相対主義のパラドックスと思想的レトリック
「わたし」の解釈は、社会によって構築された概念を前提に思考されるため、「わたし」及びその思考が構築されたものである以上は、社会への批判的視点も、その社会・文化の中で形成された概念や思考の枠組みを用いて行われます。
「起源」ばかり問わないで:カリブ海思想研究者・中村達との語らい より引用抜粋
「なぜハイデガーでなければならない? なぜラカンでなければならない?」「僕たちにだって思想や理論はあるんだ」──。2023年12月に刊行された『私が諸島である:カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)の本論冒頭、そして書籍の帯にも引かれているのは、著者である中村達が指導教員ノーヴァル・エドワーズ、通称ナディからかけられたことばだ。
2015年、西インド諸島大学へ留学した中村が、西洋の文学理論や哲学を援用しながらカリブ海の文学を分析した論文を見せた際の、短くも強烈な一言だったという。
(中略)
『私が諸島である』のなかで、カリブ海思想におけるひとつの転換点となった、パジェット・ヘンリーによる2000年刊行の名著『キャリバンの理性』に触れた個所があります。ヘンリーは、こう書いているんです。カリブ海の人びとが自ら生み出しているものにまず目を向けなければならない、ということを強烈なまでに考えさせてくれる一節ですね。もし我々が、我々の自己形成に関わる文化的側面の主導権を取り戻そうとするなら、西洋から輸入し続けている哲学的人類学、倫理学、存在論、認識論、その他の言説を、我々自らの手で耕し、生みださなければならない。今こそ、このような哲学的依存関係を断ち切るべき時なのだ
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
西洋中心主義はマトリョーシカのようになっており、外しても外しても西洋のフレームが内側から出てくる感じで、この支配構造は非常に巨大です。そして仮に「女性の自己形成に関わる文化的側面の主導権」を男性原理に基づく社会から取り戻そうとした場合は、さらに根源的なところから創造せねばならず、不可能でしょう。
それに比べればまだ戦後日本が失った文化的身体を取り戻す方が僅かに可能性があるでしょう。
相対主義のパラドックスと思想的レトリック
上野千鶴子「フェミニズムの目的はある排他的なカテゴリーをべつの排他的なカテゴリーに置き換えることではない。「女性」という本質主義的な共同性をうちたてることでもない。「わたし」が「女性」に還元されないように、「わたし」は「国民」に還元されない。そのカテゴリーの相対化をこそ意図してい…
— 綿野恵太 (@edoyaneko800) February 22, 2025
↑のような「相対化」を用いたレトリックは様々な形式があり、「レトリックそのものは別に良くも悪くもないもの」、使い方次第で全く効果も作用も変わるものなので、「レトリックそれ自体」を否定するわけではありませんが、
排他的カテゴリーの置き換えや本質主義的な共同性の確立を否定し、「カテゴリーの相対化」を意図していると主張していますが、これは相対主義のパラドックスとして知られる問題を引き起こします。
つまり、○○を相対化するという立場自体が絶対的な主張となってしまうのです。しかもこの手の主張をする者たちを観察すると、相手からカテゴライズされることだけは拒否しますが、本人は「気に入らない他者」に対しては単純化し、否定的なカテゴライズをすることも少なくありません。
彼女はフェミニズムを「弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」と定義していますが、しかし、現実のフェミニズム運動は、しばしば権力構造の変革を目指す闘争的な性質を帯びています。
エマニュエル・トッドが指摘するように、現代のフェミニズムには「敵愾心の強いルサンチマンの運動」という側面があり、不満や怒りを運動の原動力として、新たな価値基準、解釈の権威側に置き換わろうとする権力闘争になっています。
〇 英米流フェミニズムに見られる「激しい怨嗟」の理由 エマニュエル・トッド「今のフェミニズムは男女の間に戦争を起こそうとする、現実離れしたイデオロギー」
