瞑想的癒し曲と詩

 

今日は広橋真紀子さんの動画を二つ、そして私が過去に書いた「存在の詩」を三つ紹介します。

 

「広橋真紀子」さんの動画は選曲・映像構成共に素晴らしいです。このような感性の細やかな映像作品を見ると、感動し癒されます。⇒ http://home.u02.itscom.net/iyasi/index2.html

 

癒しの音楽 広橋真紀子 彼岸 〜higan〜 Makiko Hirohashi

 

 

以前に紹介した「存在の詩」も今回紹介する詩も、もうずっと昔(十年以上前)に書いた詩です。現在もたまに詩は書きますが、それはまたいつか紹介しますね。

 

 

ico05-005「関係の詩」

空は無限に変化している..

秋が来て 肌にあたる風は涼しく   木の葉にあたる日光も  淡い反射光を放っていた        心は確かにそこにあって  そして見ることの出来ない形なきもの

 

心はまるで大空のかけら  空に変化が訪れる  まるで瞬間に染まるかのように  変わり目もわからず それは運動していた  かけら同士がただ共感を持つ時  強制も感化もなく  同じ空がただ広がっていた

 

傷つきやすさは生きている姿  簡単に見失われた関係の詩 そして見失うと同時に始まり発展する 複雑な姿

 

 

ico05-005「見過ごされる詩」

見つめる意識によって 同じ対象の姿が異なるように      心理の投影は「姿」をどんな意味にもねじ曲げる

 

正当化と自己防衛の深みは       発狂するほどの自己欺満の無限連鎖と 虚像の地層を形成し    日々慣性的に受け入れ 繰り返された日常と合わさり     堅固に一体化する

 

まるで無限に姿を変えながら生きるウイルスのように      同じものを違うもののようにしながら   それ自身を維持していく

 

「殺す」というただそれだけの姿も       「奪う」というただそれだけの姿も     「虚無」「不毛」というただそれだけの姿も

 

蓄積し絡み合った集合意識の強力な「意味」と「置き換え」のシステムに飲み込まれ 包み込まれた「条件づけられた私たち」が見るならば      ぞっとするほどの生々しいリアリティーに直面することはない

 

そしてそこにある姿は ごく限定された形に解釈される     そこ見逃された姿がどれほど想像を超えていたとしても   それを感じることはない

 

香-INCENSE-より 月桃〜はかなき夢〜 広橋真紀子

 

 

ico05-005「風の道」

膨大な時と エネルギーの絶え間ない運動に強められた時間の中心軸   強められた無数の「自分という観念の核力」

 

強められた無数の私たちの思考が敷いた   果てしなく互いに分離した「私たち」の道

 

がっちりした冷たい肺で 精力を吸い 生を吐き出しながら カチカチに枯れてく姿   風はそこに吹かない

 

創造性を持つ自由が訪れないなら      放縦と規律に捕らわれる  

 

ありのままの姿を見つめることなく   理想と向上に向かうなら 断片化された心は   複雑な日常に日々複雑化され         重く蓄積された記憶を 複雑に投影した今を見るような日常に疲労し

 

 変化があるようで変化のない様々な形の矯正に     時間を埋めように生きることで        すべてを含んだ現在の輝きを見落とていく

 

 虚ろに 猛々しく 冷えていく虚像の群に従うことなく    結論のない視線が道なき道を見つめる    ありのままは風の道を定義されない姿のままに    ただ歩む

 

 

リアルの全体性

 

生は詩であり禅であり、学びであり遊びであり、生は形があり無形であり、生は有限であり無限である。生は輝きであり影であり、生はリアルであり夢である。

 

生は厳しく残酷であり、生は暖かく優しくある。生は矛盾し理不尽であり、そして美しい詩である

 

同じひとつのリアル」の見え方が千差万別なのは、それに何が投影されるかの意識の内容と状態の相対性による。

 

リアルの全体性」の「何が捉えられ何が見過ごされ見落とされるか」は、意識の明晰さ深さと広さの相対性による。

 

 

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