「私の傷つき」 身体の意志と創造性

今回は「私の傷つき」と身体の意志と創造性がテーマですが、最初に「ニュアンスと不文律」、「予定調和とゆらぎ」そしてマインドフルネス認知行動療法に関して書いています。

 

「私」という「主観性」、これは植物には存在しません。「脳」つまり身体の情報を翻訳した結果に「主観」が生じます。そして「脳」も身体の一部です。

つまり五感と呼ばれる機械的な感覚受容器によって物理的な刺激の集合したものをまず先に感じ取り、それから「脳」によってその信号を翻訳して「感情的な意味合いを伴った刺激」として解釈する。

前回の記事で紹介した「植物はそこまで知っている」の著者ダニエル氏は、「主観が人によって異なるのは、イオンによる通路を開かせるのに必要な遺伝子にばらつきがあるからかもしれない、あるいは個人の心理的な違いによるかもしれない」と語りますが、

『「身体」における主観』は、『「私」という心理的な主観』とは同じではないんですね。

たとえば、ヒト(および狭鼻猿類)は世界を「三色視」で捉えますが、これは「色」が「光」についているのではなく、「色は脳の中にある」ということで、「赤・青・緑」を感知する「色覚受容体」を持っているからなんですが、

(過去記事でも書いていますが)、「虹」の色の見え方は世界によって異なり、「色を表す言語の違い」だけでなく、「何色あるか」という事実そのものより「何色と見ようとするのか」の「認知」の差異が影響します。

『心理的な主観』が『「身体」における主観』とズレるわけです。そこが植物や動物と異なるところでしょう。

そして「国によって見え方が異なる」という事実は、「生き物としての本質主義的なもの」と「社会・文化による構築的なもの」の両方の力学を受けて「人間の認知」は構成されている、ともいえます。

 

コミュニケーションの齟齬の原因に「身体化された認知」「メタファー」の相違や読み違いがあります。同じ言葉を使っていてもどのような力点でその言葉を使っているのかは異なるわけですね。

 

 

ところで「冗談が通じない」というのは様々なケースがありますが、言葉を「辞典的な言葉の意味のまま」に受け取る場合にも生じます。

「冗談」には言語の意味以外のもの、様々な「ニュアンス」あるいは「リズム、ノリ、テンポ」が含まれています。冗談だけでなく、たとえば「よっ大将!」と言うとき、そこには「大将」の辞典的な意味以外のものが含まれているように、コミュニケーションの齟齬の原因は単純に国語力だけの問題ではないんですね。

「生真面目な国語力だけ」だとニュアンスやリズム、ノリ、テンポがわからないまま逆にズレまくった意味解釈をするような話って世の中には沢山あります。

そして「暗黙の了解」は常識の一種でこれもコミュニケーションに関連しますが、「不文律(明文化されていないルール)」にはもっと多元性がありますね。

不文律が内面化されていないとわからない、経験がないとわからない、そのジャンルや文化や世代や場のリズム、ノリ、テンポが「身体化」されていないとニュアンスがわからないって想像以上に多いものです。

その結果、ガチガチの国語的な論理でのコミュニケーションになってしまったりします。

文字言語が主体のSNS等ではよく「文章の意味を正確に読む国語力のなさ」が重点的に指摘されていたりしますが、文脈を読めていないことよりも、本当は別の原因でその言葉に反応していることがあるんですね。

本人はそっちが主で、文脈云々は二の次になっている状態。だから文脈を無視して反応するわけですが、その反応をみて「文脈を正確に読めていない、あなたの解釈はおかしい、この文章の意味は○○○○です!」という生真面目な感じに論理的に説明したりする光景をよくみかけます。

つまり「文章を正確に読めれば解決する問題」だと思い込んでいるんですが、相手が主に反応しているのはそこではないから、論理的に説明しても延々と平行線、ということなんですね。

たとえば↓こんな感じ(笑)

 

 

前回書いた「植物」のテーマもそうですが、「思考」には多元性があるんですね。「身体が思考している」ことを人は「無意識」などと言っているだけなんです。

 

