セイラムの魔女狩り 「伝わりやすい単純化された二元論」 

2018年から始まったポッドキャスト番組『Modern Wisdom』第665回目のエピソードで、クリス・ウィリアムソンがコーリー・クラーク博士と対談し、学術心理学における自己検閲やジェンダー・バイアスについて議論した。

クラーク博士は、ペンシルバニア大学の社会心理学者でありヘテロドックス・アカデミーのメンバーで、彼女はジェンダーや政治的なバイアスに関する研究で知られている。

対談の中で、クラーク博士は以下のようなトピックについて語った。 「アカデミアは必ずしも知的純粋さと真実の砦ではなく、女性嫌悪という概念は現代西洋社会においてはほぼ神話である」と主張し、彼女は「多くの場合、人々は様々な領域で女性に有利な方向へ偏っており、男性よりも女性の方が良く扱われることが多い」という研究結果を紹介した。

 

話は変わりますが、最近のSNSは話題が変わるスピードが加速していますね、「港区女子」なんたらの話題なんて一年前くらいな感じにもう忘れ去られています。

「港区女子」なんたらの話には何の興味もないのですが、AIで「港区女子」と他のワードを組み合わせて何枚か画像生成してみたらこんなのが出てきました。なんか凄く怨念が強そうで、特級呪霊の雰囲気を感じます。

 

 

では本題に入る前にまず一曲♪ マントラミュージックの紹介です。ベトナムの女性歌手Tinna Tinhさんは、捷克国立音楽学院で声楽を専攻し、その後、真言密教の修行を経て、マントラミュージックを伝える活動を始めたとのことですが、

真言(マントラ)を曲にする人は数が少なく、しかも見事にアレンジしていてお気に入りです。特級呪霊も祓いそうなオーラ。スタジオが領域展開みたいになっています。

 

 

セイラムの魔女狩り 「伝わりやすい単純化された二元論」 

社会正義運動の現状を「セイラムの魔女狩り」になぞらえたのはAndrew Doyleという作家で、彼はオックスフォード大学で初期ルネサンス詩に関する博士号を取得し、Spikedというインターネット雑誌で定期的に執筆してる北アイルランド出身の劇作家、ジャーナリスト、政治風刺家です。

彼の考察によると、以下のような点が共通していると言えます。

セイラムの魔女狩りでは、無実の人々が魔女として告発され、拷問や処刑にさらされました。社会正義運動では、無実の人々が人種差別や性差別などの罪でキャンセルされ、名声や仕事を失ったり、暴力や脅迫にさらされたりします。

そして告発者は自分の信念や利益に基づいて虚偽の証言を行いました。社会正義運動では、告発者は自分のアイデンティティやイデオロギーに基づいて虚偽の主張を行うことがあります。

告発された人々は自分の無実を証明する機会が与えられず、反論や弁明ができませんでした。社会正義運動では、告発された人々は自分の無実を証明する機会を潰したり、反論や弁明を一切認めなかったりします。

告発者は自分たちを道徳的に優れた者と見なし、異なる信仰や価値観を持つ者を悪と見なしました。そして社会正義運動においても、告発者は自分たちを道徳的に優れた者と見なし、異なる意見や立場を持つ者を悪と見なします。

以上のように、Andrew Doyleは社会正義運動の現状をセイラムの魔女狩りになぞらえることで、その非合理性や危険性を指摘しています。

まぁ↓この動画でも、「魔女狩り的な言いがかり」の風潮を指摘していますが、根がなくとも花は咲くというより「問題のないところに問題を無理やり作る」というような不毛な敵意、それがいたるところに侵入してきている。

 

 

以前紹介した「ハーバード大学の経済学者であるValentin Bolotnyy氏とNatalia Emanuel氏の研究」は、マサチューセッツ州ベイ交通局のデータを用いたもので、この研究では、「男女間の賃金格差は差別ではなく選択の違いによるものである」と結論付けられました

この結論は、ノーベル賞を受賞したハーバード大学の教授であるクラウディア・ゴールディンの主張と類似しています。

しかし、(それ以前に)クラウディア・ゴールディン教授の語りに感じたことは、「他責的・断罪的ではないこと」、「極端ではなく、全否定も全肯定もしないこと」、「感情・私情で学問を扇動的に使わないこと」です。

これらの基本姿勢をしっかりと持ったうえでの「聡明さ」を感じました。

「テキストを読む」、「テキストの内容」も大事ですが、やはり最近の日本のSNSやメディアで目立つ一部のアカデミア、専門家、知識人等の言動の傾向性、その攻撃性・党派性を見ていると、「テキスト以外、それ以前にも大事なことがある」と改めて感じますね。

