怒りと単純化 集団・運動のカルト化
今回は記事前半で「集団・運動のカルト化」について、その背景にあるバイアス等を考察し、後半では「怒りと単純化」をテーマに考察しています。
ではまず一曲紹介です、キング牧師の演説を歌にした楽曲、なかなかなかっこいいですねコレ♪
Martin Luther King, Jr. in Memphis – Songify History
宗教学者マーク・A・ノールは「キリスト教は白人の黒人に対する組織的な差別を是認する上で大きな役割を果たした」と指摘している(岩波書店刊『神と人種』)
(中略)
プロテスタント教団の中でリベラル派と保守派の間で奴隷制度を巡る神学論争が行われてきた。南部の保守的なプロテスタント教会(主に南部バプティスト連盟に属す)は「奴隷制度は神に与えられた制度である」と主張。奴隷制度廃止後も、当時の一流の科学者を動員して黒人は人種的に劣っているという学術論文を発表させ、黒人は劣等民族であるという神話を作り上げてきた。それが現在も白人至上主義という形で一部の人々の心の中に生き続けている。
キリスト教の闇はこうやって現在にも引き継がれているわけですね。カトリックだけにかぎらずプロテスタントも同様に。「原罪」はヒトにあるのではなく、「原罪」という概念をヒトに植え付けることそれ自体が「原罪」、というパラドックスなのです。
そしてカトリックは性虐待の問題も深刻ですが、カトリックだけが深刻なのではありません、プロテスタントも同様なのです。
米国最大のプロテスタント教派、南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)の指導者やボランティアおよそ380人が、性的虐待を行っていた疑いがあることが発覚した。テキサス州の新聞社2社の報道によると、1998年以降の被害者は700人以上に上るという。
被害者のほとんどが子どもで、最年少は3歳。告発された加害者が教会内で働き続けていたケースもあったという。報道を受けて教会側は、実際の被害者数がさらに多い可能性を認め、被害者らに名乗り出るよう促した。
白人がアフリカにやってきたとき、われわれは土地を持ち、彼らは聖書を持っていた。彼らはわれわれに目を閉じて祈ることを教えた。われわれが目を開いたとき、彼らは土地を持ち、われわれは聖書しか持っていなかった。 (ケニヤの独立運動リーダーで初代大統領 ジョモ・ケニヤッタ)
言葉狩りがこれほど話題に登るようになったのも、同じ術中にはめられたからだろうな。倫理的に正しくないから排除という論理には常に警戒しておいた方がいいと思うな。幸せが遠のく。
— しかのつかさ (@sikano_tu) December 30, 2020
宗教は蛍のようなもので、光るためには暗闇を必要とする by ショーペンハウエル
原罪、悪、となる対象がなければ自らが輝けない、だからそれを必要とし「虚」の概念が創造される、そして「啓蒙は蛍のようなもので、光るためには無知と野蛮を必要とする」ということですね。
「黒人は生まれながらに○○」、それを反転させただけの「白人は生まれながらに○○」、どちらもキリスト教がやってきたことと同じ無意識であり、「ヒトへの原罪性の植え付けそれ自体が差別の源流」です。「男の身体は特権」なども同じ原罪思考の転用であり、「差別の源流」です。
形を変えて同じことをやり続ける、「やる側」と「やられる側」が変わるだけ、あるいは「やり方」が変わるだけ。まあ無意識を観るのはとても難しい、ということですね。
過去に心理学者フリッツ・ハイダーの「帰属のバイアス」と、「行為者・観察者バイアス」について書きましたが、概念の簡潔な説明として、以下、過去記事から引用・抜粋しています。
ハイダーによれば、人の行動の原因は 「その人自身の要因」=「内的帰属」か、「運・不運、物理的・社会的な環境要因」= 「外的帰属」の二つがあると定義しています。
他人の行動は「内面」=(その人の気質や個性的な面)に原因があると考え、自分の行動は「外側」=(他の状況的な面)にあると考える傾向
人は多かれ少なかれ、「自分に甘く人に厳しい」、あるいは「自分たちの属性、内集団には甘く、他属性、外集団には厳しい」んですね。また誰でも多少は持っている「行為者-観察者バイアス」は、ある条件が重なると、そして他のバイアスが重なるとさらに強化されます。
行為者-観察者バイアス (Actor–observer bias)
人間は人の行動を根拠なくその人の「種類」によって決定されていると見る傾向があり、社会的かつ状況的な影響を軽視する傾向がある。また、自身の行動については逆の見方をする傾向がある。
