脳科学的に見た唯識   自他境界・全能感と瞑想の多元性とカルマの法則 

 

今週末はようやく記事をゆっくり書くための時間が取れたので、幾つかの記事を連続して更新出来そうです。

 

今日は「禅・瞑想・マインドフルネス」の補足記事と「病的な精神世界」のカテゴリーを含んだ記事で、前半は「脳科学的に見た唯識」をテーマに、後半は「自他境界・全能感と瞑想の元性とカルマの法則」をテーマに書いています。

 

今回は仏教・ヨガ系の聖地・パワースポットの動画を記事の合間に幾つか紹介しています。私は物理学唯識には親和性があると考え、以前にも別のテーマで書いたことがありますが、唯識は脳科学とも親和性があるんですね。

 

結局のところ人間の脳・身体の構造も今と昔では変わらないし、地球の上で、何らかの社会に属し、相互依存的な関係性の中で衣・食・住をベースに生きている生き物という生物学的状況も変わらず、

 

そういう同じ人間存在が、どれだけ考えどれだけ試行錯誤しようが、結果的には似たものになる、というのは当然でしょう、同じ脳と身体を持つ生物がやっていることなんだから。

 

「伝統宗教は全て集合的な無意識を元にする文化ミームであり社会システム的に文化的な役割を持つもの」という基本的な認識スタンスは変わりませんが、

 

文化・歴史的な比喩や宗教的表現を全て抜きとって、悟りそのものの本質やダルマ(法)のシンプルな本質部分を見た場合には、

 

そこには「存在」の本質に関わるものがある、と感じるわけですね。アメリカの脳科学者であるフリーマンは「個人と社会」、「個人と自然」が循環的な因果関係にあり、

 

またそれが人間の脳と心の循環的因果関係に起因する、ということを科学的に説明していますが、

 

科学というものは元々「よくわかっていないもの」を理解・究明していく過程的なものでもあるわけだから、仏教や宗教のように「仏の教え」「キリストの言葉」を絶対としてそれに従う、という帰依のスタンスでないわけです。

 

科学と宗教の役割は全く違います。釈迦もキリストも私たちの生活に役立つものは何も生み出せません。現実、それなしでも人は生きていけますし、

 

医学や科学、そして様々な人々の形而下の現実的・物理的な働きで具体的・現実的に解決しなければ、社会問題も人間の苦悩も解決は出来ません。

 

 

 

そして脳科学も精神医学も徐々に進化していく以外にないことは同じで、認識を改めながら、理解を深め段階的に進歩していく途上にあるわけです。

 

まぁそういうことを踏まえての上で書いている記事ですが、「フリーマン理論」の中には心理学的に見ても感性的に見ても、そういう「理解の多元性」が存在します。

 

以下の図は「フリーマン理論」の図で、脳神経外科学者の浅野孝雄氏によるPDF フリーマン理論による唯識の解釈からの引用で、

 

最初のがフリーマン理論による志向性の弧:行動ー知覚のサイク」の図で、二番目は五蘊・十二縁起と志向性の弧との重なり合」の図です。

 



 まぁこの図だけではよくわからないですよね(^-^; 、以下の二つの参考PDFをご覧ください。

➀  「脳と心:古代インド仏教と現代脳科学における心の発見」

➁  フリーマン理論による唯識の解釈

 

◆ 浅野孝雄:略歴
脳神経外科学者、埼玉医科大学名誉教授。1968年東京大学医学部卒業、76年東大医学博士。86年埼玉医科大学総合医療センター脳神経外科教授。小川赤十字病院院長、埼玉医科大学名誉教授。
 

関心のある方、もっと詳しく知りたい人向けに浅野孝雄 氏の本『古代インド仏教と現代脳科学における心の発見』を紹介しておきますね。

 

◆ 他/ 関連PDFの紹介
東洋的身体論の試み:西洋と東洋の相克

東洋的一元論について

 

ではここで美しき聖地「カイラス山」の動画映像を紹介します。

 

 

自他境界・全能感の多元性

 

過去の記事書いた内容とも重なるのですが、全体対象関係未熟部分対象関係優位な人が、劣等コンプレックスによる負の感情を蓄積し、

 

