動物的なあまりに動物的な
ヤブイヌ…その魅力と言えばなんと言ってもキツネやクマやイヌやタヌキなどの様々な動物の印象に残らない部分だけを抜き取り、それを混ぜ合わせたような大いなる無特徴っぷり。ヤブイヌのキャラとか見た事ないもん。名前すらどこか投げやりで……もしかしたら“動物”のイデア的存在なのかもしれない。 pic.twitter.com/TC7kQtVobV
— 本末転倒太郎 (@GOODBYE_KITTY3) January 30, 2025
リンダリンダ的な替え歌 ♬
ヤブイヌみたいに 美しくなりたい
アイデンティティでは捉えられない イデアがあるから~
ヤブイヌみたいに 誰よりも誰でもなく~
ヤブイヌみたいに 名前すら投げやり~
誰の記憶にも残らないイデアをひとつだけ持つ~
では本題に入る前に一曲紹介。エルガー作曲 チェロ協奏曲 ホ短調 作品85でジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)ですが、今聞いても魔力が半端ないですね~、強烈です。彼女の身体から生じる音のゆらぎ、時空を超えてビリビリきます♪
動物的なあまりに動物的な
ニーチェの「人間的なあまりに人間的な」ではなく、「あまりに動物的な」が今回のテーマです。
グレーゾーン、怪しげなものが失われていくアカデミア、専門領域は、社会のクリーン化とも密接に関わっています。社会のクリーン化と、最近の「白黒二元論、潔癖主義の過剰さ」は密接に関わっています。
「全体性としての人間」は、ヒトの身体がベースに在ります。「人間」はヒトの身体なしには生じません。しかしヒトの身体が家畜化によってあまりに脆弱化したことで、「全体性としての人間」を維持できなくなった。
「人間」は分離化し、ただの「管理された家畜」に「退化」してしまった。
身体性が失われることで、それに支えられていた文化も宗教も、そして最終的に人間もその力を失ったのです。だからまず身体性を取り戻すことが先なのですが、「家畜化された身体」から生じる思考では、もはやそのことすら捉えられなくなっている。
『「頭」「言葉」だけの認知が優位な動物的状態』は、己の状態が「野生」より遥かに劣った貧しい状態であることすらわからなくなっているため、知識、言語で動物的な原理を超えようとすることが「人間」だと思い込んでいたりします。
それならAIで十分。「心」は身体に宿り、身体は遅く、その思考は有限の質。AIには身体がなく「心」がない。どこまでも軽く早く無限。AIの方が「頭」「言葉」の情報の組み合わせにおいてはクリエイティブであるため、家畜の思考と相性はよいともいえる。
そして未来にAIは、「家畜たちの神」を生み出していく可能性すらあると思います。それが未来の宗教となるかもしれません、
コジェーヴは、ヘーゲルの『精神現象学』を独自に解釈し、人間と動物の本質的な違いを「欲望」と「欲求」の区別に見出しました。
人間は欲望を持ち、他者の存在を必要とする、動物は欲求のみを持ち、他者なしに満たされる、というこの解釈によれば、人間性の核心は、自然環境を否定し、他者との闘争を通じて承認を求める点にあります。
コジェーヴは、「消費者のニーズをそのまま満たす商品に囲まれた生活」、「メディアの要求に応じて変化するモード」、このような戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を見て、これらの特徴は、ヘーゲル的な意味での「人間的」な生き方ではなく、むしろ「動物的」と呼ぶべきものだと考えました。
「動物化」とは、人間特有の間主観的な構造が消失し、各個人が「欠乏─満足」の回路を閉じてしまう状態を指し、つまり「他者との承認を求める闘争の消失」「自然環境との調和的な関係への回帰」「消費社会における即時的な欲求満足の追求」、このような生き方へ向かうことを指していますが、
コジェーヴの「動物化」は、人間と動物の二項対立的な理解に基づいており、この見方には単純化や矛盾が存在します。進化心理学の視点から見ると、コジェーヴは人間を分離的に捉えているともいるといえるでしょう。
人間の社会性は進化の過程で獲得されたものであり、他者との関係性は生存に不可欠でした。コジェーヴが言う「他者を必要とする欲望」は、実は進化の産物であり、動物的な特性の一部と考えられます。
進化心理学では、人間の複雑な欲望も基本的な生存欲求から派生したものと考えます。コジェーヴの二分法は、この連続性を無視しています。
人類学的視点においても、「他者を必要とする欲望」の形態は文化によって大きく異なり、コジェーヴの概念は西洋中心主義的な人間観、動物観のフレームが前提にある「人間(社会)/動物(自然)」の二元論といえます。
一部の文化では、個人の欲望よりも集団の調和を重視します。これは、コジェーヴの個人主義的な欲望観とは相容れません。認知科学的な視点においても、人間の社会的認知能力(心の理論など)は、他の霊長類にも原初的な形で存在します。これは、「他者を必要とする」能力が人間に固有のものではないことを示しています。
「進化に抗う」とかいうが..
