排除アート化した「漂白化された社会」
障害を個人の問題として捉える「医学モデル」に対し、社会モデルは障害を社会的な文脈で理解しますが、
社会の要請する能力の基準・バランスに達していないゆえに「生きづらさが(困難)」が生じ、そのレベルが「障害」といえるほどのレベルのため○○障害だと認定された、ということは、
反対側から解釈すれば、障害は個人の機能や特性にあるのではなく、その社会がその人にとって適応的なシステムではないゆえに生み出された概念ともいえます。
生きやすさは「素の自分がどれだけ多数派に近いか」で決まる
— 湯呑み (@yunomi_123) December 5, 2024
ではここで一曲紹介です♪ 中島みゆき「帰れない者たちへ」 歌も詩も、今でもなお、沁みます。
帰れない者たちが 月を見る十三夜
「帰る気もないのね」と 手紙読む十三夜
冷たい肌です 涙が浸みて
冷たい人です 恩知らずで
帰れない者たちが 月に泣く十三夜
排除アート化した漂白化された社会
「○○障害」という概念は大昔はなかったわけで、特定の社会的要請や文化的背景によって形成されてきたものであり、歴史的には比較的新しい概念です。
その中でも、「近代化と産業革命」によって「画一的な労働力が必要とされるようになった」ことが大きなきっかけとなっているでしょう。
たとえば、第三次産業、第四次産業においては、社会的知性(SQ)や感情的知性(EQ)や言語性IQ がより重要になり、そのことと「発達障害」は相関していると考えられます。
また最近の潔癖主義的な人間観、先鋭化したフェミニズムやポリコレ文脈における他罰性にしても、個人に求められる「まともさ(道徳的水準)」をどんどん吊り上げているという点では、障害の社会モデルのような捉え方が可能です。
つまり社会が個人に要請する能力、道徳の水準の方がどんどん高くなっているわけですね。
そして今の社会では、言語性IQが高い発達障害の人と、低い人では、かなり異なってくるでしょう。
おそらく「闇バイト」の実行役に中にも、言語性IQが低い人が多く紛れていると予想されますし、社会的知性(SQ)や感情的知性(EQ)が低い人が孤立化しているケースもあるでしょうし、社会要因としては、「コロナ禍」が若者に与えた負の作用もとても大きいでしょう。
話を戻しますが、VIQは、言語を用いた情報の理解、処理、表現能力を測定します。情報化社会では、大量の情報を効果的に処理し、適切にコミュニケーションする能力が求められます。高いVIQを持つ人は、複雑な情報を迅速に理解し、他者に伝える能力が優れています。
言語能力は学業成績や職業上の成功に直接影響を与え、特に、教育の場では読解力や表現力が重視されるため、高いVIQは学習やキャリア形成において有利に働きます。職場でも、効果的なコミュニケーションスキルが求められるため、VIQの高さが重要視されます。
そして現代のデジタル環境では、SNSやメールなど言語によるコミュニケーションが主流のため、言語的なスキルがより重要になり、高いVIQはオンラインでの効果的なコミュニケーションにも反映されます。
つまり「能力格差」には、単に学力(IQ)とか体力のようなわかりやすものだけでなく、「SQ、EQ、VIQ」という多元的な質が含まれており、その能力の低さと「資本の乏しさ(性的魅力資本を含む) 」が相関しており、
そこには「親ガチャ」や「社会環境」等の環境因子も複合的に作用しています。
それゆえに物事を適切にこなせなかったり、判断ミスを起こしやすかったり、失敗したときや行き詰った時、その状況を適切に言語化出来ず、また助けを求めるにも関係資本を築く能力も不足しているため抜け出せない、というような悪循環が生じてくる。
※ 性的魅力資本を持つ属性(主に女性)は、俗にメンヘラと言われる属性でも包摂の対象になるが、男性の場合は困難である。
IQ(学習能力や問題解決能力)とEQ(対人関係スキル)に関する能力には相関関係があることが研究により示唆されています。つまり、「困ったときに状況を乗り越える能力や、関係資本を構築する能力」には先天的な差異があります。
