無意識の正と負の関係性 分裂と敵対を生む「毒の源流」
スティーブ・ジョブズやエスティ・ローダーらの天才の無意識にも「正負」が存在し、それが現象面にも正負の形で投影されています。その参考記事も紹介しています。
心・精神の病の人を馬鹿にしているような人も結構いますが、実際有能な人や天才、そして並はずれた感性を持つ人に心・精神の病を患う人は多いのです。もちろんそれ以外のケースも含まれています。なので、何でもかんでも一つのイメージで簡単に決めつけないで見ることが必要だと思います。
「Newsweek」 より引用抜粋
「天才 心の病が彼らを偉大にした Madness Made Them Great」
スティーブ・ジョブズやエスティ・ローダーら多くの天才に苦痛と成功をもたらした強迫性人格障害という「繊細な狂気」
(中略)
しかし芸術家に心を病んだ人が多いことは広く知られていても、実業界やスポーツ界で華々しい成功を遂げた人たちにも精神疾患を抱えた人が多いことはあまり知られていない。拙著『アメリカズ・オブセッシブズ』では、多様な分野で病に駆り立てられながら道を切り開いた人々を取り上げている。
ハインツの創業者でマーケティングの天才ヘンリー・J・ハインツ、図書館の分類法を打ち立てたメルビル・デューイ、飛行家のチャールズ・リンドバーグ、美容帝国を築いたエスティ・ロ ーダーといった人たちだ。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 心の病が彼らを偉大にした
内的な分裂と敵対関係を生む原因
以前にも、高いものは低いもので支えられ、光は闇によって支えられているということを何度か記事で書きましたが、高い能力や才能が、それとは真逆の無能さ・異常さで支えられていることは実際あるんですね。
ある能力は極めて高いが、他の面では通常の人以上に出来ていない、という姿は、こういうタイプの人にはよくあることなんですね。
そして能力や才能のように、補完関係としての無意識の正と負の関係性だけではなく、敵対関係としての無意識の正と負の関係性もあります。
親の子への「正負の投影」は、まず親の「表面的な正」と無意識の「負」が乖離していることから生じ、その解離の幅の大きさと、質によって、その後の影響が異なってきます。
影響は相対的に異なりますが、大なり小なり子どもの中でそれは「二重基準」として転写され、特に親の無意識の負の部分の影響を強く受けた時に、子供は問題児や心・精神の病、自我の分裂傾向へ向かいます。
ですが前にも書きましたが、問題児や心・精神の病などが全て悪いわけではないんですね。現象自体は確かに良いとは言えません。ですが「負の部分を表出化する存在」がいなければ、不調和や負はどんどん蓄積されていく一方になるわけです。
もちろん、子供がそうなる前に、まず先に親が親自身の無意識に気づき、社会の大人たちが自身の無意識に気づけばそれが一番でしょう。ですが立場の強い側というのは大体においてそれをやりたがりません。自身はそのままであり続け、そして弱い立場の側の方を「自分に合うように」コントロールしたがるからです。
なのである種、問題児や心・精神の病の人々は、弱い立場の側の「身代わり」でもあり、無意識の不調和を自らが表現する役目でもあるわけです。(無意識の側から観れば)
※ 先天的なものが強い場合はもっと生物学的な、先祖から引き継いだ負とも言えるものですので上記のケースとは少し意味合いが異なります。
なので遺伝や先天的な機能的・気質的異常からの問題行動や心・精神の病を除き、問題児や心・精神の病には全て「後天的な環境原因が先にあってその結果の現象がある」というのは、原因と結果の法則から見ても自然なものでしょう。
「教育・指導している者たち自身の無意識の状態」がどのような内容であるかを、まず先に理解せず調和もさせないままに、子供たちにとっての権威として、権力的な立ち位置から表面的に「正しいこと」を心理的圧力をかけて押し付ける時、精神の二重基準が意識の内部に形成されます。
大人の「正しい言葉」と「無意識でしていること」の乖離した二つの状態が、そのまま子供の意識に対極的なものとして転写され、それは発達し、外的な人格と内的な人格を形成していくわけです。
アダルトチルドレンには「普段そう見せている自分」と「全く外側に開放されていない自分」という二人の自分がいるんですね。
※もちろん健全な人でも多少はホンネとタテマエなどの二面的要素は存在しますが、アダルトチルドレンの場合はその乖離が激しくより不調和な状態という意味です。
子供たちの無意識は大人よりも生き生きとしており、心は開いているために「言葉や行為以外の情報」=「大人の内的な状態」も同時に感受するのです。
だから本来は「正しいことを強い圧力をかけて押し付ける」とか、「間違った行為を徹底的に抑圧し続けて行為を力ずくで整える」というやり方ではなく、
子に対して「権威」の側である親(大人)がまず先に「内的な状態」を調和させ、後はそれを「見せる」だけで子供は自然に学んで内外を調和させて育っていくんです。そしてどうしても原則的に必要なところのだけに「力」を使えばいいだけです。
観念的に信じる「正しいこと」というものを、ただ権威・権力的な立ち位置から押し付けているやり方というのはある意味「カルト宗教」と同じ洗脳的な行為でもあるんですね。
それでなんでも言うことを聞くイエスマンや素直な良い子になったとしても、そのような子供の無意識内では大きな不調和が形成されたまま抑圧されているために、いずれ何らかの形で表出化してくるでしょう。
「毒の源流」
これは親や道徳教育に限らず、今の政治や社会の権力システムのあり方にしても同じですね。政治は本当に国民の声を反映したものでしょうか?極一部の既得権益者と権力者の声を優先的に反映しているだけじゃありませんか?
社会の上部・組織の上部、より優位でより立場の強い側の言っていることとやっていることは大きく乖離していないでしょうか?
彼等自らが率先して自らを意識化し、内外に調和したあり方を見せる大人の見本となるのではなく、むしろ分離と不調和の見本でしかなく、そして表面の見え方だけ整えて変えつつも、そのあり方は「無意識そのもの」であり、
そして「反する者や叩きやすい者たち」を正義の名のもとに力づくで押さえつけて抑圧することで、権威性や正当性を誇示する、というのであればそれは「毒親」そのものともいえるんですね。
つまり精神の二重基準を生み出しているマクロな源は、「社会の上部・権威、組織上部や立場の強い側がやっていること」の分離状態が「最大化した見本」として先にあるわけで、
上部構造の負の影響力によって、国民あるいは下部構造としての集合的無意識には大きな不調和が形成されているわけです。そうやって個々の大人たちの無意識には分離的な状態が形成され、そして子供たちにもそれが投影されるわけですね。
つまり「毒の源流」をまず先に見直さずに、「その影響でおかしくなった人々」を叩くことばかりしているのは、「問題児をただ否定しているその毒親」の姿と変わらないわけです。
鬼束ちひろ – 月光