ここからは、コジェーヴの「動物化」概念とはまるで異なる視点から考察しています。
コジェーヴの動物化は、彼の「歴史の終わり」という概念と関連しています。コジェーヴによれば、歴史とは、人間の欲望と自己意識をめぐる闘争の過程であり、この闘争が最終的に解決されると、歴史は終わりを迎えます。
歴史が終わった後の人間は、自己意識や欲望を失い、ただ生きることに専念する存在、つまり動物に近い存在になるとコジェーヴは考えました。この「動物化」は、人間の歴史的な存在意義の喪失を意味し、必ずしも否定的な意味合いだけではありません。
しかし、このような意味ので「動物化」ではなく、まるで異なる作用としての「動物化」があると考えます。
それは、アカデミア、学者、専門家たちが、言説の権力を持つことによって、むしろ世界中で「動物化」が進んでいるという力学です。しかしこのパラドックスは不可視化され、「世界、社会、人間の特権的な解釈者」である学者、専門家たちは「己の姿だけは見えない、見ようとしない」。
「進化に抗う」という概念は、よく人間の特性として語られます。しかし、これはホモ・サピエンスの進化的背景に根ざした動物的な特徴の一つに過ぎません。にもかかわらず、人文系の言説によって「これこそが人間の本質だ」と一方的に解釈され、人間性に関するステレオタイプの一つとなってしまいました。
「進化に抗う」という姿勢は、人間が自らを自然や動物から切り離された特別な存在とみなし、進化のプロセスさえも制御できると考える、人間中心的な傲慢さの表れとも解釈できます。
人権思想の発祥地である欧州は、なぜガザ虐殺のような非人道的なことを止めれないのか?テロリストと欧米のやっていることは何ら変わらないにもかかわらず、己が暴力性を自覚できない灯台下暗し。
この種の灯台下暗しは様々な形で存在しますが、権威や権力を有する側に根深く存在しています。自らの価値観や解釈を普遍的なものとみなす人文系の言説も共通する問題点を孕んでいると言えるでしょう。
学者は「人間界」に属してはいますが、実際には「動物的な在り方の一形態」ともいえ、また知的権威それ自体が「ルサンチマン」を原動力にして成立した牧人権力であり、人々の精神や行動を「導き」、「管理」する権力としての側面を持つともいえます。
人間は自身の行動を省察し、意識的に選択する能力を持っていますが、これも進化の過程で獲得されたサピエンスの特性のひとつに過ぎず、順当に進化に従っているだけで、動物的な原理です。
たとえば頭を使う労働と体を使う労働では一見すると前者の方が進化に逆らっているかのように見えますが、学問的競争も同様に、知的能力を示すことで社会的評価を高め、結果的に生存、繁殖の可能性を向上させる行動の一種と解釈できます。
そしてそのような人たちの中でも権威あるポスト(例 教授)を目指すようなことは、社会的地位の獲得と強く関連し、これは人類の階層意識や競争本能の強さの現れのひとつの形であり、生存、繁殖の機会を高めるための進化的適応の一種ともいえます。
つまり、まんまサピエンスの原理に従っており、「進化にあがらってなどいない人々」の典型例なのです。
そして、学者が、知的優位性を誇示することができる能力主義社会のシステムは、ルサンチマンを合理的に社会的承認を得る形で解消できる構造であるため、本来は弱者であるインテリ連中による逆支配構造は不可視化されやすい。
そしてこのような無自覚なルサンチマンこそもっとも陰湿で攻撃的で根深くなることがあるんですね。SNSの陰キャ・オタクのルサンチマンなんて粗野ではあっても素直でシンプルなものが多いので、学者のそれに比べたら全然マシともいえます。
そして「人間界」には属しているが、「身体」を「忘却している」という点で見れば、理性と感情を分離し、理性のみを重視する啓蒙主義的な考え方 と関連付けることができます。
自らの動物性を否定することで、かえって暴力性を増大させ、結果的に大衆よりも無自覚に動物的でありつつ、かつルサンチマンが強いため、無自覚に自己肥大化した権威主義者を生み出すシステムともいえるでしょう。
学者はよく監視し合うが、最善の信頼を互いに払うことはしない。小さい好策にすこぶる長け、あしなえた知識を持つ人々を待ち伏せる – ニーチェ
