言語ゲームの多元性
「論理と言葉は弱者のための武器」と巷では言われますが、強者はシンプルで感覚的な表現を用いることで、相手を圧倒し、議論を短時間で終わらせることができます。またこれは、複雑な議論を避け、感情的な反応を引き出すことで相手を制圧する戦略である場合もあります。
弱者は論理的な表現を用いることで、議論を深め、強者の主張の矛盾や欠点を明らかにすることができます。時間をかけて議論を進めることで、強者の威圧や恐怖に対抗する戦略として有効ですので、弱者側もあきらめずに頑張りましょう。
ではまず一曲紹介♪ ブランデー戦記で「Musica(ムジカ)」です。このゆる~い昭和っぽさ、いい感じですね~♪
みんなが待ってる 人類滅亡ワンダーランド
でもランタンの光は消さないで
「規範」「責任」「社会」
規範とは「こうあるべき」という基準や指針を示すものです。規範は、個人や社会が望ましいとする行動や態度、価値観を明示するもので、これに基づいて人々が判断し、行動を調整します。
前回は「レトリック」や「矛盾」をテーマにしましたが、私はそれ自体は否定しません。同様に「規範」「責任」「社会」「国」「言語」それ自体は否定しません。
しかし、『「規範」「責任」「社会」「国」を否定しながらそれに基づいた思考をしている者』ほど、「他者の逸脱」を容赦なく責めるんですね。これは先鋭化した反差別運動にも似たような灯台下暗しがみられます。
「責める」ということそれ自体の前提に「社会」「責任」「規範」があるということ。しかし、イデオロギーに基づく権力闘争にもかかわらず、それが「普遍的な人の心情に基づくもの」であるかのような語りをするわけです。
結局、ポリコレや先鋭化した活動家やアナーキストのように、「内集団・外集団バイアスに囚われた制度内批判」に過ぎないでしょう。
言語ゲームは単なる文法規則に従った行為ではなく、人間の「生活形式」そのものを表現します。つまり、規範や責任、社会性が言語活動に織り込まれ、日常生活の一部となっています。
「社会的規範とペルソナの形成」というのは、 社会や文化は、特定の行為や欲望に対して禁止を与えることで、どのような行動が許容されるかの基準を定め、個人はその基準に合わせて、自らのペルソナを形成し、外向きに「正しい自己」を演じます。
禁止された欲望や衝動は、ペルソナにより公には表出せず、無意識や隠れた領域、すなわちシャドー内に押し込められ、これらの抑圧されたものは、逆説的に「禁断の魅力」を帯び、主体の内面的な欲望形成に大きな影響を及ぼす要因となります。
この分離が激しい人ほど、他者の「正しくなさ」に過剰に厳しくなります。それは「自己投影」が強く働くからです。
見た目は「正しい人間」を演じていますが、実際にはこういう人の方が裏面が「獣」に近くなっていき、その抑圧されたストレスが噴出すると、獣のような攻撃性が「正義」に擬態して現れたりもします。
コロナ禍における抑圧、それに加えてポリコレやフェミニズムによる規範の強化、それらの総合としての社会のクリーン化の作用で、「政治的に正しいペルソナ」が強化され、シャドーはどんどん肥大化していく。
規範や権威で抑え込めないSNSでは、シャドーがよく現れています。なので、SNSを見て「なんて酷いんだ」と思う人は、「政治的に正しいペルソナ」の硬直作用がどれほど有害かが全く見えていなんですね。これはトランプ現象や他の政治的な現象にも同じことが言えます。
「物事を当たり前だと思い込まず相対化せよ」というよくあるレトリックですが、たとえば「サピエンスの全体性」の視点で見れば、「サイコパス」も固有の特質であり、「社会」を前提にした特性へのラベリングのひとつで、その意味では他の○○障害等と等価です。
「サイコパス」という概念は、社会的な「規範」や価値観が前提にあるからこそ定義が可能になる概念であり、これらの規範が存在しない場合、サイコパスの行動は特別に異常とはみなされず、単なる一個人の特質として捉えられます。