思想・理論だけでなく、「やってること・やってきたこと」においても、「特定属性、思想的に対立する相手の解釈や概念化を制限したり許さなかったりするが、自分は相手を自由に解釈し概念化して叩き続ける」ということが長年続いてきたんですね。
それゆえ「思想」そのものもそうですが、「行動」においてより大きなダブルスタンダードを生み出し続けています。「レトリック」と同様に「矛盾」それ自体の否定ではなく、どのような質の矛盾なのか?それは何を生み出し続けているか?ということです。
「わたし」を「女性」や「国民」に還元できないとする主張自体は、個人の独自性を強調していまが、しかしフェミニズムという集団的な運動の文脈でこれを主張することは、個人の問題を「女性」という「属性」に還元してしまうことにも繋がります。
よって、フェミニズムが集団的なアイデンティティや経験に基づいて主張を展開する一方で、個人の還元不可能性を強調することで、逆に「わたし」を裏切ってしまうような思想になっています。
たとえばフェミニズムが、その行動において「自分たちと異なる個々の女性」を集団で攻撃することが観察されますが、
『「わたし」が「フェミニズム」に還元されないように、「わたし」は「フェミニスト」に還元されない。そのカテゴリーの相対化をこそ意図している」という「わたし」』は、それを決して主体化・絶対化しようとはしないのです。
つまりフェミニズムは、「ある排他的なカテゴリーをべつの排他的なカテゴリーに置き換えることではない」と語りつつも、フェミニズムそれ自体のうちに「わたし」を排斥する構造をもっていることを隠した言語ゲームによる政治的運動なんですね。
そして、本質主義的な「女性」の共同性を否定していますが、「わたし」という概念を用いることでそれを回避したように見せても、暗黙のうちに、『社会的に構築されたものではない「ありのままの私」という本質』が前提に置かれています。
「女性」というカテゴリーを構築されたものとして本質主義を否定しながら、同時に「わたし」という概念を本質的なものとして扱っています。つまり『その「わたし」も含めて構築されたものである』という自己言及をしないための防衛機制が働いているともいえます。
これは、「構築されたもの/そうでないもの」の線引きが出来る始原的な「わたし」が存在し、始原的な「わたし」がこの社会を解釈しているのだ、という錯覚を与えますが、
そもそも「わたし」という概念は構築されたものであり、「わたし」は、社会の様々な属性に還元可能であり、同時にそれらの要素の複雑な相互作用によって形成されています。
「わたし」の解釈は、社会的文脈や関係性の中で常に再解釈され、再定義される流動的なものだと言えます。よって『社会を解釈する独立した「わたし」が存在する』という想定は、言語空間において形成される錯覚です。
『「わたし」は○○という属性に還元されない』というような「わたし」は存在せず、むしろ「わたし」は様々な属性に還元可能なものゆえに、言語空間において言語的に定義する必要が生じてくるわけですね。
個人のアイデンティティは固定的でなく、状況や文脈に応じて変化するもので、同時にそれらの要素の複雑な相互作用によって形成されています。流動的な「わたし」に一時的な形を与え、社会的相互作用を可能にするために、言語空間において「わたし」を定義する必要が生じてきます。
これは、「人間」が自己理解や他者との関係性を構築するために不可欠なプロセスだからです。そしてこれも人文の役割のひとつでもあったわけですが、それ以前にその役割を果たしていたものが「宗教」ともいえますね。
宗教は、「わたし」の非存在性・不確実性に対して、一定の安定性と意味、有限性を与えることで、虚無に拡散しないよう保護する疑似的な中心性の役割を果たしましたし、現代社会においても、この役割を部分的に継続しています。
宗教は、存在論的基盤、道徳的枠組み、共同体の形成を支え、そして魂や霊魂といった概念を通じて、物理的な身体を超えた「わたし」の存在を概念化しました。
このように、「わたし」の概念は常に再定義され続ける動的なプロセスであり、その探求は人間の自己理解と社会的相互作用の核心に位置するテーマであり続けています。
しかし、思想的レトリックを駆使した理論武装は、「語りそのもののうちに何かを隠しながら己の正当性のみを強調する」という構造の外部に出ることがありません。特定の目的を持つゆえにそこから先は敢えて言及・探究をしないのです。
