二項対立、脱構築とチャトゥシュコーティ

古代ギリシャの哲学や儒教などの伝統的議論では、「知識」だけでなく実践的な知恵(ソフィア、智慧)を重視しており、「賢さ」を単に学問的能力で評価すること自体に疑問を呈しています。

そして心理学的研究(例:Kohlbergの道徳発達理論やHaidtの道徳直観説)によれば、道徳判断は単に論理的・知的なプロセスだけではなく、「感情や直観」、さらには社会的文脈といった多層的な要因によって左右されることが明らかになっています。

単なるテキストの吸収(いわゆる「知識の蓄積」)と、実際の行動や身体に根ざした学び(「身体性」)との間には違いがある、ということですね。

 

しかし、「賢い/賢くない」は「価値判断」です。それによって「比較」し、他者の「それ自体は良くも悪くもない状態」を評価し差異化し、「こういう人は○○です」と他者を単純化して「一般化」する思考の一種です。

この手の「一般化」は、教師とか専門家、アカデミア人もよくやってますが、私は「一般化」それ自体は良いとも悪いとも思っていません。「カテゴライズ」も同様で、これは「言語」を使う以上は、避けられないことでもあるからです。

 

ではまず一曲紹介♪ 佐藤晴真さんの演奏で「Mendelssohn:On Wings of Song, Op.34-2」です。この曲好きなんですが、チェロという楽器のゆらぎ、ほんといいですね♪

 

 

 

二項対立、脱構築とチャトゥシュコーティ

 

まぁ実際、矛盾のない状態や一貫性の保持を全てのことにおいて満たすなんていうのは、無理なんですね。機械でもない限り。理想としての完全な一貫性と、現実としての不完全性、それを無視すると、狂気にもなる。

 

ただ、「堂々と2つ矛盾することいえばいい」のであれば、

「矛盾はあってはならない」「矛盾はあってもよい」はぜんぜん両立可能で、「一貫性はあった方がよい」「一貫性なんて不可能だ」も両立可能だし、

「どんどん矛盾することいえばいいんだ」と「その矛盾はいつか君を殺すよ、と指摘することも大事」、もまた両立するんですね。(「その矛盾はいつか君を殺すよ」はアニメのセリフです。)

 

つまり、「矛盾はあってもよい」「どんどん矛盾することいえばいいんだ」だけでは、一義的な評価の範囲であり、「他者に一貫性を求める」ことから抜け出せておらず、

このように「矛盾はあってよい/わるい」という枠組みの言語ゲームにとらわれてしまうと、自身の理屈が自身に戻ってくるだけになるわけですね。西洋的な思考の型というのはこういう形になる傾向があります。

 

議論」は、さまざまな立場や意見を持ち寄り、問題の本質を探るための対話です。参加者同士が相互理解を深めたり、新たな発見を共有したりすることを目的とする場合が多く、必ずしも「勝ち負け」を決めるものではありません。

それに対して「討論」は、有識者によるものであれ、ツィッター等の個々の主張であれ、(その質や見識の差異はともかく)、なんらかのテーマに対して、どちらの立場がより説得力を持つか、または正当性が高いかを主張するための、より競争的な議論で、

立場を「肯定側」と「否定側」に分け、二項対立の図式で行われます。近代以降の議論の場は、基本的に西洋的な合理主義が優位になっています。

 

議論における「脱構築」の中心的な試みは、テキスト内に見られる固定化された二項対立(たとえば「善・悪」、「存在・非存在」など)を疑問視し、両極端の中間や相互依存を強調することです。

しかし、二項対立を取り除くための議論や概念は、一旦は対立という枠組みから出発しているため、その枠組みを完全に否定することは難しいという矛盾があります。

つまり、脱構築は二項対立を批判しながらも、その論理自体は依然として対立する概念に依拠しているというパラドックスを孕んでいます。

 

西洋では歴史的に、対象を二項対立で捉えることが多く、対立の統合(弁証法)や、二項対立の解体(脱構築)を通じて理論が進展してきました。

よって物事はいずれも対立する要素を持ち、そこから新しい統合を生み出すか、あるいは固定化された意味を崩すことによって多様な解釈を許容するというプロセス的な性格を強調します。

 

それに対して、東洋のチャトゥシュコーティは、単純な二項対立では捉えきれない複雑な現象を扱うことができます。チャトゥシュコーティは、ある命題について、「肯定、否定、両立、超越」の四つの可能性を示し、

