神々の闘争と、スピ文化
「規範の正当化における無限後退の問題」は、ある規範Xを正当化するためには、別の規範X1が必要となり、X1を正当化するためには、さらに別の規範X2が必要になり、この過程は無限に続き、最終的な正当化に到達することができない、という問題です。
〇 野崎 泰伸 「倫理学は規範をどのように問うべきか――規範の正当化主義批判」
にもかかわらず、多くの人々は「議論によって規範を確定できる」という考えに囚われています。
この無限後退を止めるためには、何らかの前提や基本原理を設定する必要があります。たとえばアリストテレスの「不動の動者」としての「神」、世界の宗教もそういう役割を果たしていたともいえるでしょう。
規範の正当化は、科学のような「事実判断」を前提にもってくることはできません。「価値判断」の前提には、皆がひれ伏す絶対的な何か・圧倒的な権威か、あるいは「これ以上は遡らない」という何らかの「終点」が必要なんですね。
そしてそれが神であれ何か別の価値基準であれ、「終点」は時代、国、文化によっても異なるし、個々においても異なることがあります。そして「相容れない規範命題」が対立する。共約不可能な神々の対立、ウェーバーのいう「神々の闘争」です。
つまり、世の様々な「分断」もある種の宗教戦争なんですね。
ではここで、エマニュエル・トッドの動画を紹介。「西洋の敗北」は過去記事で紹介していますが、とても鋭い視点を持った人物だと思います。まぁとはいえトッドの思考の型もいかにも西洋的で、極端なところもあり、完全に肯定しているというわけではありませんが。
たとえば「儀礼」には、「規範の正当化における無限後退」を一時的に止める作用があると言えます。
儀礼は特定の価値観や信念を象徴的に表現し、その背後にある規範や価値観を直接的に正当化することなく、人々に受け入れさせる効果があり、
そして多くの儀礼は長い歴史を持ち、伝統として受け継がれています。この伝統性が儀礼に権威を与え、その背後にある規範の正当性を問う必要性を減少させます。
また儀礼は多くの場合、集団で行われ、この共有体験が、規範の正当性に関する個人的な疑問を抑制し、集団的な受容を促進します。そして儀礼は言葉による説明や正当化ではなく、行為や象徴を通じて価値観を伝達します。これにより、論理的な正当化の連鎖を回避します。
また多くの儀礼は、宗教的または文化的な神聖性を帯び、これが規範の根源的な正当性の問いを抑制する効果があります。
ところで儒教は、春秋戦国時代の混乱と暴力が蔓延する社会背景の中で、孔子によって体系化された思想ですが、この時代には、社会秩序が崩壊し、人々が争いに明け暮れていました。むしろこういう時代だからこそ孔子のような人が登場してくるともいえるでしょう。
孔子は「礼(儀礼)」を中心とした倫理的な枠組みを提唱し、人間関係の調和と社会秩序の回復を目指しましたが、とはいえ儒教の本を読んだからといって動物と全く切断された人間になるわけではなく、
思想によって動物的な闘争にエネルギーが浪費されてしまうことを防ぎ、昇華する働きになっているということ。
お互いが動物丸出しになっていては、喧嘩や殺し合いの目的にエネルギーを使い切って終わりです。怒り・恨み・報復・復讐の連鎖の中で思考・エネルギー・時間が使われる生は、ひたすら他者に心が囚われ、自身の生を忘却している状態でもあるでしょう。
負の連鎖から外れることで、自身の生に集中することができ、結果的に働きそのものが全体に作用する。
人は「無礼さ」に腹を立てる生き物です。儀礼が一切なく無礼のみでは、いくら正直でも言ってることは正しくても、動物由来の闘争の次元に突入し、そこに生命エネルギーを使い続けるループから抜け出せなくなります。
「子曰く、恭にして礼無ければ則ち労す。慎にして礼無ければ則ち葸(し)す。勇にして礼無ければ則ち乱る。直にして礼無ければ則ち絞(こう)す。」
「恭」は敬意、「慎」は慎重さ、「勇」は勇気、「直」は正直さを表しますので、意味は、
『 他者への敬意があっても、それが「礼」に基づかないと、ただ徒労に終わる。慎重であることも、「礼」が伴わなければ臆病と見なされる。勇敢であることも、「礼」がなければ乱暴者となり、秩序を乱す。 正直であることも、「礼」を欠けば冷酷で融通の利かない人間と見なされる 』となります。
これは驚くほど現代でも通じるものです。このあたりの孔子の洞察力はやはり凄いとしか言いようがありません。
社会は本質的に、様々な前提や規範を受け入れることで成立しています。しかし、それを設定することは同時に、一部の存在や価値観を排除することにもなります。