「私たちの行動は「遺伝子」の命令に従っているだけ?──注目の脳神経科学者が迫る「運命と選択の科学」」 より引用抜粋

(前略)
著者とともに科学者たちを訪ね歩くような気持ちで読み進めるうち、ゲノム(DNAのすべての遺伝情報)解読に成功した最新科学は、これまで神の領域とされてきた「運命」の意味をほぼ解明しつつあることに気づく。そのことは、

「脳のことを学べば学ぶほど、運命はあらかじめ定められているという主張は強力になる」(本書P.299)

 という著者の言葉からもうかがえる。

 では、本を読んだり、摂生に努めたりして、よりよい人生を送ろうとする努力は、結局のところ、徒労にすぎないのだろうか。私たちには、遺伝子に書き込まれた運命に沿った行動しか許されないのだろうか。

「運命とは『絶対的で悲劇的なもの』という考えにとらわれず、『常に到着の可能性が非常に大きい目的地』だと考えるべきかもしれない」(本書P.19)

 そう著者は言う。さらに、

「神経生物学がどのように行動を駆り立てるのかをもっと知ることによって、自分がコントロールできる決断を、より上手に下すことができるようになる」(本書P.34)

 と、私たちに示唆する。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 私たちの行動は「遺伝子」の命令に従っているだけ?──注目の脳神経科学者が迫る「運命と選択の科学」

 

よく「自由意志はない」とか言われますが、では「記憶を全て消した身体」と「記憶がある時の身体」は「同じ行動」をとるでしょうか?

初期化した身体」はDNAのみに従った行動をとる、という意味では野生動物と同様になるでしょうが、「DNAのみに従った身体の行動」と「記憶がある時の身体の行動」は当然「全てが同じ」にはならないでしょう。

「記憶」は身体にあり、「私」よりも前に身体が思考している。そして「記憶」は後天的なものです。よって人間の意思決定は「記憶を全て消した身体(DNAだけ)」で決まっていないので、「本質主義」だけでは人間を語れないのです。

「私の思考」より前にある「身体の思考」はDNA及び「身体の記憶」に基づいて行動を決定している。その意味で人間は本質的&構築的の両義性があるわけですね。だから「予定調和」のようにみえてそうではなく、ゆらぎが生じるのです。

そして「雰囲気」というものも「身体の記憶」の一種です。また「身体の記憶」の深い部分は「感情」と結びついています。なので意思決定には「理性」より「感情」が強く作用するんですね。

 

「脳科学者が語る「直感をバカにしてはいけない」 自分の理性と感情はどれだけ信じられるのか」 より引用抜粋

私たちは意識のある上の部分だけをつなげて、論理や証拠と言っています。理性とも言いますね。でも物事の脈絡は山の頂から下の部分で、人間はこれら大部分の情報に対して無自覚です。私たちが普段理性と呼ぶものは、そんなに信頼できるものでしょうか。私は理性的と呼ばれるものに対して、いつも疑いの目を持っています。
(中略)
IQに問題はなくても、感情に問題があると意思決定ができない。「決める」というのは、根本的に感情が担うものなのです。
(中略)
「今、こう考えた理由」「今、私がこの場にいる理由」という理性は、意識にのぼった部分を点でつないで理由付けしています。でも本当の理由は、意識にのぼらない脈絡の部分にあるかもしれない。今、自分の意識している背後にある情報を、どれだけ自覚できるかが人間にとっては重要です。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 脳科学者が語る「直感をバカにしてはいけない」 自分の理性と感情はどれだけ信じられるのか

 

「私の傷つき」と身体の意志と創造性

傷つき(心・精神的な意味における)」とは何か? それは「自己」と「他者及び環境」の相互作用によって生じます。「傷つき」は多元的ですが、その強力な現れが「精神疾患」と呼ばれます。