社会が持つ価値基準や規範が失われれば、サイコパスとしてラベリングされる行動も相対化され、特定の評価を受けなくなり、サイコパスは「ただそのようにあるもの」のひとつでしかなくなります。
「こんな奴はサイコパスだ!」と言って負の評価をする思考の前提に「社会」があり、社会がそれ自体として「人間の思考の外」に分離的に存在するわけではありません。社会は相互作用で維持されているのです。
現代社会において、「ただそのようにあるもの」だけを見て、それ自体を生きるヒトはいません。それを生きてはいない「人間」ゆえに、「こんな奴はサイコパスだ!」と語る。「ただそのようにあるものそれ自体」は言語化されえない。
アナーキストは国家や経済制度、社会の規範を批判し、個人の自由や自治を追求しますが、日常生活においては公共サービスやインフラ、医療制度、教育制度など、批判対象となる制度に依存しています。ビュッフェミニズムと同様に、ある種のご都合主義の自己愛運動に過ぎなんですね。
また、権威側は、対立する諸解釈をあえて均質化する、あるいは「すべては相対的だ」という議論により、最終的な価値判断や具体的行動の決定を回避する構造を作り上げることがあります。
この手の「人文系アカデミア牧人」のお説教を聞かされるくらいなら、牧師とか僧侶の方がまだいいです。
「概念化されたからこそ、その対象が初めて存在するかのような錯覚」があります。しかし概念化という過程によって、それ以前に存在していたものが内包する多義性や豊かな身体性が削ぎ落とされ、ある一側面のみが固定化されることがあります。
西洋の学者が『未開』を定義したときの誤謬にもよく似ています。自らの用いる枠組みに基づいて「未開」を把握し、その枠内でそれが存在すると思い込むように。
「宗教」という現象それ自体は、学問がそれを概念化する以前から様々な言語や身体性を通じて表現され、実践されてきたものであり、決して概念化の行為によって初めて『現れる』ものではありません。
「わたしが初めて○○を言語化した」という錯覚に陥る人々がいるのも、実際には学術界に先んじて、非学者や民衆の間でその対象は身体的体験や地域的な実践として既に存在していたからです。
むしろ、学者たちが概念化しシステム化することで、かつて多義的かつ流動的であった対象が、特定の言説体系に置き換えられるか、あるいは見えなくされてしまっている現実があります。
学術的な概念は、現実に内在していた多様な意味や実践を一つの枠組みにまとめ上げる試みであって、現実そのものを新たに生み出すわけではありません。結果として、この種の言説が説得力を持つのは、解釈を特権化する権威側の立場に依拠しているという、ある種の『錯覚』から生じているに過ぎないのです。
しかし、権威的言説は、自らの立場や規範を固定化し、異なる解釈や異論が出にくいようにするための言語戦略やレトリックを用いる傾向があり、対象となるテキストや現象に対して「正しい解釈」や「適切な規範」をあらかじめ決定し、その枠組みに対する批判を排除しようとします。
「解釈」の権威化とは、自らの立場を守るために他者の意見を排除し、自身の見解を唯一の正当なものとして位置づける行為として現れます。
フーコー的な権力観によれば、私たちの利益や選好の認知も権力の体験を通じた結果であり、完全に権力から免れた「真の利益」は存在し得ません。この観点から、フェミニズムやキャンセルカルチャーもうそうだし、知的権威主義的な何らかの統治も、ある種の権力の表れとして理解できます。
もし、一部の権威が「適切な表現」の決定権を握り、それに従わない表現を逐次排除するようになれば、これはまさに宗教的独裁の構造と類似するでしょう。 その結果、政治的な中立的調停が働かず、一方的な権威主義が支配する社会は、異論や多様性を許容しない権威主義体制、すなわち「宗教的独裁」に近いものとみなされます。
