「知性・知能・思考」と「感性・芸術」  情報・言語・認識の多元性 

 

色々とやることが重なり記事更新までしばらく間が空きました。穏やかな晴れの日が続き、外を歩くと風がとても気持ち良いですね。(^-^)

 

今日は感性アプローチの補足記事として「芸術」の意味とその役割をテーマに、「見えないもの」「感じる」もののリアリテの奥行を考察しています。

 

今回は芸術論の古典的人物であるハーバート・リード(1893年~ 1968年)に関するPDF論文と、書籍からの引用紹介をしつつ、他に和楽器の音楽動画を挟みながらサクッと記事を書きました。

 

 

ico05-005 「芸術は与えられた現実リアリティの単なる 再生ではない …… 現実の模倣ではなくて発見である」(リード)

 

ハーバート・リードはイギリスの詩人(ブレイク、ブラウニング、リルケらに影響を受けた)であり、また彼はフランス実存主義やユング・フロイトにも影響を受け、英語圏では一番最初に精神分析学を芸術批評・文芸批評に用いた人物と言われます。

 

ではまずここで、美人津軽三味線奏者の「はなわちえ」さんの演奏動画をどうぞ♪

 

 

知性・知能・思考

 

知性」には様々なものがあることは過去記事でも書きましたが、イギリスの心理学者のレイモンド・キャッテルは、「知性」を流動性知能・結晶性知能の二つに分けて考えました。

 

またアメリカの心理学者ジョイ・ギルフォードは、拡散的思考集中的思考という概念を用いましたが、これも流動性知性・結晶性知性と重なる部分がありますね。

 

拡散的思考 (直観的思考) 

ひとつとは限らない多くの答え・解決策などを発想・導き出す思考。創造的思考・流動性知性とも関連。

 

集中的思考 (収束的思考・論理的思考)

決まっているひとつの答えを導き出す思考。集中的思考はマニュアル的思考、ステレオタイプなタブロイド思考などとも関連

 

結晶性知能とは、社会生活(学校教育・仕事など)の学習経験(技術・知識)に基づいて、それを使いこなす蓄積・努力型の知能で言語性の知能。

 

流動性知能は、教育や経験には左右されず、例えば非言語的な新しい未知のパターンを認識するなどの柔軟な思考能力や、新しい環境に適応するための問題解決能力などを言います。

 

感性・芸術

 

結晶性知能の発達は個人の流動性知能によって左右されるということですが、例えば学者の方などが、流動性知能を伸ばすには子供の頃にピアノをするのが良い、とか言っていたりしますが、

 

私は子供の頃から複数の楽器を演奏していたので、その実感としては、ピアノだけでなくギターや他の楽器なども脳・身体を複雑に使う精妙な運動であり、脳・身体の内的な運動を刺激するため、流動性知能に関連すると考えています。

 

そして今回はもっと深く、流動性知能よりも深い「感性的な認識能力の独自さ」について書いています。リードは芸術活動というものが人間の精神活動を統合する創造性の基礎であると考察していました。

 

リードは、科学はその「記号システム」の限界内で機能する、すなわちそれは科学特有の言語の認識内容に限定される、と述べ、その記号システムとは別個に芸術の「象徴的システム」があり、それもま た認識内容をともなう独自の言語である、と述べています。

 

私は実体験から、リードのこの表現に凄く共感するんですね。リード は科学の「記号の言語」に対して芸術の「象徴の言語」を対置させています。

 

仮に私に科学的な知識がなくても、健康で衣食住さえあれば何とか生きていける感性タイプの人間ですが、もし芸術表現・感性的な世界のリアルが一切締め出された世の中だとしたら、そんな世界で私は生きることは望まなかったでしょう。

 

何故なら「言語的・論理的な思考認識による一元的な意味世界の現実認識」よりも、私が感じ取る多元的な意味世界は「非言語的な感性領域」がメインで、

 

その情報量は言語的・論理的な思考認識よりも圧倒的に多いため、それを失うことは生のリアリティのほぼ全てを失うことだからです。

 

私が昔に鬱になり、心身の不調から完全回復しようと試行錯誤していた時、科学や論理的アプローチは殆ど役には立ちませんでした。もちろん時と場合によって科学・論理的アプローチも必要ではありますが、

 

現実はそんなに薄っぺらではなくて、単純な公式や「答えがひとつに決まっている理屈・論理」で全てを解決できるようなものではない、ということです。

 

私の心身の回復には「芸術的な創造性に繋がる感性・思考」、「無意識領域の感性的な理解」が密接に関わっています。タイプは違いますが母の場合もそうです。これはいくら専門書を読んでも学問的にお勉強しても得られない直感的経験の知・理解です。

 

ico05-005 「芸術において個人的から超個人的への道が感性の道に沿っている。芸術では知性は役に立たない、感受性がなくては、開示・啓示はあり得ない」      「教育の目的は、必然的に、個人の独自性と同時に、社会的意識もしくは相互依存を発達させることである。(リード)

 

ではここで、ドラムタオによる和太鼓楽曲の演奏動画の紹介です。振動のダイナミズムが伝わってきます。

 

以下は参考PDFの ハーバート・リードの美術教育論 ―『 芸術による教育』の今日的意義 ―   より引用抜粋で、「美的教育の種別」「芸術表現の形式から導かれる気質と思考型」です。