引用 ⇒ http://lelang.sites-hosting.com/naklang/method.html
それがたとえば「利害関係が対立する属性」です。左右のイデオロギーだったり、マイノリティ、マジョリティだったり、何らかの対立関係で「内集団・外集団バイアス」が加わることで、徹底した自己防衛と他罰傾向に向かうことがあります。 〇 過去記事 ⇒ 内集団・外集団 ラベリング(レッテル貼り)の多元性
「行為者-観察者バイアス」+「内集団・外集団バイアス」の例
「内集団」は「環境・状況の純粋被害者でイノセント」であり、「一切の負は外的な作用で社会構築主義的なもの」とされ、反対に、「外集団」は「環境・状況を生み出した純粋加害者」であり、「一切の負は内的な意志であり本質主義的なもの」、という風に白黒二元化され、
そしてこのようなバイアスを強化した運動は、たとえば外集団を「生まれながらに特権を有する者」「○○の身体=特権」という本質主義的な解釈で概念化して断罪するわけですね。そしてこれが「差別の源流」のひとつの力学である、ということです。
そして自分たちの運動・活動が上手くいったときは「自分たちの努力、能力」に原因帰属し、上手くいかなかった時は「環境や状況のせい」にするが、反対に相手(外集団属性)が上手くいっている時は、「運、環境や状況」のせいにし、相手の「努力や能力」の部分を否定、あるいは過小評価します。
これは「セルフサービング・バイアス」を自分及び内集団には積極的に使って守り力づけながら、外集団には使わせない(その逆を意識させる)ことで、相手の自信、自己肯定感を削り、そして外集団には「原罪性」を付加することで相手を自分たちのために動かそうとする、わけですね。弱者が強者をコントロールする時のやり方です。
社会心理学では、セルフサービング・バイアスという用語があります。これは、一般に人は、成功した場合には、自分の能力や努力といった内的なものに、失敗した場合には、課題の難しさや運といった外的なものに原因帰属しがちであるという理論です。
過去記事 ⇒ 悲観と楽観 「原因」の外的・内的帰属のバイアス / 帰属のエラーと責任帰属
ニーチェが見抜いたもの、(キリスト教のやり方)というのも、こういう「弱者の怨恨」による「価値反転」の構造なんですね。そしてその背景に「自らが強者にとって代わりたい」という力への意志がある、ということです。
なので結局はパワーゲームでしかなく、リソースをめぐって「外集団に属するもの」を解体し脱領土化して奪い、それを「内集団」に還元して再領土化する、という領土争い~領土拡大へ、という闘争運動なんですね、本質は。
キング牧師 - 運動する「集団」
犯罪の理由を差別に求めるのには反対だ、犯罪は犯罪だ
黒人だから報われない、という事はなくさなければならないが、黒人だから許される、黒人だから優遇される、というものは拒否する心を持とう (キング牧師)
たとえ「被差別属性」であっても、こういう批判的意見を「冷静に」いえるキング牧師だからこそ多くの人の心に届いたのでしょう。「弱者だからマイノリティだから、理性も冷静さも失っても仕方ない」などと、「運動を導く側」が認めれば、運動を劣化させカルト化させます。
個々の「気持ち」には同情する部分はあっても、一緒に全員が流されれば暴走は止められません。「集団」というのは個人よりも力が強く一旦動き出すと制御も難しいからこそ、冷静さや自己言及性の欠如によって新たな悲劇や残酷さが生まれる、ということへの洞察を持つ人が運動には、いえ運動にこそ必要なんですね。
努力が報われる社会が必要なのだ、黒人だから優遇されては甘えしか生まない
「過去に我々の先祖が搾取されてきた、それを返済せよ、特権を寄越せ」というのは違うのだ(キング牧師)
運動に対して批判的に考察する人は、「批判ばかりしても運動は上手くいかない」とか揶揄されますが、「外集団・内集団バイアス」を過剰に強めていった結果、殺人や放火や略奪すらも正当化する、甘く見る、ような「残酷さ」の次元にまで堕ちてしまうことがあるわけです。
なので、理念や信念が「残酷さや暴力の肯定」にならないよう、冷静に批判をいうこと、いえる人の存在も大事なんですね。「自浄作用が働いていて、集団がコントロールされている」と多くの人が明確に感じるなら、もっと多くの人に信頼されます。カルトにはそれが殆どない、そして過剰な運動にもそれが足りないのです。
公民権運動を成功させた基本的な要素の1つは、BLM運動に欠けている組織とリーダーシップでした。BLMの抗議は、集中的で組織化された努力ではなく、主に反動的な出来事でした。
