傷つきとアイデンティティ 運動と搾取の逆説
今回は、「傷つき」や「アイデンティティ」をベースにした運動と、それによって逆に見失われるものや透明化されるもの、そして逆説的に考察した「搾取」がテーマで、前回の記事の補足の内容にもなっています。
前回の記事 ⇒ 怒りと単純化 集団・運動のカルト化
本当に抑圧されているマイノリティ属性は、まともな対話なんてしてもらえません。多くの場合、本音での意見すらいえませんし聴いてもらえません。たとえばウイグル族とかホームレスの人達のように。
世界人権デー に際し、中国にいる何百万人ものウイグル人やイスラム教徒の少数民族が、常に監視下に置かれ、信仰を隠すことを強いられ、収容所に拘束されているということを忘れないでおきましょう。 pic.twitter.com/jhEKVQPRJz
— アメリカ大使館 (@usembassytokyo) December 10, 2020
ではまず一曲♪
プロと素人、こういう区分けを嫌う人もいますが、プロってスゲェ、というのは何の世界でもよくあります。 XJAPANの「紅」をクールな表情で弾くクラシックギタリストの猪居 亜美さん、プロってスゲェ、です♪
生きづらい云々、そういうことが多く語られます。「苦しみ」や「痛み」の表現は必要でしょう。ですが何かを単純化し過ぎることで逆に見過ごされ透明化されるものがあります。そして様々な概念が「武器」としてただ「気に入らない相手」「不快な相手」を叩くために過剰に使われている現象が肥大化しています。
社会学の導入で、「常識を疑う学問です」とか「生きづらさについて考える分野です」といったことを言うのはもう禁止したほうがいいかも。「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」はずが、「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」人ばかりになってしまっているから。
— OKAMOTO (@Tomochika_wsd) July 13, 2020
「向こうから積極的に対話をもちかけられる」というのは本当の弱者ではありません。さらに「何とか対話しようとする相手」を「一方的に拒否できる側」というのは、弱者どころか「特権」を持つ「強者」なんですね。要求を直に突きつけるだけの特権性があるからこそ、対話を拒む、という別の手段が選べるのです。
「本当の被抑圧者」は、「対話を拒み表現を否定してきた社会」によって陰に追いやられてきました。だから話すこと以外の方法で伝えるしかなかったわけで、手段が制限され抑圧されているからこその戦い方であるわけです。
では「ポリコレ」というものが何故これほど否定的なもとして受け取られるようになったのでしょうか?それを分析している外部サイト記事を紹介します。
アメリカの大学でなぜ「ポリコレ」が重視されるようになったか、その「世代」的な理由 より引用・抜粋
憲法学者のグレッグ・ルキアノフと社会心理学者のジョナサン・ハイトの共著『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか(The Coddling of the American Mind: How Good Intentions and Bad Ideas Are Setting Up a Generation for Failure)』
(中略)
「ポリコレ」の風潮に肯定的な人にせよ否定的な人にせよ、その風潮についての学術的な分析を知っておくことは、有意義であるはずだ。これから四回にわたり 、日本の状況との簡単な比較も加えながら、『アメリカン・マインドの甘やかし』で行われている議論を紹介しよう。
(中略)
この本の軸となる主張は、アメリカの大学でポリティカルコレクトネスにまつわる問題が起きているのは、学生たちが三つの誤った考え方=「三つの不真実(Untruth)」を信じていることに由来する、というものだ。・ 脆弱性の不真実:人は傷つくことで弱くなる
・ 感情的推論の不真実:常に自分の考えに従え
・ 私たち対やつらの不真実:人生は善い人々と悪い人々との闘いである
たまに「今の常識を変えるための運動だ」みたないことを言う人がいますが、「欧米の常識」で「他国の常識」を変えるだけなら、ただの常識の置き換えに過ぎません。全く非創造的です。
アイデンティティ・ポリティクス
