共時性と因果性 ゆらぎから創造へ
因果性は、ある出来事(原因)が別の出来事(結果)を引き起こす関係を指します。これは時間的な順序があり、原因が先に存在し、その後に結果が生じるという明確な流れがあります。
共時性は、因果関係に基づかない「意味のある偶然の一致」を指します。これは、異なる出来事が同時に起こりながらも、直接的な因果関係がない場合を含みます。
「生命と人間―ベルクソンの生命哲学の立場から― 」 より引用抜粋
彼女は科学が一方に研究主体として理性を、他方に研究対象として物質を置き、理性が物質を論理的、客観的に分析して普遍的なものを記述する、という従来の科学にとどまる限り、科学は自然や生命を捉えることはできないのではないかと言う。
「なぜ科学はその統一的理解を多様と結びつけられないのか。普遍、統一を求めてきた長い旅が、生命を離れての理性に依拠したものだったとすれば、それを多様と結びつけ、日常性をもたせる方向への試みは、再び基本を生命に戻す作業といえるだろう。」
そして彼女は「生命誌は科学を否定して別の道を示すのではなく、科学の動きを素直に捉えたものにすぎない。物理学を含めて、私には科学自体が誌に移行しつつあり、それは理性から生命への移行と平行しているように見える」と言っている。そしてさらに「理性から生命へ」ということを、彼女は「生き物感覚」の回復として捉えている。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
↑上に紹介の論文で「彼女」というのは、JT生命誌研究館の名誉館長で理学博士の中村桂子さんです。彼女の著書『絵巻とマンダラで解く生命誌』の人間観は、身体を大自然から切り離して考える科学や人文系の人間観ではなく、
中村さんは、「現代社会の問題点」の多くが、生活の場から「生き物感覚」とでも呼ぶべきものが消えてしまったためにおきていること、そして、科学の成果を応用した科学技術も、そのほとんどはできるだけ生き物離れをして暮らせるようにということを目的にしてきたことに注意を喚起しています。
そしてこのような「生き物感覚」の喪失は、あまりにも大地から離れ過ぎたために起きていることでしょう。
共時性は、因果性とは異なる観点から出来事を捉えるための概念であり、ユングはこの共時性を「非因果的連関」として説明し、偶然の一致に意味を見出す重要な原理として位置付けました。
ユングはマンダラを用いて無意識の構造を表現しましたが、中村さんの「生命誌マンダラ」では、生命を階層的に捉え、細胞から個体までの関係を示しています。この階層性は、異なるレベルでの相互作用や関係性を強調しており、共時性の概念とも通じる部分があります。
「ねむるひと」(2024)
個人制作では意図的にヒトを描くのを避けていたのですが、めずらしくヒトが主役の絵です。「ねむるいぬ」と対になる絵です。
中村桂子さんの『絵巻とマンダラで解く生命誌』を読んで、「ヒトは生き物である」という思いを込め、植物に守られている無防備なヒトを描きました。 https://t.co/OVDWyKYD2W pic.twitter.com/zGQXNszFNJ
— 中村雅奈Kana Nakamura(中村一般) (@nakamuraippan) August 6, 2024
「正しい知識を持つこと」と「考える力」は違うんですね。以下の、生物学者の福岡伸一氏の疑問点、「それだけでは説明がつかない」というものが当然出てくるはずなんです、考えている人であれば。
『 進化上の非常に大きな謎は、例えば目がどうしてできたか、目ができるためにはレンズのような透明なタンパク質が集合するような進化が必要なんですけれども、それだけでは光を集めるだけで目にはならない 目になるためには網膜みたいな光を感受するための仕組みがいる 全部が合体しないと視覚という機能が現れないから そこまで行かないと自然選択がかからないわけですよね
にもかわらずレンズや膜や細胞というサブシステムが機能がまだ見えないのに 自然選択にかからないのにそれぞれ斬新的に進化してきて集合するっていう その共時的な進化っていうのはなかなかダーウィニズムだけでは説明できないので そういったものをどう説明していくかということも大きな課題なんですよね。 福岡伸一 』
引用元 ➡ https://youtu.be/zUOG9vlzz-4?feature=shared
このように生物学者でも疑問を持つわけです。それが一番正しいかどうかは置いといて、「それだけでは説明がつかない」ことを掘り下げていけば、ダーウィニズムで説明がつくことかも知れない、と考えてみる。
