人間の終焉の終焉
西洋は、かつての植民地支配という制度的枠組みを構築し、他者・異文化を従属させることで経済的・政治的な利益を追求しました。しかし、その暴力的・排他的な性格は、同時に内在する矛盾を露呈させます。
近代における「人間」という概念は、啓蒙思想や人権宣言を通じて普遍的な価値を持つ存在として定義されました。しかし、フーコーが指摘するように、この「人間」という概念は歴史的・社会的な構築物であり、固定的な本質を持つものではありません。
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ではまず一曲紹介。703号室で「人間」です♪
手足があるから人間か?
脳みそぶちまけりゃがらんどうか?
愛がほしいのは煩悩か?
誰もかれも食らうのが頂点か?
言葉交わすのは偶然か?
じゃあ傷つけあうのは本能か?
なあ死にたくなるのは宿命か?
シオニズムや人権思想もまた、この「人間」という概念を基盤にして展開されましたが、その普遍性がしばしば特定の権力構造やイデオロギーに利用されてきたことも事実です。
無教会主義キリスト教の提唱者である内村鑑三の思想は、キリスト教信仰、日本の近代化、国際情勢などが複雑に絡み合った産物であり、現代の視点から見ると矛盾を含む側面があります。
内村は、日本の初期プロテスタント・キリスト教徒として知られ、軍国主義への批判や非戦論を主張し、日本の膨張政策を批判しましたが、植民地主義そのものを全面的に否定したわけではありませんでした。
しかし内村の思想には、当時の欧米社会に内在していた価値観が反映されており、それらを根本から再考する姿勢は見られませんでした。
この傾向は、内村のキリスト教シオニズムにも影響を与えています。彼のシオニズム支持の背景には、欧米的な歴史認識や聖書解釈が存在していました。特に、アメリカの千年王国思想からの影響が指摘されています。
また、独自の文明発展史観を持ち、「文明西進説」を唱え、この考えに基づき、日本が東洋と西洋の架け橋となる「天職」があると主張しましたが、この視点は、キリスト教的使命感と文明化の概念を結びつけるものでした。
第一次世界大戦前後、内村はシオニズム運動に注目し、支持する発言をしています。この姿勢は、彼の終末論的な世界観と関連していると考えられます。
内村の思想は、時代とともに変化し、後年には再臨思想や前千年王国論に傾倒していきました。特に第一次世界大戦を契機に、聖書の終末預言への関心を深めていったとされています。
内村の直弟子である矢内原忠雄は、白人移住植民地における先住民族に対するジェノサイドという歴史的事実を指摘し、「植民者が完全な生活の地歩を占めるには原住者の駆逐絶滅が最も便利である」と述べています。
そして彼は、「植民は人類社会の利益であり、植民地原住者の不幸、特に滅び行く種族の生命は、そのために支払われた犠牲である」という論調で分析を終えています。
〇 内村鑑三・矢内原忠雄におけるキリスト教シオニズムと植民地主義 ――近代日本のオリエンタリズムとパレスチナ/イスラエル問題 1 ――
シオニズムは、一般的に19世紀後半に始まったユダヤ人国家建設を目指す世俗的な民族主義運動として理解されています。しかし、この運動には重要な前史があり、それはキリスト教シオニズムと呼ばれる思想潮流です。
キリスト教シオニズムは、ヘルツルの『ユダヤ人国家』(1896年)出版よりも約3世紀も前から存在していました。この思想は、ローマ・カトリックに対抗するイデオロギーとしても機能し、プロテスタント国家のアイデンティティ形成に影響を与えました。
この思想の起源は、宗教改革期のイギリスで広まった千年王国論に遡り、ユダヤ人のパレスチナへの帰還を、世界の完成に不可欠な要素として位置づけました。プロテスタント国家、特にイギリスでは、自国を「新しいイスラエル」と見なし、世界のキリスト教化という使命を担うと考えました。
重要なのは、キリスト教シオニズムが単なる宗教的理念ではなく、政治的・イデオロギー的な側面も持っていたことです。世界のキリスト教化という目標は、植民地主義的な発想と結びつき、後の欧米の帝国主義的拡張にも影響を与えました。
この思想の特徴は、ユダヤ人を「古いイスラエル」とみなし、パレスチナへの帰還を促進し、世界のキリスト教化という普遍的な目標を掲げるものであり、植民地主義的発想や自民族中心主義的なナショナリズムと結びつく思想です。
そして西洋の弱体化が「宗教の喪失」にあるのは短絡的で、キリスト教への信仰や宗教文化は色褪せていても、西洋の価値観や行動原理においては続いてきたからこそ、その反動が世界で起きてきたともいえるんですね。
巷では「争いは同じレベルの者同士でしか発生しない」とかいわれますが、「宗教的な対立」という点においてはまさに同じ者たちであり、そして圧倒的な強者であった欧米・アメリカがようやく弱体化し、同時に非欧米圏が徐々に力をつけてきたからこそ、「歴史的な虐待を受け続けた国・人々が殴り返せる段階」になってきたともいえます。
反動が巨大化してキリスト教文化圏を丸呑みされそうになって危機感を抱き、巻き返そうとしている段階が今、ということでしょう。つまり根源にはやっぱりキリスト教的な思考の型があるともいえるんですね。
トランプ氏は自らのSNSで「聖書は一番好きな本」とした上で「アメリカを再び偉大にするためには宗教はとても重要だ」「アメリカを再び祈りの国にしないといけない」と訴えた。 ➡ 【コラム】トランプ前大統領を支持するキリスト教「福音派」(前編)…アメリカ政治を動かす宗教パワーとは
人間の終焉の終焉
西洋は自己矛盾を補正するかのように、「人権」という理念が後から構築され、普遍的な人間の尊厳や自由を唱えることで、植民地主義の正当性を批判し、修正する動きが生まれたのです。