「ポリコレ」「アイデンティティ・ポリティクス」「マイクロアグレッション」にせよ、個々に見れば別に悪いものでもなんでもなく、それ自体への否定はなく、それが様々なバイアス、条件と結びつくときに変質し暴走する、様々な負の作用をもたらす、ということです。
たとえば、宗教を観ていくときもそうですね、「宗教・信仰そのもの」の否定なのではなく、組織の腐敗、宗教が他の様々なものと結びついたときの悪影響、変質、そして「カルト化した集団」等への批判です。
ここで再び引用です。上の引用記事に続く第二回の記事で、アイデンティティ・ポリティクスの問題、そして「マイクロアグレッション」という概念を過剰に使うことの負の方向性が、「敵意」「排他性」の増大につながっていく問題点等を考察しています。
「ポリコレ」を重視する風潮は「感情的な被害者意識」が生んだものなのか? より引用抜粋
たとえば、デラルド・ウィン・スー教授が発明した「マイクロアグレッション」という概念では、日常的な言動のなかで行われる些細な見下しや侮辱も攻撃(aggression)の一種であるとされる 。しかし、マイクロアグレッションという概念は、発話者が攻撃を意図していなくても聞き手が傷つけばそれが攻撃である、としてしまう。
つまり、「攻撃」の定義を発言者の意図や客観的な基準にではなく、聞き手の主観に委ねてしまう概念であるのだ。マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。
最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。
さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、
「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。
(中略)
ある問題が「私たち対やつら」という枠組みで見られるようになると、「やつら」に対して配慮をしたり妥協や和解の姿勢を示したりすることは、「私たち」に対する裏切り行為だと見なされるようになる。これでは、社会問題に現実的で有意義な解決策をもたらすことは不可能だ。
また、異なる意見を持つ人同士の理性的な対話が重要となる学問の世界においても、「私たち対やつら」という構図で物事をフレーミングしないことは前提とされるはずである。しかし、近年のアメリカの大学では部族的な対立が活発化している。
その背景にあるのは、アイデンティティ・ポリティクスと呼ばれる現象だ。アイデンティティ・ポリティクスとは、人種やジェンダー、あるいはイデオロギーや金銭的利益などの共通の特徴に基づいた集団を形成して、政治に動員することである。
「目標を達成するために集団を形成する」ということ自体は政治的な行為としてはごく普通のものであるのだが、問題なのは、近年では「共通の敵に基づいたアイデンティティ・ポリティクス」が盛んとなっていることだ――とルキアノフとハイトは言う。
「共通の敵に基づいたアイデンティティ・ポリティクス」では、ただ単に集団の成員の特徴が共通しているだけでなく、敵となる「やつら」を設定して、他者に対する怒りや憎悪をアピールすることによって集団が結束させられる。
たとえば、アフリカ系やラテンアメリカ系などの有色人種であるなら白人に対する敵意、女性や性的マイノリティであるなら男性に対する敵意を表明することが、重要視されるのだ。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
シティズンシップ
「共通の敵に基づいたアイデンティティ・ポリティクス」、これは「内集団・外集団バイアス」を強化していく運動性を元々もっているので、「外集団」が内集団の要求・理想を受け入れない限り、敵意は増大していく一方です。そしてこれは集団がカルト化していくときの力学のひとつです。
しかしアイデンティティ自体は別に悪いものではなく、そしてマイノリティ属性がマジョリティ属性から受けてきた様々な負の作用を訴え、そして構造を変えるために属性でまとまり運動するのは、そうせざるを得ない戦いでもあるわけです。
今のアメリカ、世界を観れば、いえ過去の人類の歴史もそうですが、右の運動であれ左の運動であれ、「共通の敵に基づいたアイデンティティ・ポリティクス」というのは先鋭化の結果に排外主義へ向かいます。「アイデンティティの尊厳」で「内集団・外集団バイアス」が強化され続けた結果、カルト化した集団になっていく、ということですね。