福岡伸一さんの疑問は「創造論者がよく持ち出す論拠」においてもみかけますが、しかしこれはインテリジェント・デザイン(ID)の捉え方ではなく、ベルクソンの「創造的進化」に近い考え方といえるでしょう。
ベルクソンの「創造的進化」は、生命が単なる物質的過程ではなく、内的な創造性や動的な変化によって進化するという考え方です。
動画のコメントも紹介すると、
「レンズと網膜がいっぺんに誕生する必要は全くないと思います。とりあえず網膜類似の細胞が集まれば光のある無しは感知できるので有意に生き残れるはずだし、まずは光のある無しを感じる機能だけを備えたその後にレンズ細胞が芽生えるというストーリーはごく普通に考えられるのでは。」
これですね、こういう風に疑問を持ってみること。福岡伸一さんが語っているのだからとオウム返しするだけではなく、さらに疑問を掘り下げてみる。
進化における目の形成は確かに複雑な過程です。しかし、目の各構成要素は段階的に進化し、それぞれが適応的な利点を持っていたと考えられます。クリスタリンタンパク質は、元々他の機能を持つタンパク質から進化しました。
例えば、αクリスタリンはシャペロンとしても機能し、βクリスタリンは解糖系酵素のエノラーゼと構造的に似ています。これらのタンパク質は、レンズ形成以前から他の重要な細胞機能を果たしていたため、「自然選択の対象」となりえました。
光受容タンパク質であるオプシンファミリーも、単細胞生物の時代から存在し、様々な機能を持っていました。これらのタンパク質は、初期の段階では単純な光感知や概日リズムの調整などの機能を果たしていた可能性があります。
目の進化は、光感受性の細胞から始まり、徐々に複雑化していったと考えられます。初期の段階では、単純な明暗の識別だけでも生存に有利に働いたでしょう。
ゆえに、「全部が合体しないと視覚という機能が現れないから そこまで行かないと自然選択がかからない」とは必ずしもいえない、ということです。単純な明暗の識別だけでも、「それが全くない状態」に比べるなら劇的な差異ともいえるからです。
その後、光を集める構造(原始的なレンズ)や、より効率的な光受容細胞(網膜の前駆体)が段階的に進化していったと考えられます。
各構成要素は、完全な目になる前から部分的な機能を持ち、それぞれが適応度を高める役割を果たしていたと考えられ、これらの要素が徐々に統合され、より複雑な視覚システムへと進化していったと考えられます。
したがって、目の進化は必ずしも「共時的」ではなく、長い時間をかけた段階的なプロセスで、「各段階で自然選択が働いていた」と考えることができます。
ここまで考えて、やはりダーウィニズム(生物の進化には目的や方向性はなく、偶然の結果にすぎない)で説明することができるじゃないか、ということですね。
では「進化」は全てダーウィニズムで捉えられるものでしょうか?
「科学の本にそう書いてあったから」だけで終わるのであれば、それは「聖書にこう書いてあったから」と変わらない権威主義でもあるでしょう。
カルト信者に高学歴者が多かったのは、一つの要素として、「理系知、人文知の基礎知識があっても、受動的に学んだ勉強的な思考力だけでは、飲み込まれることがある」ということ。宗教にかぎらず、思想界隈においてもこれはよく見られる現象でしょう。
『生物はなぜ死ぬのか』の著者、生物学者 小林武彦氏の登場する動画を紹介。語りがとても面白いです。
生物はなぜ死ぬのかと言うと これは 進化のためなんですよ 要するに世代が変わっていかないと進化できませんから
結果論としては多様性が大切だったって言うんですけども でもその多様性を作り出したのは進化のプログラムなので そちらの方が先 そしたら偶然できたんですよね もっと言ったらそういった多様性を作るメカニズムのあるものだけが今生きてこれたんですよ – 小林武彦
今の社会、今の科学で真実だと認められていることがほんとうに全てそうかはわかりません。宇宙の全てを知っている存在だけが、「宇宙のことをどのくらい人間が理解したか」を正確に言うことが可能ですから。
つまりこの世の誰一人、宇宙の全てを知らないのに、「人間は科学によって全体の○○パーセントまでは既に理解している」なんていえないはずなんですね。
宇宙の無限性を考えるならば、人間の知なんていうものは、ほとんど無に等しいほど少なく、まだほとんど何もわかっていないのかもしれません。それどころか、「今わかっているとされていること」ですら、根底から間違っている可能性すらあるのです。
ジョルダーノ・ブルーノという人は、日本だと戦国時代~安土桃山時代あたりを生きた人で、そんな時代に『無限、宇宙および諸世界について』みたいな革新的な宇宙論を展開した変態(社会不適合者の意味)です。 彼は変態の度が過ぎたので、社会から火あぶりの刑に処されました。