この枠組みは、単なる「肯定/否定」という二項対立に陥らず、対象の性質や議論の深み―特に抽象的・形而上学的なテーマに対して―を広げます。

 

「賢さ」「知能」のテーマにおける二項対立、ほかにも「勉強」とか「読書」とか、「テキスト」とか「身体」とか、「量」と「質」とか、「遅さ」と「速さ」とか、この手のテーマにおいても、二項対立の文脈で一方を全肯定、一方を全否定、みたいな形が見られることも少なくないですが、

まぁとはいえ、「語り方」「書き方」はそういう型でも、実際には、その人が「一つのことしか絶対に認めない」、というようなスタンスで生きていることは稀で、

また「個人」の視点のように思えて、実際はその人の仕事や取り込んでいる分野の専門的なフレームが前提にあって、その視点ではそれが重要だから重要なんだと強調しているだけだったりもします。ただ、ある程度、思考の型には傾向性がありますね。

 

しかし、言説がその語り手の価値基準に固定されてしまうと、もともと「矛盾」や「一貫性」が持つ流動的で多義的な性質、すなわち背景にある身体性や実践、そして文脈依存性が見えなくなってしまいます。

 

「矛盾」は、その内容や文脈によって「あり得ないほど大きな矛盾」から「些細な違和感程度の矛盾」まで幅があります。

例えば、論理体系や定理の枠組みを根底から揺るがすような矛盾、「重大な論理的破綻」は理論そのものの信頼性を失わせるため、専門家が詰問する対象となります。

これとは別に、「文脈依存的な矛盾」、発言の背景、さらには異なる次元の問題が同時に語られている場合、形式上は矛盾して見えても、その言葉の裏にある意図を考慮すると、必ずしも直線的な論理の破綻とはならないことがあります。

「矛盾」の文字通りの意味だけでなく、それが発せられる状況、背景、そして動機まで含めた「身体性」が関わる場合もあります。

言葉では同じ「矛盾」という言葉を使っていても、そこには異なる身体性があり、たとえば日常会話、詩的表現、または政治的主張では、その意味するところや受け取られ方が大きく異なります。

発言者の意図やその時点で抱えている状況も、聞き手がどのように「矛盾」を捉えるかに大きく影響します。これにより、「矛盾はあってもよい」と受け入れる流動性や、逆に「矛盾は許されない」という厳格さが同居することになり、一義的な評価は困難になります。

 

矛盾を通じて露呈されること

二重基準(ダブルスタンダード)は、同じ状況や行為に対して、異なる基準やルールを「恣意的に」適用することを指しますが、

これも様々な「矛盾」を生み出していきます。ブラック企業の上司と部下、毒親、アカハラ、パワハラ、詐欺等もそうですが、矛盾した話法で相手を心理的に追い込んでいくことがあります。カルト宗教とか先鋭化した活動家も同様に。

「言い逃れ」や「嘘」は多くの場合、その中に潜む矛盾を通じて露呈されることがあります。全く恣意的ではない矛盾もあれば、何かを隠そうとして、正当化しようとして、都合よく見せようとした結果に生じる矛盾もあります。

また、言葉や理屈の整合性・不整合性とか以前に、「行動」を見て信頼を失う場合も同様です。口が上手く論を立てるのが上手くても、人はそれだけでは納得できないこともあるでしょう。

そして、「権威側の矛盾を指摘させない、あるいは指摘はさせても問題なしにする言語操作能力」に完全に丸め込まれていくうちに、解釈の主導権を相手に委ねてしまうわけですね。

これは学者をはじめ、対人援助職の専門家においても、より高度な形で知的に抑えつけるレトリックや「問われない矛盾」が見られ、

それによって「自分たち」を常に言説の権威側に置き、対立関係にある対象や、「自分たちにとって都合の悪い非権威側」を一方的に解釈して批判する形にもっていくことも観察されます。

脱構築は、テキストや概念の固定化された意味や二項対立を疑い、内在する多義性を明らかにする点で非常に有用な方法論ですが、しかし、そのプロセスには自己言及的な矛盾、抽象的な規範の欠如、無限退行による分析の停滞、そして権威的言説への抵抗の難しさといった複数のパラドックスや問題点が存在し、

結果として、脱構築がもたらす「意味の流動性」や多層性の露呈という批判が、権威的枠組み内ではあまり重視されず、実際の対話や変革を進める力が弱まることがあります。