したがって、「すべての存在にとっての理想社会」というのは、「社会」の本質的な構造と常に矛盾します。社会は常に何かを包含し、何かを排除する枠組みを持つため、完全に包括的な理想社会は実現不可能になる、「元々」そういうものだからです。
社会には有限性があり、それを超えるものは個人の領域に属します。だから個人の人生において、社会の枠組みを超えた創造や探求が可能となる。社会が個人にそれを与えるのではないということです。
社会構造を変えるとか、「このモデルの方が比較的上手くいく」ということはあっても、では誰にとってもそうか?といえばそうではなく、結局は常に「条件付き」なのです。
「思想」も同じく、どんな理屈・理論、レトリックで誤魔化そうとも、特定の思想を拡大させている時点で、そこには政治的な権力闘争が働いていて、領土拡大の結果に何らかの「排除」が生じるというのと同様なんですね。
儀礼もそうです。儀礼は弱者に対して両義的な影響を持ち、象徴的な形で弱者の存在を認識し、社会的結束を促進する機能も果たしていますが、
社会秩序を維持する一方で、力関係の不均衡を隠し、それを維持するアンフェアな仕組みとしても機能します。ゆえに、権威のない弱い立場の人々が正当性を認めてもらうには、儀礼の枠組みから外れる行為が必要になる場合があります。
ところで、「宗教」という概念って一体どういうものか? 以下に紹介のnoteでは「宗教」という概念を掘り下げていてとても面白かったので紹介します。➡ 環流夢譚 その6――「宗教」概念という近代の神話
「環流夢譚 その6――「宗教」概念という近代の神話」 より引用抜粋
釈宗演は、天皇の「宗教」が何なのかわからなかったのだというのです。「無宗教」というのは“おさまりが悪い”から「神道」だと答えてはいるが、どうやら「神道」は世間では「宗教」ではないことになっているらしく、「宗教」とみなすのは「穏当ではない」ように思われる……。
なぜこのような混乱が生じるのか。なぜ岩倉使節団の人々は、自分の「宗教」が何であるのかがわからなかったのか。結論から申し上げましょう。「宗教」という概念は、人類が時代や地域を超えて抱く普遍的な概念ではないからです。「宗教」という概念は、いかにも大昔からずっと存在してきたような顔をしていますが、そうではありません。「宗教」というのは、近代に創作されたできたてほやほやの新しい概念なのです。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「宗教」というのは、近代に創作されたできたてほやほやの新しい概念とのことですが、まぁ昔はスピも宗教も何の違いもなかったのでしょう。
今の日本においては、スピというのは、「己の主観が真実、感じたものが真実」という世界観で成立しています。ゆえにスピが嫌がるものは「統計」、「事実に基づき、不都合なエビデンスを隠さず客観的に緻密に検証すること」、「再現性」などです。フェミニズムに似ていますね(笑)
スピは、感じたことをそのまま肯定することで成り立つので、信仰形態の多くは宗教のような権威に基づく修行体系ではなく、「共感寄り添い型」なんですね。「そう感じたのだからそうなんだ」で納得する世界。女性にスピが多いのもそういうところなんでしょう。
たまに「シルバーバーチの霊訓」みたいなものをスピの原典のように勘違いする人がいますが、スピには、宗教のような「絶対的な教祖」や「正統とされる原典」は存在しません。強力な権威性というものがないんですね。
そこもフェミニズムにやや似ていますが、フェミニズムは学問に擬態しつつ、アカデミアに浸透し、大衆を扇動しながら、権威化・制度化に向かうことで、スピよりも宗教化・政治家しています。
スピは伝統宗教のような学問化・権威化・制度化されたものではなく、基本的には大衆を政治的に扇動する思想ではなく、あくまで民間で個人が好き勝手にやってるものです。
しかし最近勢いのある「縄文ナショナリズム」のような、政治と結びつくものや、新興宗教が積極的に取り込む場合もあり、その場合は、より強い囲い込みが生じてきます。➡ 陰謀論と縄文ナショナリズム
スピは、土着の文化に根差すものでも明確に体系化されておらず、感覚的・感性的に身体から身体に伝わっていく、アメーバ的な緩い繋がりで、個人の解釈に委ねられています。
「これこそが正統なスピだ!」みたいなことを言いたがる人は、宗教的な思考、中でもカルト信者に多い思考の型です。やんわりやっている多くのスピさんにはそういう頑なな固定観念や区分けの意識はありません。あれもこれもなんでも節操なく取り込むのがスピのおおらかさであり、極めて緩い定義なのです。