例えばPTSD、うつ、社交不安障害、パニック障害、強迫性障害等における「深刻な傷つき」において、「物事をどう捉えるか」の主観性、その「認知」に働きかける方法と、「行動」のパターンを観て「行動」を変化させることの両方で回復していく認知行動療法(CBT)があり、これにはエビデンス及び再現性があります。

精神医学にせよ臨床心理にせよ「普遍化出来ない」ことは同じですが、エビデンス及び再現性があるものというのは、「ある程度の普遍化」は出来るわけですね。

 

CBTのプロの西川公平氏によれば大体こんな感じのようです。

以下の「心理的危機対応プランPCOP」では、「自分一人でできる行動」がリスト化されています。参考にどうぞ。あともうひとつマインドフルネスに関する論文も紹介。

心理的危機対応プラン日本語版リーフレット「PCOP」
公認心理師の各職域におけるマインドフルネスに基づく 心理的支援の発展と今後の課題

 

しかし『「私」という心理的な主観』が、様々な外部からの作用によって「どう傷つくか」は、外部の作用と内部の作用の両方の組み合わせで決まるので相対的なものであり、人によっては殆ど無傷(心において)だったり、別の人では深刻な傷つきにもなります。

ただ仏教思想においては既にずっと昔に、「私」がそれ自体では存在しない「虚」であること、そしてたとえば「八正道」においては「認知」を変える行「行動」を変える行の両方があり、原初の認知行動療法でもあったんですね。

認知行動療法における「脱中心化」というのは、仏教の瞑想における『「私」という虚の運動への気づき』と同質のアプローチです。

まぁ認知行動療法に取り入れられているマインドフルネスも仏教の瞑想法から編集されたものです。ヨガもそうですが、ハタヨガの一部のアーサナだけが中心になっていますが、本来はそれだけでは不十分です。

 

ところで「西洋と東洋では身体観が異なる」ということは過去にも書きましたが、今回は少し別の角度から考察しています。「マインドフルネス」は瞑想のひとつであって全てではありません。

「マインドフルネス」は「身体を伴う」とはいえ「認知」の方に主体が在ります。「形而上(精神)」の方にウエイトがある、ということです。

 

「〈身〉と気づきの関係を考える  現代の心身論の臨床および文化的課題」 より引用抜粋

〈身体を伴う気づき〉とは、気づきという「精神性」が上位の概念にあり、あくまで心身観の「注意と非評価の共存」という、マインドのあり方を指しているという点に、まさに心を留めておく必要がある。
(中略)
東西の身体観の違いは、どのような心身観につながっているのであろうか。これについては、湯浅(1990)も指摘するように、西洋では、アウグスティヌス以来、人間存在にとっては、身体よりも精神が優位にあり、

空間よりも時間が重要とする思想が確固たる伝統になっているのに対して、東洋では、真の知識は「体得」や「体認」によって得られるものであり、自己の心身のすべてを動員して到達するような「身心一如」が重視されるという独自の文化があることを指摘できる。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 〈身〉と気づきの関係を考える  現代の心身論の臨床および文化的課題

 

「私」は「物理(形而下の法則)で動く「身体」から派生した二次的なもので、形而上の法則を「学習した記憶」として混在させてはいても、その根底を支える「実」の力学は形而上の法則ではなく形而下の法則です。

身心一如」の東洋概念は深いんですね、科学的見解においても「心理」は「身体」と切り離せないものですが、これは「無心」も同様に東洋の思想は感性的に身体が深く洞察されている叡智です。

認知行動療法は精神疾患に最適化された専門的なアプローチですが、「傷つき」「生きづらさ」はもっと多元的です。なので全てを認知行動療法で解決できませんが、「生きづらさ」の多くが「仕事・人間関係」に関連しています。

「生きづらさを抱えた属性」は多元的ですが、たとえばそれが「ワーキングメモリの機能が平均より劣っている」ということに起因していた場合、「当事者のライフハック」で補うことでミスや容量の悪さをある程度解消できます。現実的にはそれが一番役に立つことです。

