存在と虚無 月の光と「影の詩」
前回、幾つかの「存在の詩」を紹介してきました。それは「存在の陽・輝きの姿」を詩に表現したもので、もう随分昔に書いた詩です。
今日も前回に引き続き「形なき生の瞑想・禅」を含むテーマなのですが、今日は「否定的側面」での補足記事です。
そして先に「月とクラシック曲集の動画」の紹介、その次に、「存在の陰の姿」である「虚無」を表現した「影の詩」を紹介します。これはかなり昔に書いた詩です。(動画を新しい動画に更新しています)
Beethoven – Moonlight Sonata (Full)
「水晶の詩」
生きること それは恐怖なのか.. 重く荒い雑多なものの中で恐怖し ちぢこまり 固くなる人々
ドブに流された水晶は 今でも透明なのだろうか
一条の光のように真っ直ぐな あなたの意識はどこに隠れているのだろう 誰もいない青空の草原で あなたが泣いているように笑うのはなぜだろう
あなたが鈍く曇ってゆくことを あなたはどこかで知っている 置き去りにされた水晶は 今でもそこにあるのだろうか
貯めることの出来ない透明感 貯まってゆく苦しみと悲しみが あなたを重く遠くしてゆく まるで決して持ち上がることのない岩のように
透明な風があなたに訪れることは少なくなった 投げ捨てられた水晶は いまでも割れていないのだろうか
「日常の影」
濁流のように荒々しく 混乱した川の中で 無数の泡が川面で弾けては消え 生じては弾け また消える
騒々しい日々も、はかない無常の姿に映る 人の文明が造り上げた日常 どれほどのスケジュール 物事 事件に埋め尽くされ 溢れかえっていたとしても
その背後に息づく ぞっとする姿を虚無の静寂が訴える 「本来の生は見逃されていたのか」と
その真実の存在は 影のようにいつも在りながら 黙ったまま何も主張しない
だがひとたび姿を現すと 始まりも終わりも 本来私たちは何も所有出来ず 静寂と無にすべてが含まれる生の無限を 否定拒絶することで 人工的な時間を生きる成れ果てに
空しい虚像の姿が 立ち枯れたまま在るだけの姿に 気づかされる
「偽の光」は「影・闇」を恐れ憎む
「存在」と「現象」には陰陽の力学が働いています。ヒトのまなざしが全体性を失い、「陰」「虚無」を過剰に怖れ憎み、そして「生・存在」から「陰」や「虚無」を分離し締め出したことで、
「解放されない負の活力」が存在の「陰」「虚無」の中に否定的に投影され、蓄積されていきました。
それは個というミクロな意識だけではなく、集合的なマクロな意識においても巨大な否定・分離を生み出す原動力となり、
そして存在の全体性を見ないままに、「存在の反面」を叩きつづけることで、さらに「存在の反面」の分離を強化し、永遠の不和を自ら生み出していきました。
「陰陽の不調和」という本質的な衝突から 負と歪の現象が生まれてきます。そして虚無がありのままの虚無として見つめられるのであれば、それは害をなしません。
同様に、「影・闇」が本当にただそのままに影・闇としてありのままにあるならば、それは本来は無害で、恐怖や敵意を生じさせるようなものではなかったのです。
「影・闇」という存在の反面を締め出した時、分離した意識は、存在の「陽の姿」をありままに見つめ感じれなくなります。
なぜならそれは「影・闇」と共にあるものだからです。だから分離した意識たちは、「偽の光」をつくらなければならなくなるのです。
そして「偽の光」は存在の反面である「影・闇」に対し、「それ自身の恐怖」を投影します。そしてそれ自体が分離し敵対的なゆえの「不調和」を永遠に生み出し続けていくのです。