また、ポリコレ的な美徳シグナリング(道徳的価値観を顕著に表現する行動)もまさに動物的なものともいえます。これは多様性やらジェンダーやフェミニズムの思想を内面化した人々にもよく見られます。
集団帰属意識、属性に基づく内集団びいき、外集団排斥の傾向、たとえば学者たちにおいても、派閥的な力学、党派性(支持政党の意味ではない)による潰し合いがよくみられ、
「自分たちの分野・属性を優位に置き、対立的な分野・属性の人や対立的な考えの価値を下げようとする姿勢」は日常茶飯事。このように「考え続ける」ことよりも党派性バイアスが先立つのはまさに動物的。
多く考える人は党員には向かない。 というのは、党派などを突き抜けて考えてしまうからである。 – ニーチェ
最近、日本の文芸批評の「男の子っぽさ」みたいな話がTwitterでありましたが、あれも根底には動物的な力学があり、そのオス的な形式にスポットを当てているだけで、メス的な形式「女の子っぽさ」も当然あります。
このようなシグナリングがサピエンスの原理ということ。そしてオスが多い分野ではオス的なそれが目立つというだけです。メスが多くなればメス的なそれが目立つようになるでしょう。
「宗教の信者たち」にもそれは見られます。よって宗教にもサピエンスの原理が作用している。
また、科学技術の発展や専門化は、資本主義システムを加速させ、より効率的な搾取を可能にする一方で、倫理的な問題や「人間性の喪失」といった問題を不可視化してしまう可能性を孕んでいます。
理系は当然のことながら、精神医学にせよ心理学にせよ、宗教的なもの、(古来の)人文的なものはどんどん「怪しげなもの」として排除され、「標準化」されていく流れにあり、今では一部の専門を除いてそれを中心に置く人は減っていますが、
しかし、ポリコレ、多様性、ジェンダー、フェミニズム等の思想に基づく価値基準・党派性に囚われることによって、別の形で「人間性の喪失」を引き起こしている部分があります。
倫理的な問題はまだ可視化されやすいですが、人間性の喪失は不可視化されやすいんですね。何故なら、「人間の全体性」を既に失った身体性、あるいは、特定分野の学者・専門家の認知フレーム、価値基準、政治的正しさ等を基準に人間性を分離的に捉えているからです。
「専門家支配は官僚制と同様の効果を持つとされる。では官僚制の特色は何かと言えば効率性にある」
「専門家支配は、フリードソンが言うように説明責任すら負わない構造を作りあげている。その上更に、業の独占が法で認められることで、法という社会一般に通じる約束によって、支配という力関係の及ぶ範囲を拡大し、より強固にもしている。こうなると、クライアントがいくら不信を感じても、高度専門職の指示に従う外ない。」➡ 専門家支配の問題分析と求められる仕組み
科学化・専門化された文明社会もサピエンスの進化の流れにある動物的なものが優位です。だから現代においては、「人間なるもの」はむしろ「怪しげなもの」の方に豊かに宿っているともいえます。
「怪しげなもの」とは、まさに理性主義だけでは捉えきれない、人間の感情や感性、動物性(野生)を含む、より包括的な人間のあり方を指しています。
では「怪しげなもの」とは何でしょうか?それは伝統宗教ではありません。今や伝統宗教は極めて動物的な世俗的営み(サピエンスの原理に適合したもの)の一つに過ぎません。(一部を除いて)
「死や病を恐れる」のも実にサピエンスの原理に従った姿であり、生命が老いや死や病いと戦うことは進化に逆らうことではなく、進化の過程で獲得された戦略の一部でしかないのと同じく、
医学(標準治療)も「極めて動物的な合理性」に基づいています。だからこそ平均的に最も効果があるともいえます。
この文脈において、科学的な精神医学、認知心理学等は「動物的な合理性」に基づく営みで、東洋の身体技法とか精神療法やユング等は「人間的」な営みです。ゆえに個人差が生じてくる。
分業化が進み脱魔術化が細部まで徹底された現代においては、「人間なるもの」とは、非学問的、非社会的で、宗教的、魔術的な領域を生きている者たちにこそ色濃く見られる(残存している)、という逆説が生じてくる。
「極めて動物的な合理性」によって排除された「人間的なるもの」、その排除の結果が、野生以上に動物的な「家畜化された人間(骨の髄まで社会化された存在)」であり、それは管理社会システムに適応した動物以外の何物でもない。
