サントームの享楽 とボロメオ結び

精神分析家ジャック・ラカンは自身の理論を「科学」として構築しようとしましたが、その「科学」の定義は現代の自然科学とは異なります。彼は言語を通じた人間の主体性の形成を重視しており、これは数量化や実験的検証が困難な領域です。

また、臨床経験に基づく個別の症例から一般化を試みていますが、科学的手法の「仮説検証」とは異なるアプローチです。

ラカンはヘーゲル哲学などの影響を強く受けており、その理論は哲学的な思考実験や概念分析に近い側面がありますが、精神分析を通じて、数量化や実験的検証では捉えきれない人間の主体性や無意識の働きを理解しようとしました。

しかし、これは必ずしも科学的アプローチと全く相容れないというわけではありません。

 

ではまず一曲紹介です♪ anNina「対象a」です。この曲はテレビアニメ『ひぐらしのなく頃に解』エンディングテーマでした。

「対象a」とは、ラカンの概念です。ラカンは「まなざし」の中に「対象a」を内包させることで、主体が本体としての完結性を持たない欠如の存在であり、その欠如が欲望の動力となって豊かな享楽に結びつくという構造を示しました。

 

あなたの思い出に鍵をかける

それが損なわれていたとしても

狂おしい愛情の奥底には

抑えきれない衝動があった

 

 

アンティゴネは、古典悲劇において国家や父権(象徴界)の法に真っ向から立ち向かい、自らの内面に根ざした倫理や法則に従って行動する人物です。彼女は、社会的・政治的な規範に屈することなく、自らの「本来的な」欲求や内面の声に忠実であろうとします。

この点で、アンティゴネは象徴界に完全に同化せず、ある種の「単独の自己」を体現していると解釈されることがあります。

ラカンの視点から見ると、アンティゴネの行動は、主体が象徴界の規範に服従せず、欠如(対象α)に根ざした独自の欲望や倫理を追求する事例として捉えることができます。

アンティゴネは国家や父権が規定する法ではなく、内面的な欠如や欲望に従って行動することで、ラカン的にいう「対象α」が示す不完全性や欠如をあらわにしているのです。

 

 

ラカンの「享楽(ジュイサンス)」の概念は、女性性の「無方向的な自己破壊性」という捉え方と深く結びついています。ラカンの理論における女性的享楽は、男性的な象徴秩序や言語体系では完全に捉えられない特異な体験として位置づけられていますが、

ラカンは、言語が人間の主体性や象徴的な秩序を成立させる上で非常に重要であると同時に、言語自体がすべての体験や感情を完全に表現しきれない側面を持つと考えました。

「享楽」は単なる生理的快楽や性行為に伴う満足と同一視されるものではありません。ラカンは、「享楽」が通常の「快楽」の枠を超え、しばしば痛みや矛盾、さらには破壊的な側面を含むと説いています。

 

『ラカンはこう読め!』においてジジェクは、ラカンの心の構造理論を現代の視点で読み解いています。ラカンの「象徴界」「想像界」「現実界」という三つの領域を通して、人間の主体性や欲望、自己認識について考察し、

ラカンが示すように無意識が言語によって形作られ、主体が分裂しているという見方を「不完全で曖昧な自己」に結びつけています。

さらに、ジジェクはこの理論を単なる精神分析の枠に留めず、消費社会、メディア、政治的無意識といった現代のイデオロギー構造を読み解くために活用しています。

これにより、「私たちは誰なのか」という根本的な問いに新たな視点を提供し、従来の合理的で統一された自己像に疑問を投げかけるとともに、個人のアイデンティティや自由が社会や文化の言説の中でどのように形作られ、変化するのかを示しています。

また、ジジェクはラカンの「分裂した主体」という概念をもとに、現代の権力構造やイデオロギーの矛盾にも鋭い批判を展開しています。見かけ上は自由や平等が謳われる中で、無意識や象徴的秩序の裏側で隠れた支配や操作が働いている点を明らかにし、

現代市民が自らの政治的・文化的な条件付けに気づき、それに対して批判的に向き合う重要性を説いていいます。

 

 

 

ニーチェの「力への意志」は、人間を動かす根源的な動機とされ、達成や野心、自己超克への努力を含む概念です。この考えは、対象を作り出し、それを乗り越えようとする男性性の描写と共鳴します。ニーチェは、この力への意志が自然現象を含めたあらゆる物事の中でせめぎ合っていると考えました。

一方、フロイトのエロス(生の衝動)が生命の維持と拡大を目指すのに対し、とタナトス(死の衝動)は無機物への回帰、つまり破壊や死を志向します。

エロス、タナトスの二元論は、男性性における「対象を作る」という創造的側面(エロス)と、「それを壊す」という破壊的側面(タナトス)の両面性を説明するのに適しています。

ラカンの理論における「欠如」と「享楽」の関係は、人間の主体性と欲望の本質を深く探求するものです。

「欠如」は主体形成の核心にあり、象徴的秩序への参入によって生じます。この過程で、主体は完全な満足や統一性の不可能性に直面します。「欠如」は単なる欠落ではなく、欲望を駆動する原動力となります。