ローザパークスの「疲れた足」の物語は、アラバマ州モンゴメリーでのバスの1年間のボイコットにつながった計画と意図に悪影響を及ぼし、最終的には最高裁判所がアラバマ市のバス分離法を無効にしました。
(中略)
BLM運動は、暴力的でアナキズム的であると多くの人に信じられています。抗議者は潜在的な略奪者や破壊者と見なされており、聞くに値する真のメッセージは埋もれて見過ごされています。
引用元 ⇒ トランプ後の世界のBLM
上に引用の記事のつづきに「国民の支持を最大化するためには、物語をコントロールする必要があります」とありますが、これは運動に大事な要素です。そして物語をコントロールするには「冷静さ」と「洞察力」が必要です。
同じ運動で生じている負の面を、「そんなの我々と関係ない連中が勝手にやってるだけ」とか「全体の一割に満たないからたいしたことない」、って感じにスルーしてシッカリ批判もしないゆえに、「聞くに値する真のメッセージ」が埋もれて見過ごされてしまうのですね。
「9割は平和的」云々もそうですが、カルト宗教であれ、常軌を逸した行動を実際に計画し実行するのは「一部の者」です。しかしその一部の者たちがしたことはとても残酷で非道です。
しかし「9割以上の信者」はその時点ではそれを知ることすらなく、上部、一部の狂信的な暴走や残酷で非道な行為に直接加担はしていないのです。一部の「間接的に加担していた者」ですら、「知らないまま結果的に巻き込まれる」という流れが多いのです。
ですが、カルトであれば人々は「集団ひとまとまり」で「全員が同じ意志・思考を持ち、同じことをした」かのように猛烈に叩くでしょう。「9割以上の信者」は「常軌を逸した計画やその実行を全く知らなかった、犯罪とは無関係な活動をしていただけ」にも拘わらず。
ですがもし、一部の暴走や残酷で非道な行為に気づいたのであれば、仮に9割は犯罪に関わっていなかったにせよ、それに対し「厳しく行動変容を求め批判すべき」です。それをしないのであれば、自浄作用がないと見なされ、「どういう方向に向かうかわからない危険性のある集団だ」と、運動全体が危惧されても仕方ないのです。
なので、「内集団を批判できる指導者・代弁者」は大事なんですね。それをしない、というのは暴力の肯定であり、残酷さ・非道さの肯定です。「特権の在る側」も、相手に反対されても批判することです。それはカルトに向かう運動性に対する「特権の正しい使い方」でしょう。
「内集団・外集団バイアス」という無意識を自覚するためには、まず「同じ方向を向いている内集団」を批判的に観ることができる「自己言及性」が必要です。そして「外集団の批判を単純化して片付けないこと」ですね。
〇 日本ではほとんど報道されない、BLM運動の嚆矢となった「ファーガソン事件」の真相と背景にある黒人の犯罪率の高さ
アイアン・ヒルシュ・アリが、BLMは警察をなくせ、監獄をなくせ、と要求しているけど、それが現実になっている国がある。私の母国のソマリアっていう国だけど。彼らは、ソマリアに半年ほど行ってから意見を聞かせて欲しい。と言っている。ソマリアで半年生き延びられるか、それが問題だ。 https://t.co/BBIAED9fOm
— buvery (@buvery) December 8, 2020
相手の立場になって考える
「相手の立場になって考える」というのは、単に属性単位で考えることではなく、様々な「個人」、「個々の関係性」の中で、お互いが相手を思いやってそれぞれが考える多元的なものを含みます。
同じ属性がみな同じ考えを持たないのにも拘わらず、自分たちと異なるからと「名誉○○」とカテゴライズして価値下げしてみたり、「人を自分たちの価値基準で一方的に線引きする裁量権を持っているかのようにジャッジする特権意識」に気づく、ということが大事ですね。
弱者はみな同じ意見や主張ではなく、「弱者属性のひとつの気持ち」はない。だから「相手の立場になって考える」というのは「属性単位」で考えたところで、人によっては押しつけがましい勝手な決めつけになります。
個に対して全体を優先させる主義を「全体主義」というが、個々の差異を観ずに属性単位で「声の大きな側の主張」だけを積極的にピックアップし、「属性の代表の気持ち」としてそれ以外を認めない、というのは属性における全体主義的なあり方です。
「勝手に弱者扱いするな」「可哀そう扱いするな」という反応はとても自然で、個々の相手を観ずに「属性単位での単純化」によって、そういう反発を受けるわけですね。
「単純化された弱者、特定の弱者像」を聖域化して「○○すべき」と教条化し、そのひとつの考え方それ以外は認めない、許さないというようなものは、カルト的宗教に類似した個の主体性の否定であり、
