「相手の身になって考える」とは?

「単純化された思考」は、様々な他者観において見られます。「性」に対してもそうですね。近代~現代というのは、「単純な思考の型が長い月日を経て幾度となく再解釈されながら複雑化した思考の流れにある」ともいえ、終わりなき脱構築の過程ともいえます。

 

キャスリン・T・ガインズ『アーレントと黒人問題』は、哲学者ハンナ・アーレントが持つ黒人に対する差別的な視点を批判的に考察した著作ですが、アーレントはユダヤ人としてナチス政権下での差別を経験しながらも、アメリカにおける黒人問題に対して鈍感であったことが指摘されています。

リトルロック事件( 1957年、アーカンソー州リトルロックでの黒人学生の入学を巡る事件)において、アーレントは黒人家庭が社会的地位の向上を狙っていると批判しました。実際には、彼らはレイシズムに立ち向かうために子どもを送り出していたにもかかわらず、アーレントはその意図を誤解しました。

アーレントの著作『全体主義の起源』でも、彼女はアフリカ人を非理性的な存在として描写し、ヨーロッパ人による虐殺を理解可能とするような表現を使用しました。

ガインズは、アーレントがなぜ黒人問題に対して敏感でなかったのかを考察しています。彼女は「黒人問題は黒人の問題ではなく白人の問題である」と述べ、アーレントが「他者の視点から思考する重要性を説いていたにもかかわらず、自らその視点を持たなかったこと」を指摘しています。

同様に、「先鋭化したポリコレ」においても、「他者の差別を解釈し叩く側のうちにある差別や他者への憎悪が問われない」ことはよく見られます。

これは、「他者の悪を解釈する側のうちにある悪が問われないまま肥大化していく」ことによって、ミイラ取りがミイラになる現象ですが、右であれ左であれ「正しさ」に囚われた心は行き過ぎると反転してしまう。

そうなってしまうとけっきょく似た者同士にしかならず、「理念」を見失った自己愛活動に変質し、「相手の身になって考える」ことが全くできなくなり、積極的に加害していく主体にすらなっていく。つまり「身体」から離れた運動は「他者不在」になるということです。

 

ところで、前回の記事で「排除した側は排除された側より良い人間なのか?」という問いかけですが、今回はそれとは異なる角度で記事を書いていますが、

前回の文脈でいえば、以下の「たぬかな」さんの動画、表現の仕方や細かい違いはあれど、「どの角度から見ているか」の視点は同じですね。 それにしてもおもろい人ですね、「たぬかな」さんは。

 

 

最近のSNSの他者観は、左派以外にも「先鋭化したポリコレ」と大差ない感じの言動が多いと感じますね。本人も気づかないうちにポリコレ的な他者観が内面化されているのでしょう。

ポリティカル・コレクトネスは、「他者を傷つける言葉や行動を避けること」が基準になっていますので、そもそもが「相手の身になって考える」という相互性の他者観に基づいており、それをマイノリティーを含めた全ての人に対して普遍化しようとする運動です。

ゆえに、「性格の悪い人・嫌な感じの人は疎外されて当然」というのは、『「相手の身になって考えることができない人」を排除しようとする「先鋭化したポリコレ」の他者観』と同質なんですね。

そして、「相手の身になって考える」ときの「相手」というのは、「自分が共感しやすい人・属性」であり、「そうでない相手」も「身(身体)」がある存在なんだということを簡単にスルーしてしまう。アーレントのように。

単純化された人間観に基づく白黒二元論、あるいは内集団・外集団バイアスゆえにそうなる。そしてこれも「人間性」の一部です。ポリティカル・コレクトネスの理念自体は決して極端なものではありません。それを扱う「人間性」が変質させるんですね。

 

福田恆存と人間のエゴイズム

 

福田恆存の言葉は身体に響いてきます。イデオロギーとしての保守ではなく、身体としてのそれが彼には感じられました。同じく、イデオロギーに同化している左翼ではなく、身体としてのそれならば、その言葉は身体に響いてきます。

福田はイデオロギーに対して批判的な立場を取っていました。彼の「孤独」は、単なる個人的感情ではなく、彼の思想と文学の原動力となった重要な要素だったと言えます。政治は九十九匹を救うシステムかもしれませんが、彼は、政治や社会システムでは扱えない「失せたる一匹」(個人)の問題を重視しました。

福田が感じていた二重の孤独感(知識人階級からの疎外と、失われた下町文化)。彼もある種の「帰れない者たち」だったのでしょう。この孤独感は、福田の保守的思想の形成に大きな影響を与え、彼は進歩的知識人を批判しつつ、伝統的価値観を重視する独自の保守思想を展開しました。