「能力ガチャ」によって、スタートラインで既に「適応能力が高い人 / 低い人」の格差があるにもかかわらず、「結果」だけを見て「努力しないからそうなった」と公正世界仮説な解釈の仕方で決めつけて、「底辺」とか「クズ」として蔑み排斥する。
それらの風潮、社会的評価によって、ますます「そういう人」としてイメージが固定化され、抜け出せなくなっていく。
社会的比較理論(アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーが提唱)では、人々が他者と自分を比較して自己評価を行うとされていますが、公正世界仮説は、世界が公正であるという信念に基づいて、人々の状況や結果を解釈する傾向です。
この二つが合体すると、「適応能力が高い人 / 低い人」では心理効果が真逆になってしまうんですね。
「適応能力が高い人」は、上方比較を行い、さらなる成長を目指す傾向に向かい、何かの成功・達成を自身の努力や能力の結果と捉えることで自尊心を高め、さらに上手くいきやすくなる。
だから、「社会的地位の高い人々」「それなりに上手くいった側」ほど、公正世界仮説的な人間観、「結果」から帰納的に人物評価する傾向が強まる。そのほうが(自分たちにとっては)プラスに働くから。
しかし逆に、社会的比較によりスティグマを受けた人々は、自身を否定的に評価して「自己スティグマ」を形成してしまうと、セルフイメージが固着し抜け出せなくなる可能性があります。
どんなことにせよ、何かが出来ない状態から出来るようになるには、「トライ&エラー」のプロセスが必要です。
それはときに恐怖や不安を伴うこともあるでしょうが、しかし「IQ(学習能力や問題解決能力)とEQ(対人関係スキル)が高く、協力的な人々や環境に恵まれた人」は、多元的な「支え」があるのでそれがしやすい。
「失敗」しても何とかなるし、何とかできるからです。
しかし、「自己否定」が強すぎ、IQ(学習能力や問題解決能力)とEQ(対人関係スキル)が低く、「支え」が少ない人はそれがなかなかできないことがある。
「挑戦」といっても「恐怖や不安」といっても「孤独」といっても、能力・関係資本に恵まれている人とそうでない人では、似て非なるものなんですね。前回の記事で「似て非なる光」について書きましたが、「似て非なる影」もあります。
そして「自己否定」は自分が生み出したものではないということ。それは後天的な社会的相互作用で生じているものです。「他者」の思考の型を内面化し、社会的比較が生じることによって自己を否定的に規定することで強化されたもの。
社会はそういう人(主に男性が対象)を「クズ」「底辺」「劣化した日本人」としてコケ下ろしたりします。そういう「他者」の眼差しが内面化され、「自分自身(弱った状態)」に向けられる。
そして内外からの否定作用に 押しつぶされてしまうと、自暴自棄的になって「やらかしてしまう」わけですね。そうするとさらに社会的地位が固定化されてしまう。
これらの複合的な作用で泥沼化している精神状態を、「性格の悪さ」「人間性がクズ」と一言で単純化して片づけるような人は、「最終的な結果」しか見ていないんですね。
とはいえ、IQ、EQが低い人でも、「EQ、VIQ」は後天的な努力で伸びます。「体力」は筋トレ、マラソン、山登りでもいいですし、(私は山登りが好きで、筋トレもやっています)
また、「IQ」「健康増進」に関しても、(限界はありますが)ある程度なら可能です。➡ 「瞑想でIQが上昇」ハーバード教授が驚きの報告
私はエクササイズのほとんどが瞑想と東洋系の身体技法によるもので、それが好きで数十年続けてきただけですが、「身体」の状態を見るに、続けてよかったと思っています。
「VIQ」を伸ばすお手軽なものが「読書」です。しかし、社会的知性(SQ)は総合的な能力であり、「EQ、VIQ」にしても「他者」との関係性の中で育つものなので、その機会が奪われやすい人々はなかなか思うようにはいかないでしょう。ゆえに、格差は固定化されやすいわけですね。