「属性単位でアイデンティティ化する」、というのは、ナショナリズムも同類であって、人を個人で多元的に観るのではなく、どの共通項で人を区分けするか、という単純化に繋がります。
この「アイデンティティ・ポリティクス」の問題に関しては次回の記事で考察しています。
怒りと単純化
「怒り」と連結した運動は、「怒り」を原動力にしないと運動の力を失うから、「ある特定のもの」をターゲットにして集中することで、怒りの熱エネルギーと中心性を維持します。
それは「台風」のようなもので、パワーと運動を維持するには熱量と「明確な中心性」=「目」が必要で、熱量を失い拡散してしまえば勢力を失う。しかし、「怒り」の感情でしか戦わない、戦えない人は、正義とか何かの訴えや行動、運動というものは全てそういうものだと思っているのでしょう。
しかしその手の「怒り」の運動が「何を単純化することで維持されているのか?」「単純化によって見過ごされたものはないか?」を見たり、「怒りそのものを観察する」というアプローチから観える「運動」や「正義」の姿があります。
「怒りそのものを観察する」、というのは「まさに今怒っている時にそれをする人」は極めて少なく、大抵は怒った「後」に「私は何に怒ったのか」と怒ったことの原因・理由を探したり、
「こんなことで怒るようではまだまだだ」とか、「あんなに怒るべきではなかった」とか、怒ったことへの評価をしたりする自制的で真面目な道徳的な人は結構いますが、
「怒りそのものを観察する」というのは怒りへの内省や自制心が中心ではなく、好奇心が中心という意味で「変態的」です(笑)。
過去に、「他者への怒り」が「待てなさ」や「自己愛」と関係することを少し書きました。そして怒りは「相手を支配・コントロールしたい欲求の表れ」とはよくいわれることですが、「相手が支配・コントロールしてくるからこそ怒る」という防衛の役割もあります。
そしてこれらのよくある怒りの原因だけではなく、「怒り」は、脳の機能障害、脳腫瘍、認知症、脳血管障害などで生じたり、精神障害からも生じます。(たとえば双極性障害の躁状態など)
これは専門的には「易怒性」といわれるものですね。そして「怒り」の原因の違いだけでなく、その強弱や持続性や頻度なども異なります。
「怒り」も多元的ですが、今回は「相手を単純化することで生じる怒り」をテーマに考察しています。その単純化とは「あるひとつの価値基準で見た善悪等の概念に存在を当てはめる」という意味での単純化です。
では何故そのような単純化を考えるのか?といえば、わかりやすい敵、わかりやすい味方、わかりやすい問題という、この「わかりやすさ」に様々なものが押し込められることで見落とさた多くのことがあり、
「問題がわかりやすくされること」で逆に問題の本質がわかりにくいものになり、気づかれないまま、より深刻な問題が生じていると考えるからです。
「わかりやすさの罠」に関する別の視点として、以下の外部サイト記事もおすすめです。
〇 『わかりやすさの罪』から抜け落ちている「わかりやすさ」との戦い方
「都合が悪いものを敢えて無視し、別の目的のための正義の運動の装いになっていないか?」、そして「特定の政治的な方向性での扇動目的」や、何らかの思想が背景にある「一部の人々」の価値判断によって、
「庶民の感情」が利用されたり、一方的に「絶対化」され「普遍的なもの」のように強制されているだけではないか?等の複合的な力学を見るわけです。何故ならそれもまた「人間というものの自我運動」を観ることだからなんですね。
自分の見たいものだけ見て、怒りたいものだけに怒って、答えが最初から決まっている自己完結状態から「相対的な自分の正しさ」の押し付け運動を「正義」などと強引に合理化し普遍化しようとする時、
発生する認知不協和を解消できなくなり、(正確には認知不協和を無視するしか己が活動を維持できないからそうするわけですが)ますます内集団の自己正当化を強めつつ外集団への他罰(責任の外部化)を行うことで分離肥大化し、「集合的な過剰な自己愛運動」となりカルト化していくため、
これらのカルト化した台風は、「怒り」を高めるために「問題」を外部に必要とし、「問題にできそうな何か」を見つけ「敵」を構築し、敵への怒りを正当化し合理化する、
そして「敵」の「社会的責任」を問う形で世に訴えることで集団で裁く、ということをやり続けるわけですね。「怒るために外部に悪を生み出し、活動を維持するために怒り続ける」という本末転倒な自己愛運動体でもあるわけです。
そして対象が非常に複雑で明確に定まらないような場合、怒れない、だからこそ複雑なものを単純化して「怒れる形」に持っていく、ということですね。