フェミニズムにもそういう節操のなさがあり、「これこそが正統なフェミニズムだ!」みたいな絶対性がないんですね、にも拘わらず、運動している人々は絶対化、聖域化、党派化しているので、「自分が絶対正しく、反対する者は絶対間違っている」というようなカルト信者的なスタンスの人々も珍しくありません。
スピに生じる問題とカルト宗教とは分けて考えた方がよいでしょう。そもそもスピという概念の広さ、それとの関わり方の多様さゆえに、特定の新興宗教とその信者の関係みたいな図式があてはまらないケースも多いんですね。
ところで「スピリチュアル的なもの」は、カウンセリングやケアの共通の起源でもあり、古代において、シャーマンや祭司、宗教家が精神的なケアを行っていたことが、現代のカウンセリングの原型の一つとされています。
これらの役割は、今日のカウンセラーが担う機能と類似しており、人々の精神的な悩みや問題に対処していました。さらに、原始社会では呪術師や占い師、祈祷師が様々な問題解決のために神秘的な技を用いていました。
心理学の原型は、古代ギリシャの哲学にあり、19世紀にドイツで科学的な学問として確立され、1950年代には認知心理学が登場し、現代心理学の主流となりました。ゆえに心理学は西洋起源のものです。しかしスピは野生の思考なので、西洋・非西洋に関係なく場に生じてくる原初的なものです。
制度や権威の外にある始原性がスピの根強さであり、文化や社会によって形は変われど続いていくでしょう。そもそも宗教だってスピ的なものが根源にあるわけです。
女性原理がまずあって男性原理が生じる。この「女性原理が先行し、そこから男性原理が生じる」という見方は、多くの神話や創造説話にも見られる普遍的なテーマであり、
そして、「男性原理=男、女性原理=女」ではなく、必ずしも生物学的な性別と一致するわけではありません。
言い方をかえると、直感的・包括的な認識(女性原理)が、分析的・論理的な思考(男性原理)に先行するということです。そして「野生の思考」は女性原理が優位なんですね。
それはともかく、スピは基本的に女性原理が優位です。厳密さを好まず、学問化せず、感覚的に緩く横に広がる感じの思想です。
ところで沖縄にスピが多いのも、沖縄の土着の信仰に女性原理が強く作用しているからでしょう。沖縄では、「かみんちゅ」と呼ばれる女性祭司が村落の祭祀を執り行い、重要な宗教的役割を担っていて、これは沖縄の伝統的な信仰体系に根ざしたものです。
沖縄社会では、女性神役と一般女性との間に宗教的な連続性が存在します。一般の女性も家庭内では祭祀者としての役割を持ち、女性神役と同一線上にあるとされています。
沖縄の女性神役は、女性の身体性を否定せずに日常生活を送りながら、神霊と人々の間の媒介者としての役割を果たしています。つまり沖縄社会では宗教の領域で女性が優勢となる背景があり、これが女性の宗教参加の強さを支えています。
これは、本土の多くの宗教伝統とは異なる特徴です。伝統仏教など制度化された宗教では男性支配が確立され、女性の活動する場が限られていますので、女性の宗教職能者たちが民間信仰、スピ界隈に流れているともいえます。
宗教はもともと男性原理優位だった質に部分的に女性原理を加えたり、制度として女性参加も出来るようにと歴史の中で変化はしてはいきましたが、女性は未だ「女性原理に基づく世界宗教」を生み出すには至っていません。男性が生み出したものを改良しているにとどまっています。
従来の宗教研究では、個人の宗教的体験を性別の枠を超えた普遍的なものとして扱う傾向がありました。しかし、近年の調査結果によると、男女間で宗教に対する態度や体験に違いが見られることが分かってきました。
例えば、ある研究では、女性の方が宗教に対してより肯定的な態度を持ち、「民俗的な宗教性」が高い傾向にあることが示されています。
〇 大学生の宗教観と幸福感に関する心理学的研究 – Kobe University
また、現代社会における女性の社会進出や教育水準の向上に伴い、宗教の分野でも女性の積極的な参加が増えています。イスラム教圏では、女性向けの宗教教育機関が増加し、女性たちが宗教的知識を積極的に学ぶ姿が見られます。
話を戻しますが、スピの開催する「フェス」、あれは東京大学の堀江宗正教授によれば、イベントによって、出展者自身も客として他の販売店を回ることがあり、客もセミナーを受けて「消費者であり生産者でもある」状態になれる点が特徴的としています。
ある種のマイノリティ、社会への適応が困難だった人たちが緩やかに繋がる共同体的な役割を果たしているともいえますね。