最初は小さな範囲だった「アイデンティティ・ポリティクス」による当事者運動が、徐々に広がり社会全体に行き渡ると、アイデンティティの訴えが受け入れられ、マジョリティ・非当事者にとっての常識が変わっていくわけです。
そうするとアイデンティティ・ポリティクスはシティズンシップへと移行し、非当事者が参加するようになってきます。それを、以下に紹介の「千葉雅也さん×綿野恵太さんの対談記事」の中で、千葉さんは「特殊性から一般性へ、特殊性から普遍性へ」とシンプルに表現しています。
そして綿野さんが、『アイデンティティ・ポリティクスは、反差別運動において「強いられた同質性」になっている』ことを指摘しています、そしてこの「強いられた同質性の設定」によって、アイデンティティ・ポリティクスは行き詰る、ということなんですね。
〇 千葉雅也さん×綿野恵太さん『「差別はいけない」とみんな言うけれど。』刊行記念対談 【前編】アイデンティティとシティズンシップ
排外主義化したアイデンティティ・ポリティクスは、「傷つき」を語りつつも、自分たちの基準で観た「配慮すべき傷つき」しか認めません。「自分たちが傷つけている人の傷つき」は同じ傷つきではないのです。○○平等とか何とか言いながら同属性の違う意見の人を攻撃したりしても、全く止めようとすらせず批判もしません。
「傷つけていい人よくない人」を常に選別しながら「誰も傷つけない社会」を考える矛盾。
このようにして、「傷つき」という数値化できないはずの主観は、あたかも質量があるかのように評価され不平等に扱われ、「傷つけていい人・属性」を排除、価値下げし、「傷つけてはいけない人・属性」を聖域化することで特権化していくのです。
そして社会が統合力を失いアノミー化が進むことで、無制限化した価値相対主義の結果、カルト化した集団との文化葛藤や、制御不能な暴力があちこちで生じはじめ、社会は「学級崩壊」のよう荒れ、乱れていきます。こうなると今度はシティズンシップがアイデンティティ・ポリティクスを排除するようになるわけです。
「みんなの文化を尊重」かえって溝広げた? 「多文化主義」問い直すヨーロッパ より引用抜粋
欧州各国は戦後、多くの移民や難民を労働者として受け入れてきた。しかし、経済成長が鈍り、社会問題が増加するに伴い、移民らへの批判や反発も強まっている。今なお移民との「多文化共生」を維持しようとするスウェーデンと、外国人の排除にかじを切った英国の例を見た。
(中略)
モールベリさんは言う。「スウェーデン社会と移民との関係は、『移民は社会に適応すべきか』という問題に限らない。地元社会の側も移民に適応していく必要のある、いわば双方向の関係だ。そうしてこそ、多文化共生も可能になる」しかし、こうした考えに違和感を感じる人が、近年多い。移民問題を専門にするジャーナリストのポーリナ・ノイディングさん(38)は「ボートシルカなどで最近頻発する事件は、加害者も被害者も移民なのが実態だ。
(中略)
近年は社会の一体性が保たれないとして「多文化主義」を見直す国が相次いでいる。多くの国は、緩やかなフランス型モデルを採用し、社会への移民の「統合」を目指すようになった。「多文化主義」本家の英国も、ここ20年ほどの間に、「統合」を主眼に置く方針に徐々に転換した。
(中略)
ウエスト大学のヨーラン・アダムソン准教授(56)は「多文化主義の理念に固執し、移民を民族文化に押し込めた結果、一般市民との溝を逆に広げてしまった。橋をつくるつもりが、壁をつくってしまった」と指摘する。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
多文化主義は結局スウェーデンの中にソマリアを作るだけのことになり、『ソマリアでやれば良いじゃないか』という結論になる。だが、スウェーデンはすでにイスラムを1割ほど抱えており、今さら分離するのは難しい。出ていってはくれないが、延々と衝突を繰り返す分離集団を国内に抱え続ける。
— buvery (@buvery) December 7, 2020
千葉雅也さん×綿野恵太さん『「差別はいけない」とみんな言うけれど。』刊行記念対談 【前編】アイデンティティとシティズンシップ より引用抜粋