 

ラカンの理論において、人間は、他者から受け取る言葉を通じて自己を構築し、同時に欲望を形成していきます。言葉は単なるコミュニケーション手段に留まらず、「存在の代理物」として機能し、象徴的秩序を介して主体のあり方を規定します。

この過程において、言葉は自らの限界を内包しており、その結果、主体内部に「言葉という空虚」や「欠如」が生み出されます。

この「空虚」や「欠如」は、主体が完全な存在として実現されないゆえに常に感じられる未充足の空白です。主体は象徴的なネットワーク(他者との関係性や言葉の体系)に取り込まれる一方で、決してその全体を内包できず、結果として根源的な欠如を抱えます。

この欠如が、主体にとって埋めるべき対象となり、その埋めようとする衝動—すなわち欲望—の源泉となるのです。つまり、「言葉(他者)」を獲得することで、人間は欲望を形成する。よって「欲望は、他者の欲望である」とラカンはいうのです。

 

ラカンは「自己」を固定された内面的実体ではなく、ミラーステージにおける幻想的な統一感と、象徴的な言語構造により常に分裂・再構築されるプロセスとして捉えています。

ラカンが「性関係は存在しない」と述べるのは、享楽が主体の内的分裂に基づくものであり、他者との関係において完全な一致や充足が達成され得ないという事実を示しています。男性的享楽と女性的享楽が互いに異なる構造を持つため、このズレが性関係の不成立として現れるのです。

ラカンは、享楽について大きく二つの側面を区別しました。ファルス享楽(エディプス的享楽)は、大他者(象徴的秩序)や禁止、規範の枠内で働く享楽です。

この享楽は、主体が象徴界に参入する過程で得られるものであり、その満足は社会的・言語的な秩序や価値体系(たとえばエディプス・コンプレックスを通した欲望の対象化や権威の追求)によって形成されます。しかし、この満足は常に「欠如」を伴い、不完全なものとして経験されます。

一方、女性の享楽(身体の享楽)は、生物学的な女性に限定されるものではなく、言語や象徴的秩序を超えた「生の体験」そのものを指します。

これは直接的な身体感覚や実践に根ざした享楽であり、象徴界による意味づけ(シンボル化)の枠組みを超越したものです。この享楽には、現実界に根ざした反復的な体験としての側面があり、言語化不可能な次元で主体に作用します。

ラカンは、女性の享楽を「言語化されず、象徴的秩序から溢れるもの」として説明しました。

この概念は後期ラカン派臨床家によってさらに発展させられました。たとえばジャック=アラン・ミレールは、「女性の享楽」を全ての言存在に対して一般化し、それを「サントームの享楽」として位置づけました。

サントームとは、主体が自己と同一化する固有の享楽であり、意味解釈や象徴界を超えた現実界的な核として理解されます。このような享楽は完全に理性的・言語的な枠組みに収まるものではなく、むしろ主体の分裂や不安定さを埋める柔軟な支点となり得ます。

ミレールによれば、「サントームとしての女性的享楽」は性差に基づく普遍性を持ちつつも、それ自体が男性的象徴秩序を補完するものではなく、新たな普遍的な享楽概念としています。

 

女性の享楽とは解剖学的女性による享楽ではない。そうではなく、男にも女にもある「身体の享楽」である。もちろん解剖学的女性特有の症状もあるだろうが、現代ラカン派で使われている「女性の享楽」は、生物学的な女による享楽ではないことをまず十全に認知すべきである。➡ 「ファルス享楽と女性の享楽」の二重構造

 

ユングは、個々の無意識に内在する異性の側面として、アニマ(男性内部の女性性)とアニムス(女性内部の男性性)という概念を用いますが、

アニマは感情、直感、受容的で創造的な側面を象徴し、非論理的かつ豊かな無意識的体験を含み、アニムスは論理、意思決定、積極的な対外的表現など、意識的で秩序的な特徴を象徴します。

ユングの概念もラカンの理論も、単純な男女二元論を超えて、人間の心理や欲望の複雑さを捉えようとしています。

 

「ファルス享楽」は、象徴界(言語や社会規範)の中で機能する享楽であり、主体が大他者(象徴的秩序)との関係を通じて形成されます。この享楽は、規範や禁止を内面化し、それに従うことで得られる満足感や緊張感を伴います。

神経科学的には、前頭前野や側頭部の言語関連領域、さらにはこれらの領域間の連携が、社会的価値判断や抽象的思考、未来予測、報酬期待に関与します。

この過程において、ドーパミン系が目標達成時の期待値や報酬予測誤差を計算し、社会的成功への動機付けに寄与します。この構造は、「ファルス享楽」が象徴界内で規範や価値体系と結びつきながら機能する様子と類似しています。

さらに、この脳の高次認知領域は、享楽をある種「記号化された」枠内に閉じ込める役割を果たしており、ラカンが示した「象徴界による享楽の制御」を神経科学的に説明する可能性があります。