同時に、「部分であり全体ではない個の存在」を「他の存在たちとの全体性の中で相対的に見つめれない」=「社会的自我が未成熟である」ような場合、

 

常に「自分が世界の全体」=「全能感」の中にあるため、「他者と世界の関係性」において『 対等に等身大のまま在り、その姿勢で自に「学ぶ」ことや「共感性」を育てること』が出来なくなる傾向性を強めます。

 

過去記事 ⇒ 「通り魔+ソシオパス」  全体対象関係と部分対象関係

 

そのため極端な分離的眼差しを強化し、それによって「全体性」からますます締め出されます。

 

ですがこれは「全体性がその存在を締め出した」のではなく、「極端な分離的眼差しをするもの自身が全体性を締め出してい」ことの自然な結果なんですね。

 

ですが「自身がそうしていること」を外側に他者に世界に投影し、「原因を外側に転嫁する」ため、結果的には「全体性」を敵対的なものとする傾向に向かい、

 

その結果、快・不快好・悪の二元分離性の強い感情だけでしか外側・世界と繋がることが出来なくなるわけです。これが「否定的な依存と利用」しかない人が「負の全能感」に陥った状態の時の特徴的な傾向です。

 

このような人々は、社会的な意味合いは含まずとも、心理構造的には「カルト的な意識構造」とも重なる要素を持っているとも言えるんですね。

 

毒親やある種のタイプの人格障害の破壊性がカルトと類似性を帯びるのはそのためです。この手のタイプは「身近なエリア」では同質の負の影響を与えているわけですが、

 

それが社会的に肥大化した現象の場合、犯罪者やカルトなどになってもっと大きな負の影響を与えることもあるのです。あるいはもっと有能であれば、「サイコパス型の成功者・権力者」になることもあります。

 

ですが、ここであまり極端な意味合いにならないように補足しておきますが、社会的な生き物として相互補完・相互依存的に生ている人間という生き物にとって、

 

完全に「依存」や「利用」がゼロ、ということは存在しません。ここには「過剰」な否定的な負の意味合いだけでなく、互いを生かすための適切な正の依存や利用ももちろんあります。

 

そして人間だけでなくどんな生き物であれ、自然界の生命システムへの依存と利用なしには生きれないのです。

 

潔癖過ぎる人」もまた、別の意味で全能感にとらわれている可能性が高いともいえます。全てを完全独立してセルフコントロールできるほど人間は完全な生命体ではなく、

 

同時に生の本質は無常=「絶対性も完全な安定性もなく、変化し続けるもの」です。つまり、内にも外にも絶対・完全な安定はな、それが生命及び大自然の理なのですね。

 

また全能感には正の全能感もあります。この場合は本質的に無邪気で、悪意や負の要素が混じらないものですが、

 

発達過程のひとつの段階として、あるいは建設的で生産的な目標や夢の実現の方向性で上手く生かすことが出来るのであれば、ある種の有益な役割を果たすことも出来るため、

 

私はこのブログにおいて「正の全能感」を上手く生かしている人は批判的には見ていないんですね。これは日常における適切な依存や利用においてもそうです。

 

人間の社会生活や生存に基本的に必要なものや、役立てられるものまで何でもかんでも否定することは、不毛で無意味なことだからです。

 

話しを戻しますが、「負の全能感」の場合は、「自分が世界の全体」を揺るがすものへ過剰に排斥的な自他境界を形成しようとします。

 

このような病的な自己愛性の自我状態であるがゆえに、継続的な人間関係の困難さや、信頼関係、適切な自他距離感を得られないまま、

 

劣等コンプレックスによる負の感情を蓄積したまま統合されずに分離的に発達し、その中心性を「絶対化」していきます。それがさらに進むとある種の「自己神化」にまで向かうわけですね。

 

そして「屈折した幼児的全能感」が異様な「個人神」を生み出します。過去記事で「一人教祖」という表現で書いたのもこれにあたります。

 

この種のネガティブな方向性で「自己神化」をしている人には、「原始的な自他境界」があり、それは原始的防衛機制低次の防衛機制によって形成されているので、極端な同化と排斥が行われるわけですね。