 

ico05-005 教育と教養とは別物です。教養を身につけた人間は、知識階級よりも職人や百姓のうちに多く見いだされる  福田恆存

 

原因帰属において、何らかの結果の全てを「性格」に帰すような単純化をする人はSNS等でも見かけますが、「他者の性格を解釈する側の性格が問われない」のも同様の構造ですね。

たとえば「疎外」というのはありふれたもので、構造的なもの、イデオロギー的なもの、そういうマクロなものだけでなく、バイアスや個々の認知フレームのようなミクロな力学を含んでおり、「性格」に関係なく生じます。

いじめられっ子、スクールカースト、ママカースト、会社でのパワハラ、大学におけるアカハラ、田舎や狭いコミュニティーにおける排他性など、様々な場で、より強い側からより弱い側への暴力が観察されるように。

そして、「人間性」という概念は二元論的に「良い/悪い」に完結していません。人間の行動や特性は、状況や文脈によって変化し、複雑な相互作用の結果として現れます。これば「合理性」「理性」も同様です。

そして「誰かの人間性の評価」は、それを解釈しジャッジする側の価値基準、利害関係、認知フレーム等に条件づけられるため、その条件次第では一方的に単純化された解釈にもなり得ます。

 

 

「獣性と神性の中間にある人間性について(ズートピアの感想にかえて)」 より引用抜粋

僕が思うに、人間の感性の中には獣性と神性と分類できるものがあり、人間性はその中間にあるんじゃないかと思います(ここで出て来る言葉は全部、僕が便宜上、適当に定めた言葉です)。

獣性とは、言うなれば個人主義です。自分の生存のために、他人をないがしろにするということです。神性とは、全体主義です。個人の利益を追求するのではなく、全体として上手く回るように考える感性です。

一見、神性であれば良さそうに思いますが、より強い暴力を発揮し得るのは神性の方だと思います。なぜならば、獣性の暴力は自身の生存のために発揮される個人レベルのものですが、神性の暴力は全体のために不利益な「それぞれの個人の持つ獣性」を許容せず、弾圧する方向に作用し得るからです。

人間が自分の生存を望む生物である以上、獣性を切り離すことはできません。切り離せないものを弾圧する暴力は、抵抗に応じてより強く、そして広範囲にばらまかれる可能性があるでしょう。

それは、場合によっては社会構築の障害にすら成り得ます。かといって獣性しかなければ、社会を作ることができません。なので、獣から人間となり、社会を構築する根源となる「人間性」は、その間にある「いい感じの部分」のことではないかと思っています。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 獣性と神性の中間にある人間性について(ズートピアの感想にかえて)

 

 

「中庸」「価値中立」的な姿勢というのは、=ノンポリということではありません。「過ぎたるは及ばざるがごとし」であり、何でも行き過ぎると反転してしまい、容易に当初の理念を失ってしまう、だからそれを避けるには、「理念に同化し過ぎないこと」が大事ということ。

もうひとつは、「中庸」「価値中立」的な姿勢というのは、単純化を避け、複雑な思考をする際に必要な姿勢ともいえます。一心同体的に社会運動・政治活動をしたい人には不向きだとしても、その運動の在り方を再考したり批判的に解釈する余地が一切認められないとするならば、それは容易にカルト化していくでしょう。

 

福田は人間のエゴイズムを重視し、イデオロギーがこの人間の本質的な側面を無視していると考えました。

彼は、イデオロギー(特に左のコミュニズムと右のファシズム)は、個人の「不安とうしろめたさ」に付け入り、政治的解決を提供しようとするが、しかし、これらのイデオロギーは人間の本質的なエゴイズムを無視し、理想化された人間像を前提としているため、これを批判的に見ていました。

そして、ナチスによるホロコースト、中国の文化大革命、ポル・ポト政権下のカンボジアでの大量虐殺、欧米の黒人奴隷制など、これらも、「合理性」「理性」「人間性」「イデオロギー」が引き起こした悲劇です。

ホロコーストに関しては、ジグムント・バウマンが指摘するように、近代官僚制と合理主義が大量殺戮を可能にした側面があり、ナチスは効率的な官僚制を利用して、ユダヤ人の絶滅という非人道的な目的を「合理的」に追求しました。

カンボジアの大虐殺も同様に、クメール・ルージュの急進的な共産主義イデオロギーに基づく政策の結果です。イデオロギーに基づく内集団・外集団バイアスが、徹底した排除の力学になるわけです。

