存在と虚無  月の光と「影の詩」 

 

前回、幾つかの「存在の詩」を紹介してきました。それは「存在の陽・輝きの姿」を詩に表現したもので、もう随分昔に書いた詩です。

 

今日も前回に引き続き「形なき生の瞑想・禅」を含むテーマなのですが、今日は「否定的側面」での補足記事です。

 

そして先に「月とクラシック曲集の動画」の紹介、その次に、「存在の陰の姿」である「虚無」を表現した「の詩」を紹介します。これはかなり昔に書いた詩です。(動画を新しい動画に更新しています)

 

Beethoven – Moonlight Sonata (Full)

 

 

 

ico05-005「水晶の詩」

生きること それは恐怖なのか.. 重く荒い雑多なものの中で恐怖し   ちぢこまり   固くなる人々     

 

ドブに流された水晶は 今でも透明なのだろうか

 

一条の光のように真っ直ぐな あなたの意識はどこに隠れているのだろう      誰もいない青空の草原で あなたが泣いているように笑うのはなぜだろう

 

あなたが鈍く曇ってゆくことを あなたはどこかで知っている        置き去りにされた水晶は 今でもそこにあるのだろうか

 

貯めることの出来ない透明感 貯まってゆく苦しみと悲しみが あなたを重く遠くしてゆく   まるで決して持ち上がることのない岩のように

 

透明な風があなたに訪れることは少なくなった       投げ捨てられた水晶は いまでも割れていないのだろうか

 

 

ico05-005「日常の影」

濁流のように荒々しく  混乱した川の中で     無数の泡が川面で弾けては消え   生じては弾け   また消える

 

騒々しい日々も、はかない無常の姿に映る    人の文明が造り上げた日常       どれほどのスケジュール  物事  事件に埋め尽くされ 溢れかえっていたとしても

 

その背後に息づく ぞっとする姿を虚無の静寂が訴える    「本来の生は見逃されていたのか」

 

その真実の存在は 影のようにいつも在りながら    黙ったまま何も主張しない     

 

 だがひとたび姿を現すと  始まりも終わりも   本来私たちは何も所有出来ず     静寂と無にすべてが含まれる生の無限を 否定拒絶することで 人工的な時間を生きる成れ果てに 

 

空しい虚像の姿が 立ち枯れたまま在るだけの姿に 気づかされる

 

 

「偽の光」は「影・闇」を恐れ憎む

 

 

「存在」と「現象」には陰陽の力学が働いています。ヒトのまなざしが全体性を失い、「陰」「虚無」を過剰に怖れ憎み、そして「生・存在」から「陰」や「虚無」を分離し締め出したことで、

 

「解放されない負の活力」が存在の「陰」「虚無」の中に否定的に投影され、蓄積されていきました。

 

それは個というミクロな意識だけではなく、集合的なマクロな意識においても巨大な否定・分離を生み出す原動力となり、

 

そして存在の全体性を見ないままに、「存在の反面」を叩きつづけることで、さらに「存在の反面」の分離を強化し、永遠の不和を自ら生み出していきました。

 

「陰陽の不調和」という本質的な衝突から 負と歪の現象が生まれてきます。そして虚無がありのままの虚無として見つめられるのであれば、それは害をなしません。

 

同様に、「影・闇」が本当にただそのままに影・闇としてありのままにあるならば、それは本来は無害で、恐怖や敵意を生じさせるようなものではなかったのです。

 

「影・闇」という存在の反面を締め出した時、分離した意識は、存在の「陽の姿」をありままに見つめ感じれなくなります。

 

なぜならそれは「影・闇」と共にあるものだからです。だから分離した意識たちは、「偽の光」をつくらなければならなくなるのです。

 

そして「偽の光」は存在の反面である「影・闇」に対し、「それ自身の恐怖」を投影します。そしてそれ自体が分離し敵対的なゆえの「不調和」を永遠に生み出し続けていくのです。

 

 

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