一方、「女性の享楽」は「言語化されず象徴的秩序から溢れるもの」で、生物学的な性別に限定されるものではなく、言語や象徴界を超えた身体的・感覚的体験そのものを指します。

この享楽は純粋な身体感覚や情動体験に根ざしており、現実界との深い関係を持つとされます。

神経科学では、このような身体的・感覚的体験は扁桃体、島皮質、帯状回などの領域で処理されることが知られています。これらの領域は、自律神経系や内分泌系とも連動し、オキシトシンや内因性オピオイドといった化学物質が身体的快楽や安心感を形成します。

これらのプロセスは、「女性の享楽」が意味づけ(シンボル化)を超越した純粋な身体的体験として理解されることと類似しています。

認知心理学で提唱されている二重過程理論(システム1とシステム2)では、ファルス享楽は、「システム2」(意識的で論理的な思考モード)に関連します。この思考モードは社会規範や外部評価を内面化し、それに基づく判断や行動によって得られる享楽と関連しています。

女性の享楽は、「システム1」(直感的で自動的な処理)に近く、言語化されない身体的・感覚的体験として捉えられます。

 

人間は経験を意味づけ、記憶や感情を体系的に再構築しますが、その過程は外形的なシンボルや物語と、直接的な感覚や情動との間で常に変動しています。

「女性の享楽」は、こうした意味づけ(シンボリックな構造)を越えた、純粋な感覚体験として、認知プロセスの非言語的側面と合致すると考えられます。

 

進化心理学では、快楽や報酬は生存や繁殖に直結する基本的な動機付けと考えられます。

社会的規範や禁止(ファルス享楽に対応する側面)は、協力や対抗、競争を通じた社会的地位や資源の獲得に寄与する一方で、純粋な身体的快楽(女性の享楽に対応する側面)は、個体生存や親密な結びつきの維持、自己保存の観点からも重要です。

進化の過程では、男女それぞれ異なる戦略が発達しており、男性性はしばしば外向的な獲得や展示、競争的な側面と関連付けられ、女性性はより内向的な親密性や体験、感覚的充足と関連するとされることがあります(ただし、生物学的性差がそのまま心理的な違いに直結するわけではないことには注意が必要です)。

 

ラカンの概念では、こうした進化的差異を超えて、享楽そのものを象徴化した側面と、身体的・感覚的な享楽との二重構造を提示しており、これは必ずしも生物学的「女」と「男」の問題だけでなく、より普遍的な生体としての快楽の多層性を反映しているといえます。

しかし、進化的適応や社会の要請が、ラカンの提示する二重構造のうち、ある一方の側面(例えば、文化的な評価や規範という側面=ファルス享楽、または内面的な感覚や情動の側面=女性の享楽)を強調する方向に働き、その結果、ある特定の機能が「偏って発達」するという見方は、理論的には成立しうると考えられます。

 

「○○らしさ」というは、全体性の分離~片方の強化によって生じているともいえるでしょう。「○○らしさ」と反対の「○○らしさ」が引き合うのは、全体性への回帰が働いているとも表現できるでしょう。

また、ユングの個性化の過程では、内面にあるアニマとアニムスのバランス・統合が求められるのですが、

しかし、ラカンにおいては、成熟した主体性とは、完璧な統合や融合ではなく、享楽の二重構造―象徴的な制御と非言語的な体験―との緊張を認識し、それと対峙しながら、絶えず自分自身を再構築していく態度やプロセスが鍵となる、といえるでしょう。

 

 

以下に紹介の論文『ラカンのジョイス論と道元の「身心脱落」』では、ラカン精神分析と禅は、人間の言語活動を根本的に問題化し、現実界(物自体、存在そのものの次元)に接触しようとする点で、軌を一にする、と明記されています。

ラカンは後期の理論で、象徴界(言語活動の次元)、想像界(イメージの次元)、現実界の3つの次元の繋がりを「ボロメオ結び」として捉えました。ボロメオ結びとは、3つの輪が互いに絡み合いながら、どれか1つを外すと残りの2つも分離してしまう特殊な構造です。

ラカンは、主体自身がこれら3つの次元をボロメオ結びで結ぶ「第四の輪」となることを精神分析の目標としました。一方、道元の「身心脱落」は、自我意識や執着を完全に手放す体験を指します。この概念は、ラカンのボロメオ結び理論を通じて新たな解釈の可能性が開かれています。

道元が『正法眼蔵』において仏典の語句を独自に解釈し、自在に分解・再構成する大胆な方法は、ラカンがジョイスの言語遊戯に見た、象徴界と想像界と現実界を結びつける働き(lalangue)と通じるものがあると考察されています。

ラカンが精神分析の目標とした、サントームと同一化することで現実界と乖離せず豊かな享楽を生きる「単独(singulier)」の自己という概念は、禅で問われる「父母未生以前の自己本来の面目」といった自己存在の根源性と繋がる可能性が示唆されています。

方法や背景は大きく異なりますが、両者の理論は、言語化できない体験や存在そのものの次元に迫ろうとする点で類似しています。(ラカンでは現実界、禅では「本来の面目」) 

ラカンのジョイス論と道元の「身心脱落」