そのため、特定の思想に基づいた目的のための「隠蔽と強調」が行われ続け、その恣意的な言語操作に留まることは、人文知に基づく探究を深めていくことを妨げているともいえ、それこそ反学問であり反知性と言わざるをえません。
メディアに出てくる知識人たちも、「トランプ現象」のようないかにもわかりやすい「反知性融合体」に言及するなんていう誰でもできることより、「アカデミアに蔓延る反知性」にこそ積極的にスポットを当ててほしいですね。
また、象牙の塔の内部でしか通用しないような特殊な権威性を価値の最上位に置きたがり、「大衆的なるもの」を批判するのは大好きな人もいますが、無駄に高いプライドが邪魔して自分自身の姿は捉えられないままなら、どんどん観念の世界に乖離していくだけでしょう。
しかしその手の人でも「言語ゲーム」が上手くて世間ウケする本を書き脚光を浴びるなんてことはよくありますし、それはそれで結構ですが、「より複雑に考え続け、不都合なエビデンスを隠さず、学問に誠実な学者」はそんなことをしたがらないでしょう。
ほんらい、その不器用さこそが学者の良心ゆえの長所なんだと思います。メディア等で目立ちもせず脚光も浴びず、本もベストセラーにはほど遠く、口も上手くなく「ちょっと何言ってるかわかんない」と世間では思われているような地味な学者の知的探求こそ、私は「凄い」と評価します。
まぁこのような感じに書くと「清貧であれ!」と、「規範」の話のように脳内変換する人もたまにいますが、そこにウエイトを置いているわけではなく、これは「身体性」の話です。
思考が硬直した人の反応というのは実に単純で、「そうくるか」という意外性がなくて実につまらないのですが、人文系にも結構多いですね。
人類の価値観や倫理観の基盤を形成し、社会や文化に深く根付いている「価値の大元となる思想インフラ」も、そして人々が生きていくための生活の大元となる物質的なインフラ、科学的な発明、発見、そして「雇用」を生み出すビジネス・起業等、その原型はほぼ男性が創造し、維持運営してきたことで社会は成立しているので、
女性は物質世界においても精神世界においても、男性原理の土台の上で、それを前提として、再解釈し改良している段階です。
そしてアート界隈においても、ジャズ、ハードロック、ヒップポップ等で活躍する女性も現代では増えていますが、その原型は元々男性が生み出したものです。映画も文学もエンタメもスポーツも格闘技もそうです。つまり現代社会という文明・文化の原型はほぼ男性が生み出し作り上げたものなんですね。
このように、女性の社会的役割や創造性は、「男性が生み出した既存の構造・型」の中で、その原型の改良や参加にとどまっている「二次制作」「cover版」的な傾向がどうしてもあるわけですが、
かといって、二次制作やcoverが「原作」を超えて逆支配してしまうのは本末転倒です。男女を反転させただけでは、男性と同じレベル、あるいは男性社会の劣化コピーになってしまうだけでしょう。
この場合の「原作」というのは、作家のそれではなく、近代社会の原型の意味で、「それがなければそもそもそのあとの展開がない」という原初の型です。それを抜きに始まらない、始めれない支点なのです。
つまり、根源的なところから創造して対等にすることはおそらく不可能でしょう。仮にそうしようとするなら、原型の次元~維持・運営まで含めて、世界を1から創造する必要がありますが、
現代と同等の文明レベル・規模でないないなら、どこかの島に実験的に作ることくらいは可能かもしれませんが、世界は有限であり、生き物であり動物である以上は利害対立や生存競争は必ず生じてきます。男性原理を排除した集団は、外部からの破壊に対して極めて脆弱でしょう。
結局のところ、サピエンスの有限性を土台にした文明社会を維持し続けるには、男性の能力、男性原理が必要です。なので、男性の根源的な部分を否定するようなラディカルなフェミニズムは自滅、共倒れの思想なんですね。
重要なのは、男性原理と女性原理のバランスを取り、それぞれの長所を活かしながら、より包括的で公平な社会システムを構築することです。
地球が誕生しサピエンスが登場するまでの膨大な進化の歴史の流れにヒトの身体があり、ヒトの身体は科学者・医者・学者・専門家が生み出したものではなく、自然界が生み出したものであり、社会以前に「身体が雌雄に分かれている」ということの自然界の摂理を、人為的な思考・理論で簡単に超えられると思い上がらないことです。