 

極端に自己中心性を帯びた自我ゆえに、過剰防衛するわけです。また「敵対者」とされた対象への抹殺的な容赦ない存在否定感情などもその現れなんです。

 

このブログでよく使う「自他境界」というものは、高次の防衛機、あるいは社会的自我・メタ認知によるものであり、過剰なものではなく、極端な同化も排斥もない、穏やかなものです。

 

そしてマインドフルネスが深化すると、「社会的自我そのもの」を純化していきます。この純化というものは「条件付けを外す」ということであり、

 

客我(社会的自我)意識の内容動機付け・囚われによってそれ自体の「客観性」を条件付けていますので、それによって主我(自然自我)の興奮・暴走を抑制・抑圧することは出来ても、

 

客我(社会的自我)への一体化は観察者バイアスを強化するんですね。そして客我と主我は相互依存的に存在する動的な関係性であるために、

 

通常の観念的・宗教道徳的な意味合いを含んだ内省的瞑想では、むしろこの「主客のループ」は強化されるわけです。こういうものが役立てられる領域は、あくまでも限定されているんですね、思考には思考の役割と適応範囲があるように。

 

これはそれらが無意味で不要という意味ではなく、「その適応囲・役割の範囲を超えて不適切に活動する場合」は、むしろ阻害要因となる、という意味です。

 

なので、そのような観念的・宗教道徳的な意味合いを含まない、「ありのままの観察」としてのマインドフルネスが深化する時というのは、

 

「客観性それ自体」の条件付け=「バイアス」を外していく方向性に向かう= 客我そのものの純化に向かい、その結果、主客のループは無力化される、という流れなんですね。

 

そのことによって、限定されていたメタ認知の質そのものが変容し、眼差しに清明さが生じ広がりと深みを持つ、ということです。

 

 

カルマの法則(因果の法則)

 

ここからは深層心理学と、感性的なものを含んだ考察記事です。私たちは無意識では繋がっており、人が誰かに為すことは、同時に「自身に対して為すことでもある」という存在のリアルがあり、

 

それは「意識の内奥において存在はバラバラな個ではなく、ひつの全体性として共にある」と言う意味で、「カルマの法則」というものは実はこれが要因なんですね。

 

※ 私が使う「業」「カルマ」は、それ自体に「罪悪」とか「悪業」というような罪的な意味合いを含まない因・縁の力学として捉えています。

 

そこに「罪的な意味合い」を付加するのは後天的な人間の心理作用で、本質的なものではない、と考えます。そして一般的な「カルマの法則」は「あることをした」⇒「そと同じことを誰かにされる」、というような使われ方をしますが、

 

必ずしもそうではなく、「ABイジメた」⇒「Aはその後誰も苛められず、Bは他のもっと弱い誰かを苛めた」、というような業の流れが多々ありますが、これもそうですね。

 

」には静的なもの動的ものがあり、動的なものは心理的な力学の一種であるために、「個の因果」に固定的に止まるようなものではないのです。

 

これは外部から個に干渉・作用し、内外双方に投影されます。「静的な業」というものは「より個的な要因に属するもの」で、「動的な業」は「より全体的な要因に属する集合的なもの」です。

 

この二つの作用が内外の双方向から心理的・物理的に相互作用しながら「因果・因縁」の循環を生み出しています。

 

「静的な業」というものは、例えば生命・先祖の経験を含んだ遺伝子のように、「記憶・情報」として個の内部から外部に作用するものであり、より先天的な一方向の作用で「個の問題」なのですが、

 

後天的な影響であっても、内部に形状記憶化している場合(:トラウマ)などは、「静的な業」と似た一方向の作用を持ちます。ですがこれ本質的には「動的な業」なんですね。

 

ではここでインドとスリランカのパワースポットの動画を紹介します。

 

 

『追記』 合理的仏教観では人間苦は解決しない

 

ico05-005 唯識と脳科学だの、マンダラと量子宇宙だの、つき合わせてみも意味がない(佐々木 閑氏)

 