千葉:「マイノリティのシティズンシップの論理とマジョリティのアイデンティティ・ポリティクスの関係」というのは、ややこしいですね。一般的な、市民権の名のもとで社会改革を訴えるといいながら、猫も杓子もマイノリティのことばかり取り上げ、彼らに味方してるように見えるのも確かでしょう。だから、いろいろなアイデンティティ・ポリティクスが生まれ、それが飽和した結果として、シティズンシップ・ポリティクスに転化した。
(中略)
綿野:いっぽうでヨーロッパで生じているのは、シティズンシップの理屈でマイノリティを排除すること。それもマジョリティのアイデンティティ・ポリティクスをシティズンシップの用語で塗り固めて攻撃(反撃)する、というかたちではないかと思います。
(中略)
千葉:(中略)重要なのは、シティズンシップというと普遍的・包摂的な発想と思うでしょうが、その普遍的・包摂的なものに刃向かう人間は、一切人間として認めない、という強烈な排除をともなうということです。もう「悪そのもの」のように排除される。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 千葉雅也さん×綿野恵太さん『「差別はいけない」とみんな言うけれど。』刊行記念対談 【前編】アイデンティティとシティズンシップ
アイデンティティ・ポリティクスとシティズンシップは共に必要で、相互媒介の関係にあり、それ自体はどちらも悪ではないが、両者の関係性のバランスが大きく崩れ、分離化し極端化すれば、どちらもが悪になる可能性がある、ということですね。なのでやはりバランスが必要です。
「私は傷ついた、傷ついている」という個々の主観そのものの質量を数値化できるでしょうか? 苦しみは比較できるでしょうか? 身体の苦痛、痛みであればわかりやすいですが、黙って耐えている人の精神的苦痛、大きな声を出している人の精神的苦痛、外から見るだけではどっちが大きいかなんでわかりません。
外から見てその圧倒的な質量を推定できる「主観としての傷つき」があるとするなら、たとえば「精神的な苦しみから自殺する」という負の現象はその筆頭ともいえる事実性でしょう。
「生命を絶つ」という最も強力な否定性、生きること全ての諦めに至るほどの絶望の結果だからです。ならば「自殺」が最も多い属性が「最も深く、あるいは最も深刻な次元で傷つくような現実に置かれている属性」といってもいいかもしれません。
そしてそれは「大人の男性」です。 また自殺の背景には、うつ病をはじめ、様々な精神疾患が関連することが多いのです。つまり多くの「自殺者」は障害属性を含んでいます。そうなると一体誰が「傷ついている弱者」なのでしょうか? しかし男性の自殺問題は殆どスポットはあたりません。
「特権」「強者」という「属性」による存在の単純化によって、「傷つきが少ない属性」と決めつけられ、複雑性を排除されて扱われるからです。
また「援助希求」の性差にみられる要因は当事者本人の主観的な要因だけでなく、「周囲からの共感・同情のされやすさ」、「支援の受けやすさ」という外因もあります。属性によって「傷つき」への眼差しに非対称性があるのです。
統計的に観れば、絶望度は男性の方が深刻のようです。では幸福度はどうでしょうか? 仮に「特権」の代償ゆえに男性には「絶望の谷」が深いのならば、反対の「幸福の山」は高いはずですが、実際は「幸福度の男女格差」で日本は世界一なのです。幸福度においても女性よりも男性のほうが低い、ということです。
「絶望度が高く幸福度は低い属性」でありながら、「特権を持っている強者」ということでひとくくりにして完結です。そして何故か「特権が~、と言ってる側」は「絶望度も低く幸福度も高い属性」のようです。
ところで、世には様々な国 ランキングがありますが、全てがランキング1位の国や都市なんてありません。しかし日本は割と上位に入っています。まぁ私はこの手のランキングは参考程度に考え、他のランキングとか他の統計も含めて総合的に考えるのですがすが、人によっては「ジェンダー・ギャップ指数」ばかりを言う人もいます。
しかし「ジェンダー・ギャップ指数」というものは「どのようにして算出されるのか?」そこを観ていけば、「レポートの結果」だけを観て「この国は○○だ」、と断定できるようなものではないんですね。以下に紹介のnoteではこのあたりの問題がとてもよく考察されています。
⇒ ジェンダーギャップ指数:アイスランド12年連続1位の強さの秘密に迫る
そして別の指数、条件から観れば、単純にひとつの指数だけで人、特定の属性等の不幸や生きづらさが決定されているわけではないことが見えてきます。たとえば「GII ジェンダー不平等指数」ですが、日本の順位は162か国中24位です。