つまり社会において真理とされるもの、価値の基準とされるものを超えるようなことを恐れずにする社会不適合者は、いつの時代も何らかの刑に処されます。変態とはいっても天才もいればただの異常者もいるでしょうが、とにかく社会とは「異端」を排除する、そういうシステムなのです。
何が「異端」になるかは各社会、各時代で変わるというだけです。
ブルーノの凄さは、日本が安土桃山時代、朝鮮出兵とか訳のわからない戦に疲れ切っていた頃に、「宇宙は無限である」とか、そんなことにまでたどり着いていたド変態なので、社会もそんなキモ過ぎる男はそのままにしておくわけにはいかなかったのでしょう。
そして、「太陽を中心とする惑星系は、宇宙の基本的な構成要素であり、無数に存在する」と主張し、「地球が宇宙の中心ではなく、単なる一つの天体に過ぎない」「宇宙全体が同じ物質で構成されており、地球上の物質と宇宙の物質に本質的な違いはない」と、
これまたどうしようもないほど時代の先を行く真実を遠慮なく語り、社会からの強力な怒られが発生したのでした。
彼は、「地球上で観察される運動法則が宇宙全体に適用される」と主張し、地球以外の天体にも生命が存在する可能性まで示唆しました。日本が安土桃山時代だった頃です。ここまで変態だと、社会はもう彼を処す以外になかった。
しかし、彼にもユニークな思い込みはありました。なかなか憎めない変態です。宇宙空間は「純粋気体」(後のエーテル概念の先駆け)で満たされていると考えたり、星々には意志があり、それによって宇宙が運行されているという考え方もありました。
ブルーノの「純粋気体」の概念は、現代物理学的には直接説明することは困難です。エーテルは19世紀末まで物理学で重要な概念でしたが、1887年のマイケルソン=モーレーの実験によってその存在が否定されました。
1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を発表し、エーテルの概念は不要となりました。現代物理学では、宇宙空間は完全な真空ではなく、量子的な真空揺動が存在すると考えられていますが、これはブルーノの「純粋気体」とは本質的に異なる概念です。
しかし、ブルーノの「星々の意志による宇宙の運行」という考えは、現代の「複雑系理論における創発現象」と類似しています。複雑な相互作用を持つ要素が全体として秩序ある振る舞いを示す様子は、ブルーノの直感的な宇宙観と共通点があるともいえます。
現代の宇宙物理学で、宇宙は自己組織化するシステムとする考え方は、エリッヒ・ヤンツの「自己組織化理論」に基づいていますが、これは、ブルーノの「宇宙が自律的に運行する」という考えと部分的には重なるともいえます。
エリッヒ・ヤンツの「自己組織化理論」とベルクソンの「創造的進化」は、自然界や生命現象における創造性と変化について深い関連性があります。
自己組織化理論は複雑系科学の一部として位置づけられ、多様な要素が相互作用することで新たな秩序が生まれると捉え、ベルクソンもまた、生命の進化を単純な適応ではなく、複雑で多様なプロセスとして捉えています。このため、両者は複雑性に対する理解を深める上で相互補完的です。
自己組織化は、システムが外部からの指示なしに内部の相互作用によって秩序や構造を自発的に形成するプロセスです。
自己組織化のプロセスにおいて「自己」という概念が重要であるとし、これは単なる個人の自我ではなく、自然界や現象界における自発的な秩序形成の動的な支点として理解されます。
システムには「動的な自己」が存在し、これらが集まって自律的な秩序や構造を生み出します。
「散逸構造」とは、エネルギーを外部から取り入れ、内部で秩序や新たな構造を形成するシステムのことです。このシステムでは、「ゆらぎ」が重要な役割を果たします。
ゆらぎとは、システム内の小さな変化や不安定さのことを指し、これが新しい創造や発展をもたらします。結果として、予測できない新たな現象(創発)が現れます。さらに、システムは外部にエントロピー(無秩序の度合い)を放出することで、新しい構造を維持し続けることができます。
この自己組織化の過程を通じて、宇宙は超銀河、銀河、太陽系、地球、そして生命を生み出してきました。我々は、この「破れ」と「ゆらぎ」に始まる生態系の中に存在しているということです。
この理解は、ブルーノの宇宙観とも部分的に共鳴します。ブルーノは宇宙を「一つの生きもの」として捉え、全体が一つの生命的原理に統一された存在と考えました。現代の自己組織化理論は、ブルーノの直感的な宇宙観を科学的に発展させたものと見ることもできるでしょう。