まぁこういった構造をガン無視して、同じ水準のそれなりに恵まれた人たちとまとまったほうが、「自己の幸福の最大化」には繋がりやすいでしょうが、そういうタイプ人のはあまり「弱者問題」に首を突っ込まない方がよいでしょう。
そうした「弱者」の多くは、小ずるい賢さのある人ではなく、能力や発達上の問題でコストを負担できる能力がなかったり負担が極大化してしまうような人ではないでしょうか? そういうのは自分には新手の自己責任論にも思えます。
— 田村尚也Naoya Tamura (@NaoyaTamura6) December 5, 2024
「弱者」ほど共同体の調整コストを負担しないフリーライドな生き方を「賢い」と誤認しているわけではありません。まぁ探せば中にはそういうひともいるかもしれせんが。そしてこういうのが「身体のない人文系インテリ知識人の理屈」の実例のひとつなんですね。
後者の、「弱者」の多くは、コストを負担できる能力がなかったり負担が極大化してしまうような人 という捉え方のほうが、「弱者がなぜ弱者から抜け出せないか」のリアルを身体で捉えています。
このように、公正世界仮説は、「社会的不平等や不公正な状況を正当化するメカニズムとして機能する」ことがあります。人々は、自分より不利な立場にある他者を見て、その状況は彼らの行動や特性の結果であると解釈する傾向があり、これは社会的比較において、「自己の相対的な優位性を維持するための心理的防衛機制」として働く可能性があります。
「○○みたいな人は今すぐ離れましょう」
今の時代は、一次元的権力のようなガツンと叩く感じの怒りは少なくなったけれど、三次元的権力のような「そう見せないやり方」はむしろ増えてきたように思う。
言葉も態度も荒々しくないし、激高のような表現も目にはつかなくなったが、違反者に対する徹底した否定、「邪魔者・逸脱者の完全消去」のような漂白化の冷徹さを見ていると、
怒鳴って拳骨して終わり、あるいは取っ組み合いをして喧嘩しながら、互いの見ているもの違いに身体で触れ、そうやって他者との差異を時間をかけて理解していく時代ほうが優しかったようにも思える。
昭和の人はよく怒った。親であれ、先生であれ、会社の上司であれ、職人であれ、芸術家であれ、芸人であれ、「怒る人」がほんとうに多かった。しかし存在を見えないように排除する人は少なかった。
馬鹿な事すると凄く怒るが、それでも「何とかこの馬鹿を一人前にしてやろう」と骨を折る親方も結構いた。
その意味では他者はもっと身体の近いところにいた。それが煩わしさにもなったが、助けにもなっていた。長所と短所はセットで切り離せない。昭和はほんとうに弱者に厳しかったか?
かなり大雑把でいい加減なものが許されるあの空間には、強者も滅茶苦茶なことはすることはできたが、しかし弱者ものんびり生きれるスペースがあったともいえる。体感的には、「アジール的なるもの」は昭和の方が多かった。
「ふわちゃん」の消去の仕方って、まるで令和の神隠しみたいな感じで、どこか見えないところに排除された感じ。「嫌な奴は世界からリセットすればいい」だけの他者観。この「リセット的な他者観」はSNSでよく見聞きする。
「○○みたいな人は今すぐ離れましょう、さすればあなたは幸福になります」的な啓発が人気のようだが、コロナ前はそればかりでもなかったし、石田 光規 (著)の「人それぞれ」がさみしい のような他者観も、それなりの共感があったように思うが、それは数年足らずでどんどんなくなっていった。
あきらかにコロナ禍が加速させたように思う。
最近の学生さんの秩序志向の強さ、「教室で私語してる他の学生のことはとても苦々しく思ってるけど、さりとてそれを大声で叱責する教員を見るのも嫌」が最大公約数で、「見えないところで処理してください」という無言の圧がある気がするんですが、そんなことはありませんか?