しかし外部からの負の作用が強い場合、「他人との関係を組み替えること」も必要になってくるでしょう。以下に紹介の禅僧の南 直哉 氏の記事では、「私の物語」だけに収まらない「他者」の力学にスポットを当ててわかりやすく書かれていますので参考にどうぞ。

〇 「相手を変えたければ、まず自分を変えよう」そんなよくある助言を、禅僧が真正面から否定するワケ

 

「仏教の悟り」のような「私の終わり」ではなく、例えば「創造すること」の中には「私」以外の働きが生じています。無意識の創造~破壊のサイクルにおいて、「私」ではない何かの運動に溶解していく、その過程では「私」は終わっているが、創造が終わると再び「私」が現れてくる。

なので創造し続けることで、「私」から解放される、ということが生じます。

「生きるため(死なないため)に絵を描く人」、「生きるため(死なないため)に創造し続ける人」、そういう障害属性の当事者たちが存在しますが、創造し続けることで「私」から解放されているプロセスを生きているのです。

 

「究極的なものの範疇」―創造活動、一、多― より引用抜粋

『過程と実在』でホワイトヘッドは、「究極的なものの範疇」に「一one」と「多many」と「創造活動creativity」を挙げ、「これら3つの概念は究極的なものの範疇を完結し、より特殊な範疇すべてに前提される」(PR 21)と述べている。他の諸範疇(「現存の範疇」「説明の範疇」「範疇的制約」)とは異なりこの範疇は“the Category of the Ultimate”と定冠詞付きとなっている通り、「一」「多」「創造活動」の3つは、不可分な連関をなしている。特に創造活動は、「離接的に宇宙である多が、それによって、連接的に宇宙である一つの現実的生起になる究極的原理」(PR 21)である。

創造活動により多が一になって生じる現実的生起は、それ自身、一つの新しい存在であると考えられ、ホワイトヘッドは次のように言う。

「創造活動」は新しさnoveltyの原理である。現実的生起は、それが統一する「多」のうちの如何なる存在とも異なる新しい存在である。かくして「創造活動」は、離接的に宇宙である多の内容に新しさを導き入れる。「創造的前進」は、創造活動が作り出すそれぞれの新しい状況に、創造活動というこの究極的原理を適用したものである。(PR 21)

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「究極的なものの範疇」―創造活動、一、多―

 

「私の傷つき」には多元性がありますが、それを終わらせることは「実」の深刻なマクロの問題解決に比べれば難しいことではなく、それは心理や精神科等の専門家だけでなく、仏教の悟りもそうですが、「終わらせる人」はいます。

しかし「実」の深刻なマクロな問題解決は「構造」が複雑に絡んだ運動なので、「私」だけでは解決できないゆえに「政治」が必要になってきます。

 

 

「私」は後から構築された副産物です。それは社会的な力学(他者との関係性)で構成されます。「他者」がいなければ「私」もいない。「私の傷つき」というのは「他者」「社会」との関係性、複合的な作用・力学からもたらされる。

そして「意味・価値」が概念によって定義される(構築される)。よって「私の傷つき」は構築的なものであり、人間の範囲の意味・価値に閉じた「人工物」なんですね。

「私の傷つき」は時代や場によっても変化します、それをどう定義するかは空間と時間で変化する相対的なもの、「それ自体で存在はしていない」ゆえに、その空間、時間の中で解釈され、その解釈と共に実在するかのように扱われる物語、というだけなのです。

だからそれを解決することは、結局「物語を構築した人間」にしかできない(傷つきの文脈を理解できないから)のです。

当事者の文脈で「私以上に私の専門家はいない」というような言葉が語られることがあります。これは「物語」に関するものなんですね。「私の傷つき」もそういう文脈なのです。

しかし「身体」の専門的な部分では、「私の体」であってもよく知ってないことは想像以上に多いのですが、「私」という物語、その主観領域は「自身が最も切実に経験している」のです。

 

 

先天的に失読症である人ほど発見、発明、創造性などの能力が発達しやすく、革新的な変化を起こす能力が高い」とのことですが、この「言語」の作用の負の側面についてはいままでも書いてきました。