一方で、政治の役割は、異なる価値観や神々の闘争を調停し、多元的な価値が対立しながらも共存する空間を確保することにあります。民主主義は、多様な視点や利害、価値が自由に論争されることで成立するという前提に基づいています。
知識人や評論家が権威を維持するために実名による発言を強調する一方で、大衆は匿名性を利用して自由に発言します。この対立を、ブルデューの「文化的再生産論」に基づいて考察することもできますが、アーチャーの形態生成論を適用することで、エージェンシーの役割と社会変化の過程がより明確になります。
「自分の言葉に責任を持て」といった要求は、実名での発言が個人の信用や将来に影響を及ぼすという前提に立つものであり、匿名性が提供する保護は、むしろ自己検閲の軽減と自由な発想の促進という点で、批評の正当性を否定するものではありません。
匿名性により、テレビやラジオなどの伝統メディアで実現困難な、多様で革新的な表現や議論が可能になるというのは、批評の多様性と豊かさに寄与すると評価すべきです。
さらに、一部の人文系知識人は、伝統的なメディアでの実名による権威や序列化のモデルを言説空間で再現しようと試み、実名ブランドや権威に依拠してネット上の「野の言葉」と対立しようとします。
しかし、ネット上の議論は匿名性ゆえに、固定化された序列とは異なり、むしろ横断的で自由な対話を促す力を持っており、これにより旧来の権威構造が根本から問い直される可能性があるのです。
イギリスの社会学者ギデンズの「構造化理論」では、社会構造とエージェンシーを「二重性」として捉え、両者が相互に影響を及ぼし合う不可分なものとして扱います。たとえば、インターネット上の匿名性がエージェンシーの自由を促進し、それが新たな社会構造を形成するという観点です。
しかしギデンズは、構造とエージェンシーが不可分であると強調し、これが「中心的融合主義」と批判されることがあります。つまり、構造とエージェンシーが一体化しているため、個々の要素を分けて分析するのが難しいという問題です。
イギリスの著名な女性社会学者ーガレット・S・アーチャーは、構造とエージェンシーを分けて考えることで、より具体的な社会分析が可能になると主張します。たとえば、匿名性がエージェンシーを促進し、それが新たな社会構造の変化を引き起こす過程を詳細に分析できます。
知識人と大衆の関係をギデンズの理論で見ると、知識人の権威が大衆の行動に影響を与え、大衆の反応がさらに知識人の態度を形成するという相互作用のプロセスが強調されます。
アーチャーの視点からは、知識人の態度が大衆に与える影響と、大衆の日常的な経験が知識人の認識にどのように反映されるかを個別に分析します。これにより、知識人が大衆を評価する際の限界や偏見を具体的に理解できます。
アーチャーの「形態生成論」は、社会構造と個人の行動(エージェンシー)の相互作用を通じて社会変化が起こると説明します。この理論によると、個人は社会や文化の影響を受けつつも、自らの行動で社会を変える力を持っています。
匿名性は、この個人の力をより強くする可能性があります。匿名であることで、人々は自分の考えを自由に表現しやすくなり、新しいアイデアを生み出しやすくなります。これは特にインターネット上で顕著で、様々な意見が交わされることで新しい文化や考え方が生まれやすくなります。
従来のメディアでは、実名で発言する人の地位や権威が重視されがちでした。一方、インターネットの匿名の場では、そういった序列にとらわれず、誰もが自由に対話できます。これはアーチャーの言う「分析的二元論」、つまり社会構造と個人の行動を別々に分析する考え方で理解できます。
匿名性によって固定的な権威構造が崩れ、より自由な対話が可能になることで、社会や文化の新しい形が生まれる可能性が高まります。これがアーチャーの言う「形態生成」のプロセスを促進し、社会変革につながる可能性もある、ということですね。