幸福と不幸のタテマエとホンネ 「集団錯覚」と「あなたらしさ・私らしさ」
今日は幸福と不幸の理屈の「タテマエとホンネ」がテーマです。そしてそのことと関係が深い「集団錯覚」と、「あなたらしさ・私らしさ」というテーマも含めて書いていきます。
以下の記事は、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(慶應SDM)ヒューマンシステムデザイン研究室の前野隆司さんのブログからの引用です。
「Takashi Maeno’s blog」 より引用抜粋
「幸福と不幸の因果関係ループ図(人はどうすれば不幸から抜け出せるのか!?)」
要するに、現代社会では、不幸から抜け出せない人たちがいる(右下の悪循環のループ)。それから、間違って地位財(positionalgoods)が幸せへの道だと思って目指すがそれは間違いであるというフォーカシング・イリュージョン(間違った方向を目指してしまうこと)を繰り返す人たちがいる(左下の悪循環ループ)。
彼らが「不幸」や「間違った幸福を目指す不幸」から抜け出すためには、うまく、幸福のコツ、すなわち、我々が研究で求めた4つの幸せの因子(非地位財(non-positional goods))を目指す方法を身につ
ければいいのではないか! そう思うのです。4つの 因子とは:第1因子 「やってみよう!」因子 (自己実現と成長の因子)第2因子 「ありがとう!」因子 (つながりと感謝の因子)第3因子 「なんとかなる!」因子 (まえむきと楽観の因子)第4因子 「あなたらしく!」因子 (独立とマイペースの因子)
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「集団錯覚」と「あなたらしさ・私らしさ」
では先に紹介した4つの幸せの因子が何故タテマエ化し、実際には社会的な規模で健全な形では実現しえないことなのか、そのホンネの部分を因子ごとに順番に書いていきます。(個人的・少数単位では、もちろんこれはあり得ます)
第1因子
「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
これは若い人には特に必要です。ですが実際はこの因子は全く伸びない社会になっています。「空気」と「先行き」ばかりを気にし、ホンネをあらわにしない自己保全状態です。
それは、『目立つことをするとスグに上は潰しに入り、同胞は足を引っ張り合い蹴落とし合うような大人の社会によって、そして「教育」だの「教養」だのと、勝手に「この世の正義」「世の中の正論の代表者」になっているつもりの大人たち』によってそうなっているのです。
「やってみよう!」なんていう気軽な挑戦的姿勢には失敗や脱線がつきものです。その失敗や脱線を微塵も許さないで、みなで食ってかかる集団ヒステリー社会では「挑戦的姿勢」は委縮します。
小賢しい人々の難癖合戦しかり、そして神経過敏の不満タラタラの親や大人の「細か過ぎるクレーム意識」は、常に集中攻撃する対象の登場の機会を窺っているわけです。
ですので、このような社会の集合的な意識の中では「やってみよう!」とう因子は育たず、「多くの人がやってないことはとりあえずやらないでおこう」という「リスク回避」の因子に変質するだけでしょう。
第2因子
「ありがとう!」因子 (つながりと感謝の因子)
よく「感謝をしなさい」、「感謝を持て」などと社会はさも立派な道徳のように上から目線で正論を吐きます。もちろんこの感謝というものは大切な因子です。私自身、毎日5つ以上のことに感謝を捧げる習慣を持っています。
ですがそれは自発的に自然に生まれたものであり、強制や要請でそうしているのではなく、また感謝を捧げることで運が良くなるとか、御利益を狙っているのでもないんですね。
本当に感謝しているから、そしてその有難みを忘れないよう生きたいからそうしているだけなのです。
ですが実際は社会はどうでしょうか?感謝とか何とか言いながら互いに蹴落とし合い嫉妬や文句ばかりの在り方で、大人も若者もイガミ合い馬鹿にし合って敵対し合っている光景によく遭遇します。
そのような状況にあって「ありがとう!」因子を高めよう、というのは精神の二重基準となり、それによってますます心が分裂化するのがオチでしょう。
つながりと感謝の因子と言う前に、今の社会に心と心のつながりは本当にありますか? そこに人への自然な敬意や寛容さ、そして互いを生かし合う協力がないにも関わらず、つながりと感謝を意識させるというのは、ただの強制・要請であり押し付けになります。
順番として、社会につながりがあり、人への自然な敬意や寛容さがあり、互いを生かし合う協力があれば、本来感謝という因子は不自然に強制しなくても自然に生じ育ってきます。
人がそういう健全な環境にあるにも関わらず感謝がないときだけ、「感謝の因子があなたには足りない」とその人に対してのみ言えるだけなのです。
「何もない」ところに無理やり何かを思い込めというのなら、それは見えもしない神を無理やり信じろということと変わりません。
ですのでこの因子を伸ばしたいのであれば、無意味にただ感謝するのではなく、自分自身がそういう生き方を実践することが大切で、また社会全体がそういう在り方になっていくことが前提なのです。
第3因子
「なんとかなる!」因子(まえむきと楽観の因子)
これはポジティブシンキングですね。これも先の感謝と同様です。
不適切な環境において、あるいは組織や自身が向かっている方向が明らかに脱線している時でも「なんとかなる!」とただそう思い、内外の疑念や否定・問いかけを無視する姿勢で良いのでしょうか?
