者が代表者のような顔をして声を上げているけれど、「当事者」は同じ意見、要望、思い、政治性をもつ一元的な存在ではなく、様々な差異がある。だから専門側がその差異に対して中立でない場合、自らの政治性によって当事者を分けることにも繋がる。

「特定の属性・当事者に肩入れしたい専門家」や「政治をやりたい専門家」は中立が邪魔になる。そして観察しているとこういう人はたいていが左派で、「他者」を政治に巻き込んでいる。

「Aという当事者が○○に傷ついて怒っている」だから「自分(専門家)も○○に怒る」、「何故ならそれが当事者にとってより良い社会を作っていくことに繋がるからだ」という理屈は一見「当事者のため」のようにも聞こえます。

しかし、「Aという当事者とは正反対のことに怒っているBという当事者」に対してどうするのか?(実際にそういうケースはあります)。そして「Bという当事者」もトラウマや苦悩があり、人権を持つ個人である。

にも拘らず、専門家側の政治的都合・価値基準によってAあるいはBのどちらかの声にスポットを当てるかが判断される。この「ジャッジの恣意性」は誰にでも生じうるとはいえ、「誰がそうするか」で作用の大きさが相当に異なる。

「ジャッジをする側」に権威性があったり「共感されやすい属性」の場合、メディアはそれをより多く取り上げ、彼ら・彼女たちの良し悪しの基準で物事が解釈される傾向を強めていく。こうやって特定の属性に優位な形で解釈が行われ、都合の良い結論に導かれる。

このように、一見「当事者のため」のようなことを語る専門家や支援者は、自分たちの価値基準や政治的正しさを補強するために「当事者」を選別し政治利用していることがある。

党派性でしか「他者」をみていない、みようとしない人は、「当事者が傷つくから」「当事者のために」を大義名分にすればなんでも正当化できると思ってるのかもしれませんが、

その「当事者」とやらは単一ではなく、みなが同じ思いや考えではなく、「何に傷つくか」「何を価値とするか」「何を求めているか」もそれぞれに異なります。また「特に明確な主張がない、定まっていない人」もいるでしょう。

なので「専門家は当事者の声に寄り添い配慮し行動するべきだ」とか「個人的なことは政治的なこと」という考えに基づいて行動する場合、「どの当事者の主張・声に対してそうするか」の「選別次第」でそれぞれ対応が変わってしまう、はずなのですが、

特定の政治的正しさで方向性を先に決めている専門家はそれだと不都合が生じるので、「どの当事者の声にスポットを当てるか」を選別するんですね。そうやって専門家がアジェンダ設定みたいなことをやってさらに分断を強化している原因になっているわけです。

「ヒトラー髭をつけた安倍総理の写真」をドラムに張り付けて楽しんでいる姿、それを応援する人々、まぁ政治的に対立する野党がパフォーマンスとしてそうするというのは自由でしょうが、

あのような事件が起こった後に対人援助職の専門家がそうするのであれば、「そこにも当事者がいるし、深い傷を負った他者の心がある」ということへの配慮に欠けている姿勢だとは感じますね。

その一方で、たとえば野党と連携してAV業界そのもの否定することを積極的に支持したりする。この手の専門家は方向性が決まっているから、「AVという仕事でトラウマを負った当事者(女性)」の意見だけに積極的にスポットを当てる。

しかしこのような党派性でしか思考していない姿を対人援助職の専門家がみせるとき、人文系の一部のアカデミア同様に、「ああこういう人こそが己が解釈や価値判断を特権化したい人なんだろうなぁ」と思います。

そして「自分は絶対正しい」と思っている人たちなんでしょうね。

AV業界にいる女性だっていろいろいるでしょうし、「何がトラウマになるか」は女性によっても違う。ある業界でトラウマが生じた、ある仕事で心身に深刻な傷を負う、というようなことはAVに限らず様々な職業でありますが、だからと言って「その業界その職業そのものを全否定する」なんていうのは職業差別に過ぎない。

どんな仕事だってそれを誇りに思って働いている人、その仕事が好きで働いている人だっているし、その人たちが「仕事とは別の理由」でメンタルの問題を抱えることもある。そうしたときに心の専門家から「あなたの職業を我々は肯定してはならないんです」なんて聞いたら自尊心が傷つくでしょう。

でもこういう人ほど「己の一方的なジャッジ&レッテル張り」には無自覚なものなんですね。また野党と連携した社会運動に強く賛同し支持している人たちは、まるで信者のように一体化して一斉に動く。

「女性支援団体 、原発の処理水、ジャニーズ、新聞記者NGリスト..」等々、全て同じタイミングで反応し同じ意見で固まっている完結思考。

 

ところでシンホリさんって、思考にゆらぎの幅があるんですよね。たまにポロっといっちゃうのが面白いです(笑)。

「完全にブーメラン」ジャニーズ会見“NGリスト入り”記者が自身の講演会で“NG媒体”を作っていた

 

「相手だけでなく自分たちにも非があったり、同質の要素を持っている」という「見たくないもの」も見る、というのが出来ているのであれば、他者を単純化して特定属性だけを原因・責任の主体にしたり叩いたり出来なくなるはずなんです。

しかし「運動」が自分の仕事や理想、利益や自己実現等と結びついている人は、面倒な考察をショートカットして単純化した方が都合がよく、その方が楽で簡単なんですね。だから「不都合な事実」「不都合な声」はしっかり見ようとも聞こうともしない。だから今のような有様になる。

 

このように、一方では「他者の心」というものをぞんざいに扱っておきながら、他方ではどこまでも配慮する、そんな選別をする対人援助職をみたとき、当事者の中には失望する者も現れるでしょう。

しかしその失望の語りが直接その専門家に届けられることは少ないでしょう。多くは物言わぬまま去って行く、そういうものです。

「自分が絶対正しい」と思い込んでいる専門家というのは、自分の政治的方向性、例えば「自分が支持する政党の運動を肯定する形になる当事者の声」を優先的に紹介したり、「これが聞くべき当事者の声です!」みたいにして「誘導」するようなことをします。(本人は「啓蒙」のつもりでしょうが)

『対人援助職というのはある特定の属性にとってのみ存在し、あるいは特定の属性を「優先的に」支える存在なのか?』、だとするなら「対人援助職は他者をイデオロギーや属性で選別しジャッジして分けている」ということになります。

メディアはもちろん、専門家たちも、こういうところにはスポットは当てません。アジェンダ設定によってあらかじめ「自分たちに不都合な異論」は排除されている。そしてこの手の選別、その背後で一方的に行われている「専門的権威側の権力的・政治的なジャッジ」は不可視化される。

しかしこういう「党派性による他者の選別」が続くと、「当事者の分断」がもっと深刻になっていくでしょう。