 

【美的教育の種別】
①視覚教育(眼)、感覚に対応する感覚型
②造形教育(触感)、感覚に対応する感覚型
③音感教育(耳)、直覚に対応する直覚型
④運動教育(筋肉)、直覚に対応する直覚型
⑤言語教育(言葉)、詩や演劇 に対応する感情型
⑥構成教育(思考)、工芸等に対応する思考型

 

 【芸術表現の形式から導かれる型】
①写実主義や印象主義の形式は外部世界の探求で思考型
②超現実主義は外部世界に反発し精神性の探求による感情型
③表現主義は感動の探求による感覚型
④構成主義や立体主義は、素材や形体の把握を伴う直覚型

参考 PDF ⇒ ハーバート・リードの美術教育論

 

ico05-005 「人間の性質は限りなく多種多様である。だから、われわが最初に注意すべきは、若い芽が思い通りの方向へ伸びて行かないからといって、無理に折ってしまったりはしないことだ。換言すれば、教育は気質の差異を理解することを基礎としなければならぬ。」(リード)

 

 

批評のプリミティヴィスム:ハーバート・リード の美的・感性的哲学より引用抜粋

(前略)
クラシック精神の美術が美や真実や理性といった人間によって獲得された諸概念による活動であるのにたいして、プリミティヴ精神はいわば芸術の始原の「自然であり本性physis」なのである(1)。

(中略)この論文ではリード美学の頂点とみなしうる『イコンとイデア』(1955 )(3)と、リード自身かれのもっとも完成された仕事とみなしていたという『見えざるものの形』(1960)(4)とリードの死の年の前年刊行されたかれの最終的に到達した点をしめす『芸術と疎外』の三著作を中心にして、

リードの美的・感性的哲学とそれに発する美術批評の仕事について考察したい。リードの美術批評の到達点を知るにはこれら三著をみるのがもっともふさわしいであろう。
(中略)
『イコンとイデア』は、序において「人間意識の発展において、もしもイメージがつねにアイディア(観念・思想)に先行するなら、そのときにはわれわれは文化史を書きなおさねば ならない」といわれて、この本でリードが目指すところがはっきりと述べられる。

(中略)リードによれば、カッシーラーは「人間精神の真正な機能はいずれも、或るオリジナルな形体的なformative 力を具体化するということを主張した」。

そうして芸術や神話や宗教などは、「それぞれ特殊な映像世界image-world にすみ、……その映像世界は他に依存しない独立原理にしたがって、それらを生みだす」と考え、

ようするに「人間精神のこれらの機能のおのおのが、それ自身の象徴的な形式を造り出す」という(p.5/p.1)。

 

ではここで、田原順子さんによる琵琶演奏「祇園精舎」の紹介です。幽玄で美しい和の美の世界です。

 

琵琶演奏 「祇園精舎」 ~伝統音楽デジタルライブラリー

 

では再び、「批評のプリミティヴィスム:ハーバート・リードの美的・感性的哲学」からの引用の続きです。

 

(前略)
つぎにリードは新石器期の幾何学的または抽象的 芸術においてひとつの「美的感性aestheticsensibility の拡大」(p.38/p.33 )を認めて、そしてその種の美的感性の拡大こそがその時代の化一般の活動や経済上の進化の先行条件であるというのがリードの主張なのである。

(中略)リードは、美とヴァイタリティという芸術のふたつの原理を提示して、いずれもひとしく、「美的・感性的原理として自己充足的なものである」といい、

さらに人間精神はその「感性のふたつの美的・感性的な様態modes で、そのリアリティの意識を表現することができた」(p.51 /p.49 )と述べる。

(中略) 直接的な感覚の世界を超えたひとつの世界のいわ「神霊的なるものthe numinous の感覚」(p.49 /p52)すなわちある超越的な領域が、人間の意識に新たな現実として生起する時、それを実現する働きまたは作用が芸術と呼ばれる。

れらの事態は「未知なるものthe unknown に対する象徴」と換言されて詳説される。そこでもまた「芸術家は現実の新しい面を意識しだすことによって、また現実のこれらの新しい面ついての意識を造型的ないし詩的イメージに再現することによって、これらの象徴を確立する」といわれ,

そして「ただ芸術家が現実を表象しうる象徴を確立するかぎりにおいてのみ、思想の構築としての精神は形をとりうる」(p.53 /p.50)
(中略)
芸術は、「進化してゆく意識そのものであり、感覚的知覚によって、リアリティそのものを支配すること」であり、そこに観られるリアリティを支配し把握しようとする欲求は、「生存の本性にふくまれている」(p.65/p.65)とリードは仮定する。

芸術はひとつの原初的な生命活動であって、たとえば相対的な場所の連続ではなく空間自体が「実現」の過程で発見されて、意識の実在となり、さらにその再現が試みられることになる。

(中略)「形態a shape ま たはイメージ」があって、それについで「観念anidea」がうまれ、さらにその観念から生じた想像力に適応しようとする時、先の形態やイメージが洗練されていくという結論を獲得する。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 批評のプリミティヴィスム:ハーバート・リードの美的・感性的哲学

 

ではラストに、伝統音楽デジタルライブラリーより「合奏」を紹介し記事の終わりとします。

 

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