以前にも書きましたが、ネガティブには役割もあり、ネガティブは全て悪い、ポジティブは全て良いという考え方もあまりに短絡的なのです。
カルトや精神世界、ブラック企業、そして大企業の起業戦士や一部の成功哲学などにも、このポジティブの悪用が見られます。
ある都合や大義名分などの元に、特定の結果や結論や数字を出すためなら「一切の否定的意見は聞かない」「自身の疑念や問いかけに耳を澄まさない」、という過剰なポジティブ状態を作りだします。
ポジティブさだけを追及するなら、「都合がわるいことは存在しない」「黒でも白」、「嘘でも本当」という意識に向かってしまうんですね。
集団や多数がそのようなポジティブを共有している時、そこで集団に反する「疑念や問いかけ」を投げかけると「ネガティブな存在」としてあたかも悪のようにされて排斥されるのです。
これは個人レベルでもそうだし、組織集団レベル、あるいは国家レベルでも戦争時などにそういうことが起きてくるのです。
なので「ポジティブ」というものは、個人のバランス・「組織・社会との関係性」なども含めて多角的に見ないと、それが良いか悪いかはわからない場合もあります。
「ワクワクする」ことがいい、というような精神世界で流行ったあの短絡的なポジティブさもそうで、それはカルト信者が「自身の疑念や問いかけに耳を澄まさない」まま突き進んだあのポジティブさと大して変わらず、
人や世界がどうなろうが、一部の人間・組織・国の利益と数字と結果しか見ないあのポジティブさと大して変わらないのです。
ですので、「なんとかなる!」因子(まえむきと楽観の因子)は、内外の調和と人格統合へ向かっている健全な人、ブレーキ機能(内省機能)としてのネガティブをちゃんと持っている人・組織においてのみ、本当の意味で有効に健全に働くでしょう。
第4因子
「あなたらしく!」因子(独立とマイペースの因子)
これも先のポジティブのところで書いたこととも一部重なりますが、「あなたらしく!」と言う前に、あなたは「何があなたなのか」を本当に理解しているでしょうか?
一体何が私らしくで何があなたらしくないことなのでしょうか?
それが理解も出来ないまま、様々な内外の心理的干渉によって方向づけられた「あなたやわたし」を全肯定しようというのであれば、やはりポジティブと同じ結果になります。
順番として、「まずは何が私らしくで何があなたらしくないことか」を理解するのが先です。そしてそれは簡単でもあり複雑でもあります。「どこまでそれを明確にするか」のその深さで相対的に異なる理解になるからです。 だからあくまでも段階的に理解していくというプロセスになるでしょう。
段階的な理解の初期的なわかりやすい例としては、私たちが他人や社会の多数の傾向に流され、それを「私やあなたの幸福や不幸の基準」として無意識的に共有しているような状態です。
このような集合的な無意識での心理的な錯覚作用を、ひとつずつ外していくのがひとつの方法です。その錯覚を外していく過程の先に「私らしい」や「あなたらしい」、その何かが徐々に姿を現し明確になってくるのです。
そわかりやすい例の一つ、「フォーカシング・イリュージョン」の参考記事を紹介して今日の記事の終わりとしますね。
「PRESIDENT Online」 より引用抜粋
「なぜ人は「結婚しないと幸せになれない」と錯覚するのか」
例えば、学歴がないと、幸せになれないとか、結婚しないと幸せになれないとか、あるいは正規雇用に就けば幸せになるとか、そのような特定のポイントに、自分が幸福になれるかどうかの分岐点があると信じてしまう。これが、「フォーカシング・イリュージョン」である
学歴にせよ、結婚にせよ、就職にせよ、特定のポイントが満たされなければ幸せになれないと信じ込んでしまうと、幸せに至る多様な道筋が見えなくなる。実際には、人が幸せと感じる理由もそれを支える人生の基盤も様々である。その豊かさに目を開く手助けをすることこそが、これからのビジネスの本道であろう。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)