恋と心の病の共通点
今まで「男女の恋の心理学」では、一般的な結婚観・恋愛観を脳科学と心理学的分析で書いてきました。シンプルにそれは、「恋は本能 結婚は理性」そういう意味に要約できる内容でしょう。
実際に結婚は制度的・文化的な要素を多く含むもので、より人為的・社会的なものですが、恋はより自然感情に属するものなので、共通点もあるとはいえ対照的なものなのです。
今回は「恋と心の病の共通点」をテーマにした記事を書いています。このテーマと多少関連する以下の外部サイトの記事も紹介しておきますので参考にどうぞ。⇒ 「深い友情」と「恋愛感情」のちがいとは?
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恋と心の病の共通点
今回は恋愛の肯定的側面だけではなく、否定的な側面を心理学的に見てみました。何故かというと、恋愛の否定的な側面には、心の病と共通点があり、
恋愛と心の病を合わせて考察するとわかりやいと感じたからです。ですが「恋愛=心の病」という意味であはありません。
恋愛感情はより本能的な脳領域・原始的な脳が絡んできます。恋愛が嫉妬や嫌悪やその他の負の感情とも結びつきやすいのも、「使っている領域が同じ」だからです。
「好きと嫌い」は同じ脳領域、つまり同じ無意識領域から発生しているので、一方が強まると他方も強まるのですね。
だから恋愛に絡む事件とかよく起こるわけですね。無意識領域からの激しい情動は、理性で制御が難しいだけでなく、実際にその経験を経て乗り越えた人でないと出来ないこともあります。
原始的な脳は、潜在意識・無意識の領域なので、その領域に負の形状記憶がある場合、過剰に異性を嫌悪したり、逆に本心は憎んでいるのに好きという錯覚が起きたり、DVのように、自分を傷つけることしかしないような人を好きになったり、精神的暴力を恋と錯覚したりもします。
実はこれ、「うつ」や「PTSD」にもよく似ているんですね。自身及び他者がちょっと言い聞かせて「ハイ、わかりました」と理性で制御出来るくらいなら、それを「うつ」や「PTSD」とは言いません。
なので、恋のような「激しい情動」という表現はなくても、無意識領域からのネガティブな作用に心身が呑み込まれ、制御出来ない状態になっている、という構造はよく似ているんです。
そして「執着心」や「依存心」が深く関係している点も似ています。執着というものが、外側の人だけに向けられるとは限りません。執着・依存は自分自身の「記憶・過去・状態」にも向けられます。
その記憶を離したくない、その状態を離したくない、これが無意識の形状記憶的な作用です。そしてそれが負の記憶・負の状態である場合を「負の形状記憶」と私は呼んでいます。
それは「人はそれが自身を苦しめるものだとわかっていても、自分自身を愛そうとする」ために、「自身の記憶と状態」に執着するんですね。
自分自身を愛すことは生き物として自然なことで、全然悪いことではありませんが、それもまた無意識の領域から起きているものです。
自己愛と「負の形状記憶」が執着・依存によって結びついている時、それは「負のループ」を引き起こします。心理的依存による「中毒」と同じ原理ですね。
例えば「洗脳」などもそうですね、「恋の心理」に似ています。「観念・思想 = 記憶・情報」と特定の人物などへの執着と依存で盲目状態になります。「束縛」の強い状態という意味で同じなんですね。
そして「洗脳」の場合、極自然な感情である「好きと嫌い」は「同化と排斥」の態度に分化し、それによって意識内に白・黒の2元的区分けの分裂意識が強められ、「閉じた信念世界」にさらに固執していきます。
「洗脳」の過程で、「好き⇒ 同化 」が 対象の絶対化へ向かい「崇拝・狂信」の態度へと変質し、「嫌悪 ⇒ 排斥」は「対象の仮想敵化」へと向かいます。
「対象の仮想敵化」から生じた攻撃性、敵意が対象に強く投影された場合、容赦のない残酷な徹底否定となる場合もあり、その一部が事件になるわけですね。
そして仮に社会的な事件となるほどのことを起こしていなくても、否定的な精神作用は生じているため、有害性が強力な場合もあるでしょう。
また事件になればそこで具体的なストップがかけられますが、そうでない場合、逆に延々と続いてしまう場合もあるため、トータルで見れば破壊作用はもっと強い場合もあるといえるでしょう。
これは虐待・イジメ・パワハラなども同じで、「社会的な事件という派手な形にはならない程度に抑えられたもの」が、人知れず密かに延々と行われている場合も多々あるわけで、総量で見ればより有害性が強いともいえるわけです。
そしてそれとは対照的に、子供の頃から情動が抑え込まれ過ぎている人や、あまりに理性的過ぎる人の場合も不調和を生じさせます。
「一見穏やかで優しい人」が、何かのキッカケにマグマのように吹き出す情動に我を忘れ、破壊的な行動を引き起こすことがたまにありますよね。このような事件を起こす人が、みながみな、過去のトラウマなどの負の感情が鬱積した結果にそうなったわけではないのです。
理性が吹き飛ばされ、心が猛り狂うような激しい情動経験を一度も経験したことがなく、あるいは激しい情動経験はあっても「それを乗り越えたことが一度もない人」は、万事それなりに上手くいっているならずっとのままでいられるかもしれませんが、
そんな平坦な日常はある時突然、ささいなことで壊れるかもしれません。そうなった時、パニック状態になり、そして沸き起こる無意識の情動と否定的な思考が結びついた時、破壊的な行動を引き起こすことがあるのですね。
生は不安定が自然
個人的には、犯罪とか事件を起こすとかでなければ、恋でも何でも、人生思いっきりやってみることが大事だと思います。
無意識の領域に関わるようなことは、構造や理論は人に学べても、「実際のリアル」に向き合うのはその人自身であり、自身の情動に自身で対処することを学ぶことがその人自身の本当の理解です。
人生は理性や理屈や理論で対処できるものばかりではないから、、そういう経験があってそれを乗り越えた人は、「不条理で不調和なかんばしくない環境下」でもしなやかに強く在れるようになるのです。そしてそういう経験を幾つか経ると、物事の見え方も自然に変化してきます。
常に制御されたものしか経験のない人は環境依存度が高くなり、環境の与える安定が壊れたとき対処出来なくなる可能性があります。よって依存度に比例して不安や嫌悪も強くなるのです。
本来、生は不安定が自然であり「安定」は人為的に生み出された仮想のリアルに過ぎません。なので仮想の安定に過剰に依存するのではなく、
不安定な現実をありのままに理解し、その中で心身がしなやかに自由に創造的に在るならば、不安定な生のままで心身は崩されることなく調和させることが出来るようになります。