このような専門家・学者が増えればもっと具体的な形で物事が進みそうですが、残念ながら日本のジェンダー界隈、フェミニズム界隈においては、このような聡明で公正な感覚をしっかり持っている専門家・学者が主流になることはありません。

ゴールディン教授は、男性が常に優位であるという「特権理論」を支持しているわけではありません。彼女の研究は、男女の賃金格差や女性のキャリアアップに関する社会的・経済的要因を分析し、女性が直面する障壁を明らかにすることを目的としています

奇妙な「男性特権論」を乗り越えるために。

 

BBC Travelの記事「The five countries emigrating families love」によれば「2020年の合計特殊出生率」において、日本は1.34、エストニアは1.58、スペインは1.23、フィンランドは1.37、オランダは1.55であるとされていますが、

日本とほとんど変わらないフィンランド(1.37)をみればわかるように、出生率というのは単純に育児環境が良い悪いとかそういう問題ではないんですね。とにかく「○○が悪い」という属性批判にしたい運動家・活動家、その手の専門家による物事の単純化がかえって問題の様々な力学を見えなくしているのです。

ですが「男性優位社会が~」「特権が~」「抑圧が~」「○○搾取が~」みたいな単純なステレオタイプなメッセージの方が、認知負荷が少なく複雑な思考を必要としないので伝わりやすいんですね。

属性単位で常に一方だけを加害者、もう一方を被害者に固定することはできません。また構造も一元的ではありません。問題を単純化するほど逆に見えなくなるもの、隠されるものがある。

 

「白い羽根運動」は、1914年にイギリスで始まった、女性参政権運動の一環として行われたキャンペーンです。この運動は、男性に白い羽根を贈り、臆病者として非難することで、男性を戦場に送ることを促すものでした。南北戦争時には、南部の女性によって「戦争に行かない男とは結婚しないキャンペーン」が張られ、戦争に反対する男性と対峙したことがありました。

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「伝わりやすい単純化された二元論」が生み出した余計な軋轢や反発が闘争を生み出し、それが先鋭化してさらに軋轢や反発を生み出していく。そういう運動を扇動したり、それと連携してきた人は、深みにはまって引き返せなくなる人も出てくる、そして不毛な無限ループに陥る。

さらに己の活動や主張を正当化するために不毛な無限ループに他者を巻き込んでいくから、闘争が延々と終わらない。

「文化、制度、法律が異なる他国と単純に比較して語れない問題」を単純化した構図で原因を一元化して白黒二元論を語る人は多い。

さらに「運動と生業・仕事が結びついているような人」は、自分にとって都合がいい主張、語りに賛同する場合が殆どでしょう。そこにはゴールディン教授のような聡明な人はまずみかけません。

聡明な女性は、草津町を「セカンドレイプの町」と呼んだり、それに安易に同調するようなことはないでしょうし、萌え絵叩きみたいな「お気持ちジャッジ」はしないでしょう。

 

ひとつの物事・現象の背景にある多元的な力学、両義性を丁寧に考えていくプロセスはとても大事です。それなしに「単純化された社会イメージ」によって「現実の複雑な社会」を一方的に強引に変えようとなんてすれば、それは「暴力」にしかなりません。

「自動ドア」だの「特権」だの、そういう雑な単純化で複雑な構造を単純化し、特定属性にレッテルを張って外集団化するインテリたちの言動というのは、自ずと社会を分断化させ他罰的で暴力的な圧力団体を生むひとつの力学になっていきます。

これは、フェミニズムが先鋭化し、男女対立や敵対を煽るようになったことを示しています。

「声を上げる」という多元的な行動の中に、単純に「トーンの強弱」の範囲で片付かない質があり、その中にはトーンポリシングすることよりも遥かに悪いものがある場合もあります。

大きな声で「黙れ!」と恫喝することや、気に入らない人を私刑することは、トーンポリシングよりも現実に他者に損害・苦痛を与え、具体的な形で人権侵害につながっています。

『集団で「大きな声」で「威圧」して「異なる他者の声」を封じ込めている運動』は、それ自体が「排斥」や「抑圧」にも繋がっているということ。

「トーンポリシング」という概念がステレオタイプ思考化すれば、今度は逆に「○○はトーンポリシングです!と決めつけることで相手の声、主張をネガティブにラベリングして抑えつけるというトーンポリシング」になってしまい、けっきょく同じことをやっていることになります。

同様に、「○○は差別主義者だ!」とか人権とか多様性やインクルージョン等においてもそうで、党派性やモノロジカルな価値基準に拘るあまりに、そういう概念を多用・乱用する人こそがむしろその姿になっているということですね。