GII ジェンダー不平等指数
ジェンダー不平等指数(GII)は、リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)、エンパワーメント、労働市場への参加の3つの側面における達成度の女性と男性の間の不平等を映し出す指標である。値は、0(女性と男性が完全に平等な場合)~1(すべての側面において、男女の一方が他方より不利な状況に置かれている場合)の間の数字で表される。 日本の順位:24位/162か国 (2020.12.15発表)引用元 ⇒ 男女共同参画局 男女共同参画に関する国際的な指数
そして他の指標で、「女性が暮らしやすい都市」のランキングでは、世界の先進国の19の大都市の中で「2位」に選ばれています。
トムソン・ロイター財団が世界19都市を対象に行ったもので、女性の経済的な進出、性的嫌がらせ、医療機関の利便性、文化・宗教的慣行の4つの面から調査した。性的暴力のリスクが最も低い都市は東京で、パリは3位、ロンドンは5位だった。引用元 ⇒ 女性が暮らしやすい都市はロンドン、東京は2位=ロイター財団調査
たとえば以下↓の三つのランキングもそうですが、「これだけではわかならない」と考えつつも、「ある指標で観ればこういう結果にもなる、統計とはそういうもの」であるからこそ、日本のランキングが「悪い結果」の場合も同様にそれを妄信せず、「これだけではわかならない」、だから様々な角度から考察する、ということです。
〇 世界の引っ越したい国人気ランキング、日本は2位、1位は…
搾取の逆説
「感動ポルノ」が、弱者、マイノリティの肯定的な表現(強さ)を消費する搾取の構造を持つ「感動の資本化」とするなら、「共感ポルノ」は「弱さ」の表現の消費であり、「傷つきの搾取」。
〇 私がナイキCMに素直によろこべない理由。ひとりの子をもつ在日3世として
「搾取」という言葉は、マルクスの疎外論の文脈だけでなく、今では様々な意味で使われます。「傷ついている心」からも語られます。 そしてたまに「内面化した資本主義」という言葉を、資本主義への批判的考察をする人から聞くこともよくあります。
しかし、そのような人々も、まさにその批判的立場を利用し資本主義と相互媒介しながら何かを資本化しています。
「傷ついている心」を囲い込み資本化するイデオロギーとその拡大によって、弱者は、弱者性をアイデンティティ化することで「傷つき」を商品化する。これぞ「傷つき」の錬金術であり、「ミクロとマクロ、マイノリティとマジョリティの共犯関係」。
この共犯関係は相互依存的であるため、この循環運動内にある者は、マイノリティであれマジョリティであれ、「どちらもが」抜け出せなくなり、その結果「属性をアイデンティティにせず、主体的な個人として自己実現する」ことができなくなる。
警察の仕事には「犯罪者」「社会悪」が必要で、医者の仕事には「病人」が必要であるように、「傷つき」を必要とする仕事によって囲い込まれる顧客たち。
「傷つき」が個々の実存から切り離されて、そして様々な概念によって均一化された存在は、顧客としてアサイラムに囲い込まれる、これが傷つきの搾取の構造。
アウトサイダー以外に、この構造性を抜け出した視点からの「弱者」や「マイノリティ」は語れない。そして本当は共犯関係だが、あたかも「傷ついた心」「傷つける心」の二種類の心が戦っているかのような大きな物語を共同幻想させながら、新たな「傷つき」の商品開発、企画営業にいそしむ運営人。
そして「怒りの矛先としての生贄」は、「より傷ついていない者たち」の中でも「政治的に対立する側」から選ばれ、「傷つきの主役」が公開処刑することで拍手喝采が起きる。「ルサンチマンで私刑上等」のショーが随時開催される。この世界はいつだって需要と供給、たまに商品が入れ替わるだけ。
ルサンチマンと共感ポルノが合わさり、「被害者ポルノ」となり「ネガティブ情動の資本化」が行われている現在は、被害者感情・情動はよく売れる。
「被害者」という顧客が、「怒り」と「傷つき」で震えた、と表現すれば、社会は動き、そして経済は回る、ヘタな「物」よりも売れる。
そして情動という資本は、政治の闘争でも相手を倒す「数の力」=権力に還元され、政治利用されている。今や情動は戦車より強い時代、実存のイデオロギー化の時代。イデオロギーの武器としての「情動エネルギー」の搾取、ですね。