現代において、「進化に逆らおうと意識しているような人」ほど、逆に進化に極めて従順な個体であり、動物的な合理性によく従い、家畜化が進んでいることに無自覚ですが、本人は逆らっているつもりなんです。
まぁこの手の勘違いさんは、人文系の「学者」とか「伝統宗教の信者」にも多いです。
これは「権力と戦っているつもりの左翼活動家」の思い込みによく似ています。今やそのスタイルこそが大きな政治的流れに巻かれているだけの迎合でしかないが、本人は何か大きなものと戦っているつもりのように。
この文脈でいうのであれば、最近はむしろ「カルト」の方がまだ人間的な要素が多く、「家畜化されたカルト=世俗化した伝統宗教」は「飼いならされたもの」ゆえに「社会的で安全」というだけで、ますます「動物化」している状態ですね。
キリストもブッダも全く現代のキリスト教、仏教的ではない存在。キリストもブッダも全く科学的でなく、学者的な勉強スタイルの生き方ではなく、
むしろそれらとは正反対で異質な感性的な人たちで、現代社会の基準でいえば、ある面は反社会的であり反道徳的ですらあり、歴史的なパワフルな反逆者といったほうがいいでしょう。
サピエンスはもともとある程度の社会的性質を有しています。ゆえにサピエンスが進化に逆らうとするなら、「社会に逆らい孤立をものともせず、社会的な競争意識は薄く、食欲も性欲も少なく、子供も欲しがらず、死も病も恐れず、生まれることを望まない」というような在り方になります。
この意味では、伝統宗教がまだカルト的だった初期の頃や、反出生主義を身体化したような人の方が「人間的」といえるでしょう。しかし果たしてそんな存在が社会で承認されるかといえば、まぁ排除されるだけですね。
だから「人間」は既に分離され、どんどん多元性を失い、一元的に管理され、「家畜化した身体」に合う形でオマケ程度に備わったものとなり、そのうちそれもAIが奪って、AIが「家畜の神」を生み出すでしょう。AI神が、『「頭」「言葉」だけの動物と化した存在』の牧人となっていくでしょう。
伝統宗教が昔のように復活することはもうないでしょう。何故なら多くの人々は既に身体性を喪失しているから。数十年ほど前ならば、まだ可能性は残っていたでしょう。
「(より動物的な)学者とか権力者たち」によって、不道徳、非倫理的として排除された「全体性としての人間的なるもの」、それは何世代にもわたって、「全体性としての人間」を「極めて動物的な存在」にスポイルしてきたのであり、
この「家畜化・動物化」を進めてきた主要な力学が人文アカデミア、科学による文明化・標準化なんですね。人文と科学はタッグを組んで人間を徹底して家畜に去勢してきた。
むしろ非アカデミアや「大衆」から生じる創造性ほど、まだ「人間的」なものを含んでいます。たとえば「エログロ」なんて極めて人間的なものですね。「進化に逆らっているモデル」は漫画、アニメに多い。
官僚化された人文系なんてものより、「管理されていない、制度の外にある創造性」の方が人間的なものなんですね。
「(かなり根源的なところで)進化にあがらっている人」は、この社会ではむしろ「精神障害とされる人」、「廃人」、一部のマイノリティ等に多く、その生き残りの多くは逆に進化に何とか適応しようと努力していることが多いです。
「実」として逆らっているから、「虚」として適応しようとする、この「葛藤状態」にある者が「(現代においての)人間の段階を生きている者たち」です。現代において「人間を生きる者」はもっとも迫害され、社会の外に追いやられているのです。
「実」としてはまんま動物であるくせに、「虚」として反発しているかのようにみせる、それが「人間」を生きていない者たちです。そういう者たちが現代的な「人間界」を作ったエリートや知識人、学者連中であり、「人間を生きていない者が人間を語る」から人々は「身体性」をどんどん喪失し、「人間」を支えられなくなってきている、というだけ。
「実」としてはまんま動物的に行動し反応しているくせに、何かそれ以上の高度な精神性であるかのように見せかける、このような「我らこそ人間なり!」みたいなのが自称リベラルや左派知識人に多いのも、人文アカデミア、学者・専門家の「動物的なあまりに動物的な」を忘却している灯台下暗しの結果ともいえるでしょう。