 

おそらく私は本や文章を平均よりも多く読むほうなんですが、本や文章を読んだり書いた後には必ずリセットしているんですね、これは主に瞑想によって脱同一化・脱自動化しているんですが、他の場合もあります。

言語・概念の作用には両義性があり、当然それは「否定的なものだけ」ではないのですが、「それ自体が創造性を妨害する」からリセットします。だから必要な時に引き出せる程度の淡い同一化状態にとどめているんですね。

また「言語・概念が認知を規定する」というこの性質は、二つの作用があります。たとえばよく「言語化することで自分の気持ちがわかる」みたいなことがいわれますが、

言語化することで「何かが明確になる」ことは事実ですが、同時にそれは「言語・概念に認知が枠組まれる」、つまり「心の全体性」の「捉え方」を固定化(分離)する作用にもなり、

「言語化された何か」は本当にそれそのものか?といえば、むしろある言語・概念を「気持ち」に当てはめること自体が、「多元的な質を持った動的な心」をその意味の範囲に固定化し書き換え「静的な言語的な意味の次元」にカット編集されることを「私の心がわかった」と錯覚する。

そして「分離された一部のもの」だけが明確化され、そこに意識が焦点化されることで逆にスポットから外れた領域を無意識化する。こうやって「編集された心」としてのニンゲン意識が構築される。

ここで、「じゃあ言語・概念をどんどん増やせばいい、そうすればより広い領域が明確になる」と言う風に単純に考えるのがニンゲンなわけですが、それによって「ある面は」広くなりますが、別の面はそうはならないどころか「逆にますます捉えられなくなる」んですね。

一見すると「世界の捉え方が広がった」ようには見えても、実際は別の面で世界は見落とされているのです。こういうことが現代社会では多々起きているんですが、

多くの言語、概念をインプットしそれを元に思考するインテリほど、「それに反比例して衰えていく知がある」という現象に気づけないんです。

何故かというと社会が「特定の知性」を「良きもの、優れたもの」として評価する構造になっていて、競争社会においてそれが大きなウエイトを占めているので、別の面で知の衰弱が生じていてもそこにスポットが当たらないからです。

そして「言語と概念が増えれば増えるほど、どんどん自他・世界のことがわかり明確になっていく」と思い込む。

自分も他者もあらゆる存在も、それは言語や概念以前に「ココに在るもの」です。言語も概念もココには存在はしていない。だから言語で理解することに頼り過ぎるとき、逆に「非言語的な自他・世界それ自体」を捉える力を失っていく。

触れる力は、非言語的なものなんですね。そして「心」は随伴現象です。その意味では心の根源は身体の方にあり、言語や概念ではない。

また「心」は脳・身体の随伴現象であるというのは「心」が「社会」や「人間」だけに収まらないものである、ということです。「身体」は自然界によって生み出されたものです。その身体から生じる心もまたその根は自然界にあり、決して社会の力学だけで形成はされていないのです。

その意味で「心」は「非社会的で非政治的で非人間的なものを含んでいる動的なゆらぎ」に生じるのです。同時に社会構築的な力学も作用している両義的なものです。

両義性のゆらぎの中に「私」が動的に生じることに関していえば、前者をエス的な力学とし後者を超自我的力学とした場合、フロイト的な世界観にもある程度の整合性はあるといえます。

「私」は虚と実の双方の力学で生じているもので、「言語・概念」が中心に形成されています、ゆえに言語的な理解も「私の心」を捉えるひとつのアプローチとはいえますが、「心のゆらぎ」は「実」に根差して生じるので、

言語だけでは不十分というより、そもそもそれはどこまでいっても実存に届かないのです。むしろますます「私の心」を強化し、「世界」から「個人」を分離させていきます。

「心」の源泉は世界と分離していないんですね。最初から開かれているから「私」に先立って自然にゆらぐのです。そして言語・概念によって強化されたフレームが「私の心」として境界を構築し「あなたの心」と分離しているのです。