— 河野有理 (@konoy541) November 22, 2024
しかし、私を助けたのはどのような人だったかを思い返すなら、「非常に大きな揺らぎがあっても、それでもリセットはしなかった人」だけなんですね(笑) これは関係を損得で見ているかどうかも大きいでしょう。
わたしはそういう風に見ないので、損得を超えた関係がずっと続いています。その人の核となるような部分を互いが丸っと肯定しているのであれば、喧嘩をしながら時に離れたりもしながらでも長く続いていくものでしょう。
それはともかく、「○○みたいな人は今すぐ離れましょう」が実践できるのは、「人間関係をリセットしながらも同時に構築もできるような能力があり、環境が選択できること」が前提で、現代の個人主義社会に適応的な人の生き方のひとつを提示したものに過ぎません。
しかしそもそも弱者はリセットできる濃い関係すらほとんど残っていない人も多いし、環境を自由に選択できる能力・資本もなく、コストを払う余裕がない人も多い。
だから言い方を変えれば、「○○みたいな人は今すぐ離れましょう、さすればあなたは幸福になります」は、「関係資本を作れないような無能なクズは、みんなで排除しましょう」と言っているようなものなんですね。
「縦の旅行」とか口先だけでいうインテリに限って、ちょっと嫌な目に合うと「横」でガッチリ固めるものです。ファッション感覚の旅行ならまぁそうなるでしょう。
「○○みたいな人は今すぐ離れましょう、さすればあなたは幸福になります」の社会では、「資本がもともと少ない人、能力が相対的に低い人」は、関係を通じて豊かになっていく機会も失い、見識を広げたり、何かを高めたり成長する機会も失っていく。
「そういうひとこそそれが必要なのに、そういう人こそそれが得られない負のループ」は、ますます様々な意味での格差を形成し、それが社会問題という形で噴出してくるでしょう。
全てではないにせよ、「闇バイト」の中にも、コロナ禍から加速した「切断」と「リセット」の他者観によって、社会から排除された何かが、社会に戻ってきた反動の現象が含まれているともいえます。
「寄る辺なき人々を~」とかなんとか言いながら、同じ口で「寄る辺も作れないようなクズ」とコケ下ろしているのが人文系だったりするのも、まぁよくある光景ですが、もはやバラモン左翼みたいな他者観といえます。
損得で考えれば、寄る辺のない弱者(特に男性)なんて関係を持ちたくない、となるのでしょう。
つまり弱者ほど、「○○みたいな人は今すぐ離れましょう、さすればあなたは幸福になります」とか、バラモン左翼みたいな他者観からは離れて、自分の本当の味方は誰かを理解し、一人でもそういう人を見つけた方がいい、ということ。
「漂白された」ことすら「漂白」されていく社会
ところで、ロシアでプーチンの批判をした人が謎の死をとげたり、習近平を批判した人が消息不明になったりしますが、あの手の一次元的権力の「排除」はまだわかりやすいですが、
ポリコレを含め、三次元的権力の形で行われる「排除の神隠し」は、どこかひぐらしのなく頃に的な薄気味悪さがある。
「排除した側は排除された側より良い人間なのか?」といえば、一次元的な権力の行使の場合は権力の主体が明確で一方的なので全然そうは思えないが、三次元的権力のような「排除の神隠し」の場合は、「あ~目障りなのが消えてスッキリ」という感じで完了する。
驚くべきは、この種の他者観を一部の心・精神の専門家とか人文系アカデミアが有しているということも珍しくないということ。
そして、「道徳的水準」による漂白化は、美容整形・ルッキズムの無限ループにも通じているように思います。それがマクロ化していく中で、前提条件に置き換わって、「醜い顔」とされたものはもはや(事前に)目立つ場所から排除されるようになっていく。
今や、『「漂白された」ことすら「漂白」されていく社会』に向かっているようです。
こうやってルッキズム社会はある種の排除アートのように、「醜さ」を誰かが一次元権力的に叩くことなく、「主体無しに排除する権力作用」となっていく。
「怒鳴って拳骨して終わりの時代」は、「醜さ」を馬鹿にしながらも同じ場に受け入れていたし、「いろんな質の顔」が見える場所にあったし、「いろんな質の臭い」も同時にあったし、「いろんな癖の強さ」が同時にあった。
それは「魅力」にもなれば「おかしさ」にもなるが、身体性とはそもそもそういうもので、それ自体に良し悪しはないにせよ、それぞれの癖を馬鹿にし合うことも度々起きていた。
「それぞれの癖を馬鹿にし合うこと」も、互いの癖の強さの自己紹介に過ぎないものですが、とはいえ、根っこには同じ生き物感覚があったゆえに、その人(存在)を視界に入らないように遠ざけたり、リセットすることは少なかったともいえるでしょう。
見方を変えれば、ぶつかり合いながらも「多様性ゆえの不快」と共に生きていた時代ともいえるが、多くは意識してそうしていたわけではなく、「無自覚に」そうだったのでしょう。
共に生きているときはそれを絶対的な差異とは感じず、むしろ見えないようにすればするほど、キレイにすればするほど差異や違和や汚れをイチイチ気にするようになり、
他者の言動にも過剰に反応し、存在ごとリセット(キャンセル)することで、むしろより不快な他者への感覚を強化し、さらに多様性(多様な身体性)が我慢ならなくなって排除が徹底していくという逆説。
ある種の神経症的なアレルギー的な反応の増大ともいえるが、しかし、ある程度の拒絶反応で落ち着くことが出来ないままどんどん進行していくのが、この現象が中毒症状とよく似ているところ。
最終的には「生き物であることの否定(特に男性が対象)」にまでいくような狂気性すら感じますね。