非人道的なものは単純に「感情」「獣性」が引き起こすのではありません。感情と理性は対立的な関係ではなく、互いに影響し合う複雑な関係にあります。

人間の脳は他の動物、特に哺乳類の脳と多くの共通点を持っています。大脳皮質や辺縁系など、基本的な構造は共通しており、急激な進化的断絶は見られません。

福田は人間の本質としてエゴイズムを認識しつつも、それを単なる「獣性」として否定するのではなく、その中に人間の生きる力や創造性を見出そうとしました。彼は人間が「生きる」という行為を通じて、自身のエゴを超えていく可能性を探求しています。

 

以下に紹介の「福田恆存を勝手に体系化する」のnote、面白かったです。

 

それは愛ではなくエゴイズムにすぎぬといふ一切の思想を、ぼくは暴力と呼ぶのに躊躇しない。もちろん、女を愛し、家庭を愛し、同胞を愛し、自分の階級を愛し、人類を愛すること――すべてはエゴイズムである。だから否定しなくてはならぬのではなく、だからこそこれを肯定しなければならぬのだ。 福田恆存「勇気ある言葉」
(中略)
「我々が誤りに陥るのは、たしかに我々の行為、即ち自由の使用における欠陥である」が、「我々の本性による欠陥ではない」と、デカルトものべている。「本性は我々が正しく判断しない場合も、する場合も同じだから」

引用元 ➡ 福田恆存を勝手に体系化する。15   エゴイズム

 

福田は絶対者(神)と相対的現実との二元論的な視点を持ち、人間が生きるためには現実を肯定する必要があると考え、この視点から、エゴイズムも肯定されるべきだという立場です。

彼はデカルトとは異なり、個人の意識だけでなく、その背後にある社会的・集団的自我を重視しました。彼はエゴイズムや悪が孤立した個人だけでなく、社会全体に関わるものであることを強調し、それによって正義や愛などの価値との関係性を探求しました。

「人間性(人間らしさ)」はそれ自体に正と負の両面が内在し、「元々良い人間」、「元々悪い人間」なんていう二つの性質に分離するための都合の良い概念ではありません。

 

「帰属理論」の補足

 

帰属理論では、人間の行動や結果の原因を内的要因(能力や性格など)外的要因(環境や状況など)に分類します。たとえば全てを「性格」に帰属させることは、この内外の複雑な作用を無視し、単純化してしまいます。

ワイナーの理論では、能力、努力、課題の困難さ、運など、複数の要因を考慮しています。

 

ワイナーの「成功と失敗の帰属モデル」は、達成行動における原因帰属の過程を体系化した理論で、期待価値理論と帰属理論を統合し、達成動機づけの観点から原因帰属を説明し、

原因帰属を統制の位置(内的・外的)安定性(安定・不安定)の二つの次元で分類します。

達成行動の成否の主な原因を、能力(A):内的・安定」「努力(E):内的・不安定」「課題の難度(TD):外的・安定」「運(L):外的・不安定」の四つの要因に分類しています。

 

原因帰属の過程は1~4の流れで進行します。1.刺激(達成結果)2.認知(原因帰属)3.安定性(期待)× 統制の位置(感情)4.反応(認知内容に基づく新たな達成行動)

内的要因(能力や努力)に帰属する場合、感情反応が強くなり、特に、努力に帰属する場合は最も感情反応が大きくなる。

そして、「達成動機の高い人」と「低い人」では、帰属傾向の違いが見られます。

前者は「成功を内的要因に帰属し、失敗を努力の欠如に帰属する」ため、努力を重視し、後者は「成功を外的要因に帰属し、失敗を能力の欠如に帰属する」ため、外的要因を重視する、という傾向性があります。

この理論は、達成行動の理解、予測、操作に役立ちます。例えば、達成動機を高めるには、物事の原因を自分の努力に帰属させ、「物事は自分で変えられる」という信念を持つことが効果的ですが、

しかし、ワイナーのモデルは個人の認知過程に焦点を当てており、「課題の難度(TD)」「運(L)」というのは、個々の資本の格差、能力の格差によって、同じ課題でも同じ難易度ではない、という前提が排除されやすい点と、

「社会構造的な要因」を十分に考慮していないという限界があります。このモデルを適用する際には、より広い社会的文脈を考慮し、個人の帰属スタイルが社会的影響によって形成される可能性を認識することが重要です。

したがって、達成動機や帰属スタイルを理解する際には、個人の認知過程だけでなく、社会構造、文化的背景、歴史的文脈などの要因も考慮に入れる必要があります。

 

 

今年最後の記事、終わりに一曲紹介。 Mr.Children 「しるし」です。もう11年も前かぁ。この頃の曲はまだテンポが「呼吸」に近かったですね。そしてこの歌詞も身体に自然に響いてくる。彼は「瞬間」をまるごと真空パックできるスタンド使いか何かと思いますね(笑)

今年もクソ長い駄文を読んでいただいてお疲れ様でした。

ではよいお年を。