仏教の修行と科学は、本質を突き詰めていく過程の姿勢においてある種似ているところはあっても役割に関しては質的に全く異なるため、その意味では佐々木氏に同感ですが、

 

「禅定」も「内観」の「行」の過程も経ないで、論理的結論だけをいうスタンスもまた「無意味」だと私は痛感しています。

 

無宗教の私自身、十代の頃に「人生に意味なんてない」と考えるに至ったわけですが、それ自体は心・精神のバランス異常に苦しんだ私のような愚かで未熟な若者の助けにも救いにもなりませんでした。

 

そして若者が何故カルトや安易なオカルト妄想にハマるかといえば、それは家庭の問題とか個々の発達過程、社会や時代の影響も複合的に作用しているので原因はひとつではありませんが、

 

ひとつの理由に、その方が簡単で面白く楽しくわかりやすい、親しみやすいからです。

 

ヒトの心の傾向や志向性、自然な発達段階、生物学的制約、社会的状況を考えないで、ただ結論ありきのクソ面白くもない人間観・存在感は、

 

本当は一番助けや支えを求めている「世の影で苦しんでる人」の助けにはなりませんし、様々なことに囚われている真っ最中の人々にとっては「入り口」にすらなりません。

 

部分的に、そして一時的にであれ、スピの方が全然「癒し効果・支え」になるくらいなんですね、残念ながら。あるいは奉仕という面で見ればキリスト教の方が弱者の支えにはなっているでしょう。

 

だから若者、そして弱者はそっちにいくわけです。

 

仏教哲学的なあるいは仏の教えの概念的理解は「ものの見方」という面では役に立ち、現実の受け止め方を変化させますが、それは例えば「認知療法」も同じアプローチですが、

 

人間の現実・感性・生身のリアルの全体性はもっと多元的であり、「認知を変える、物事の捉え方を変える」だけでは全く不十分です。ただ静かに悟り澄ましていればいいってもんじゃないんです。

 

私は「無意味」とか何とかそういう「本質」だけで片づける在り方よりも、「感覚を持って生きている人」としての、身体を通した自然な人間観が好きですね。

 

 

人工知能は合理的思考しか出来ません。ただの論理的知能しかないんです。それはチェスや碁の名人にすら打ち勝ちますが、そこには「感性」も「創造性」も「喜怒哀楽」もありません。

 

受動的な人間観だけでなく、能動的な人間観、その両方がなければ人は現実をただ受け止め受け入れるだけの静的な存在になり、現実を自ら変えていくという生命力・創造的な力動に繋がらないのです。

 

私は喜怒哀楽の自然感情はみな大切だと思っています。仏教観だけが人生の苦や人間の幸せに応えるうる唯一のもの、とは思っていません。

 

物事は多元的です。一見「否定的なもの・邪魔なもの・非合理的なもの」が実は「肯定的なもの・必要不可欠なもの・合理的な働き」を支えていたり、その逆もあります。

 

決して一つの眼差しだけで説明し得るほど「現象」の全体性と関係性は単純ではない、だから仏教も本質的な真実の断片、だと思っているんですね。ある角度から見れば確かに普遍的な真実性があるわけですが。

 

「先人の書いた本だけ読んで自らの身を通した行も実験もせず、頭の中で合理的・論理的な思索だけして自己完結」なんて独りよがりの結論など、結局のところ彼等が否定している「思考の産物」と同等でしかないわけです。

 

思考を超えたもの、そこに「わからない何か」がある、それは思考で片づけることは永遠に出来ない「何か」のままです。

 

お釈迦様も徹底的な「行」「禅定」を行いました。自らの身体を用いてある意味「物凄い人体実験のような行」を繰り返し、禅定で徹底的に内観し、

 

そのトライ&エラーの繰り返しの過程を経て発見に至るわけです。お釈迦様ですらそこまで徹底して無我夢中で必死でやったんです。

 

疫病でバタバタ人が死に、死体がそこらじゅうに転がる環境、そして虐殺やあらゆる暴力が剥き出しの生身の生の中で、そして警察も医者もいない、衣食住の快適さもなく、猛獣がうろつく森の中でボロ一枚をまとい禅定し、