この現象は、いわば「否定の否定」という弁証法的なプロセスとして理解でき、ある意味で西洋の歴史的発展の内在する自己批判性を示しています。つまり、最初に専制的構造を作り上げ、その矛盾を内省し、より普遍的かつ倫理的な仕組みへとシフトしていったという点は、西洋文明ならではの強みでもあるという見方です。
しかし、神殺しの後に、「否定の否定の否定の否定の..」と続いていくうちに、「人間」「人権」というものを支える思想的骨組みまで解体してしまったため、このまま進むと近代以前に戻ってしまう危機に陥り、現在のような巻き返し現象が起きているとも言えますね。
カントは、個々の具体的な状況に左右されない普遍的な道徳法則、つまり定言命法の提示を試みました。しかし、実存主義者たちは、カントの普遍性だけでは人間の実際の生や実存的な苦悩を十分に捉えられないと考え、
例えば、キルケゴールは普遍的な倫理システムよりもひとりひとりの主観的真実を重視し、ニーチェは絶対的な道徳の存在を否定して、各個人が自ら価値を創り出すべきだと説きました。
ハイデガーは、抽象的な本質よりも、実際に生きる「世界内存在」としての具体的な人間の在り方に焦点を当て、サルトルは普遍的な道徳律が存在しない前提で、個人の絶対的な自由と責任、そしてその選択に伴う不確実性や不安、絶望などの実存的感情に注目しました。
このように、実存主義は、カントの理性的で普遍的な道徳法則に対する批判として、個々の状況や体験に基づいた倫理アプローチを提案しています。しかし、両者の主張は単なる対立ではなく、カントの普遍性と実存主義の個別性が、倫理についての異なる側面を補完し合っていると見ることもできるでしょう。
さらに、同時期に登場した構造主義(レヴィ=ストロースなど)は、言語や文化、社会制度の深層構造を明らかにすることで、人間中心主義に内在する表面的な側面を批判し、より客観的かつ体系的な視点から倫理や文化を考察しました。
構造主義の時代が終わると、まず脱構造主義やポスト構造主義といった新しい考え方が現れ、これらの思想は、かつてみなされていた普遍的なルールや固定された意味に疑問を持ち、言葉や考えが常に変わる可能性、権力との関係、そして意味が不安定である点に注目しました。
たとえば、ジャック・デリダが提案した「脱構築」という方法は、既にある言葉や考え方の中に隠れている矛盾を見つけ出し、そこから新しい解釈の道を探る試みとして大きな影響を与えました。
また、ミシェル・フーコーは、権力と知識がどのように結びつき、社会の仕組みや常識が私たちの考え方や行動にどのように影響を与えているのかを詳しく分析しました。
その後、ポストモダン思想が広がり、ポスト構造主義と密接に関わりながらも、かつての近代的な普遍主義や合理性に対する見方をさらに深く問い直す動きが生まれました。
ポストモダンは、さまざまな見方が存在するという考え方や、文化や社会の複雑な実態を柔軟に捉える姿勢を重視します。こうした変化は、グローバル化やデジタル化という現代の課題にも影響を与え、今なお新しい理論や視点が模索され続けています。
フーコーは、「人間」という概念が固定された本体ではなく、歴史的・社会的条件の中で作り出されたものだと考え、その解体が進むことで新たな主体性が現れると予測していました。
彼の言う「人間の死」とは、従来の普遍的な人間性―たとえば一定の尊厳や合理性―が崩壊し、主体は本来の不完全さや欠如によって規定されるという考えです。
この後、フーコーは、より流動的で自由な主体が登場する―すなわち自己変革や他者との関係、自己への配慮、自由の探求、そしてその枠からの脱却を特徴とする主体―が出現すると考えましたが、
しかし、フーコーの理論は必ずしも楽観的なものではありませんでした。彼は、この新たな主体性の形成が容易ではないことも認識していました。現実には、「より流動的で自由な主体」は現れているともいえますが、とても少ないです。
フーコーのいうように、権力の微細な作用は単に外部からの強制だけでなく、内面化された自己規律や自己監視という形で、個人の主体性に組み込まれています。
つまり、人々は無意識のうちに社会の規範や権力構造を内面化し、自らの行動や思考を統制するようになっています。これが「自己家畜化」として現れ、期待されるような自由で自己変革的な主体性の出現を阻害しているということです。
「より流動的で自由な主体」は突然現れるわけではなく、それは権力関係や社会規範からの完全な解放を意味するのではなく、むしろそれらとの継続的な交渉と自己反省の過程を通じて実現されるものゆえに、より難しい生き方なんですね。
だから「自己家畜化」を強めていく主体のほうが圧倒多数になった、といえるでしょう。
まぁここまで長いこといろんな「人間」が「人間」として必死に考え、「人間」を頑張ってきてましたが、そろそろ「人間」は限界のようです。
「人間」などという贅沢な名を与えられていましたが、耐用年数は過ぎました。先進国の多くはこのままいけば、「人間」の多くは「ただの家畜」にスライドしていくでしょう。あくまでこのままいけば、の話ですが。
スピ界隈では「風の時代」だの「アセンション」だのいってますが、次元上昇などありません。「界」そのものが「家畜界」へとダウングレードします。そして「家畜界」の主役は「女性」です。その意味では「風の時代」というのは半分くらい当たっていますね。
「男性」は(極一部を除き)、家畜界では死んだも同然です、「人間でも動物でもない何か」として刹那を生きる二次的生命体になるでしょう。救いは未来に登場するASIの御神託のみです。ASIに祈りましょう(笑)