 

その身体性をもって全身で痛感してきた生身のコトバと、仏教学者風情が沢山仏教書を読んで思索して「合理的な結論」を出す、というのでは言葉に重みも深みも生命力も全く違うんですね。

 

イエスもそうです、その生き方・身体性の中からしか生まれないコトバの力があります。

 

お釈迦様にせよ、インドの聖人にせよ、思索だけでなく徹底した「行」の中で「身体を通して」感性と理性でそれぞれの理解に辿り着いた、その過程をすっぽかしていきなり合理的な結論など語ってはいないんですね。

 

誰でも出来ますよ、「お釈迦様はこう言いました」「イエス様はこう言いました」「人生に意味などありません」、「全ては神の思し召しです」「あなたは世界の中心ではない」って語るだけならね。

 

誰でも出来るし、私のような「無宗教の人」で「自分とは何か・人生の意味とは何か」を考えたりするタイプは「その程度のこと」は結構普通に考えるんですよ。

 

お釈迦様は貧しい人・殺人者・病人も分け隔てなく、そして私のような無宗教で愚かな人間でもお釈迦様の生き様とそこからのコトバにはとても心を打たれるんです。

 

後、「行・禅定」をシカリやっている人の言葉は「頭」でなく「身体」に響きますね。言葉や思考だけを見ている、感じるわけじゃないんですよ、人間は。

 

まぁ「ある程度恵まれた環境下にある一部の知的な現代人」には合理的・論理的な見解だけでもそれなりに好相性で「ものの見方」をそこそこ変えてくれるものではあるんでしょうが、

 

そういうこと言ってる輩の本など、私のような「非合理的な愚者」には一切響きません。むしろ「いらないんですよ、そんな無意味な言葉は!」と「吐き捨てる対象」でしたね、昔は。(笑)

 

でもそんな私でも、西田幾太郎 氏のような厳しい生育環境下で徹底した禅定をしながら生身の身体性の中で思索してきた人の言葉には自然に心を打たれるんです。

 

それが合理的であるとかないとか、究極の悟りに達したとかどうかとかではなく、頭で合理的に判断した結果とかではなく、それよりもまず先に、「身体性と共に全身で理解している状態そのもの」から正直に「生きたコトバ」で語られているから響いてくるんです、心に。

 

「知性で先回りした結論」で生身の人間の身体をスっ飛ばし「本質の近くにいる」と勘違いしている高慢な学者よりも、私はダライラマ法王とかミャンマーとかブータンの素朴な修行者の方が好きなんですね、

 

行も学もどちらもシッカリしているし、学者よりも全然傲慢さを感じない、「何を知的に知っているか」ではなく、「仏教をそのまま身体化している」そういう人のコトバが好きです。

 

理論とかより先に、何か元気が出て来る、スッと自然に受け入れたくなる、そういう自然な感覚を生起させる力があるからなんですよ。

 

「高野山大学でご講演」 より引用抜粋

(前略)
法王は、過去30年間にわたって科学者たちと対話を行ない、仏教の思想を科学的な論拠に基づいて検証されてきたことを説明された。

そして、ビッグバンをはじめとする宇宙論が仏典にも記載されていること、神経生物学の見解が仏教の心と脳に関する見解と一致すること、

量子物理学の見解が仏教の古典であるナーガールジュナ(龍樹)の著作の見解と一致することを説明されて、古代インドの心理学が遠い昔からきわめて発達していたことを強調された。

高野山大学松下講堂黎明館で講演をされるダライ・ラマ法王。2016年11月15日、高野山(撮影:ジグメ・チョペル)

「自分に何ができるのか、これをよく考えなければなりません。私たちはからだの健康についてはよく論議し、十分気をつけていますが、心を健全に保つためにも同じような努力をしているでしょうか。

どうすれば、 怒りや憎しみ、恐れといった悪しき感情をなくし、健全な心を育むことができるのでしょうか」と法王は述べられた。

これは、法王が南インドの僧院で学ぶ約1万人の僧侶や尼僧たちの教育課程に現代科学を取り入れられた理由でもある。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 高野山大学でご講演

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