モラハラとポリコレ  マジョリティ 対 マイノリティとノイジーマイノリティ

 

人格障害のマニピュレーション(心理的操作)と、「幼子などに見られるクレーン現象」が共に「他者を操作する」ことは同じでも本質的には全く違うものであるように、「似て非なるもの」というのは多いですね。

 

今回は、「マイノリティ」がメインテーマですが、記事前半では「モラハラとポリコレ」に関連するテーマで書き、アメリカ大統領選挙戦や今後のゆくえ、

 

そしてケンドリックラマーに関連する動画や記事の紹介、記事後半部で「マジョリティ 対 マイノリティとノイジーマイノリティ」をテーマに書いています。他に幾つかの動画も紹介しています。

 

 

ヘイトラベルをベタベタと張り付けられた一般人が、ポリコレ棒で抵抗が出来ないままボコボコにされる様を見て、同時に社会不適合者ラベルをベタベタと張り付けられた一般弱者が、ポリ(警察)の棒でボコボコにされる様を見て、

 

そういう一部の人々は、「自身とは反対の者」にいろんなラベルを貼ってボコボコにしたいか、完全に集団から排斥したいか、それを劣等にみなして自身が優越したいたいだけなんだね。

 

◇ 関連過去記事の紹介

○  内集団・外集団  ラベリング(レッテル貼り)の多元性

 

「大統領選の結果は選挙人制度の数字上ではトランプ圧勝に見えても、得票数では100万票以上差をつけてヒラリーが勝っている」、などと今更メディアが報道しても、そんな基本的なことは玄人のヒラリーなら充分わかった上で戦って負けたわけだから。

 

そして他の角度から見るなら、「トランプの二倍以上の膨大な挙資金」を使い、さらに「膨大な量のテレビCM」を放映してトランプを批判し続け、さらにケイティ・ペリー、マドンナ、レディガガ、ビヨンセまで使って援護射撃してもこの程度だとするなら、

 

同じ条件設定で戦うなら、仮に得票数で勝負してもやはり殆ど「拮抗状態」か、負けていた可能性は高く、結局は史上稀に見る「嫌われ者合戦」だった、ということです。笑

 

リベラルはなぜ勝てないのか?」このテーマをアメリカの社会心理学者でバージニア大学心理学部教授のジョナサン・ハイト氏がを鋭く分析した本を以下に紹介します。

 

 社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

 

続けて今回のテーマに関連するTED動画を二つ紹介です。

◇ J・D・ヴァンス: アメリカの「忘れられた労働者階級」の葛藤

J・D・ヴァンスはオハイオ州南部の通称「ラストベルト」と呼ばれる工業地帯にある小さく貧しい町に育ち、現在のアメリカにはびこる多数の社会問題を目撃してきました。

ヘロインの蔓延、破綻した教育制度、離婚や暴力により引き裂かれた家族、等。この国の労働階級が集中するアメリカの街で語り継がれるであろう鋭いトークの中で、

ヴァンスはアメリカンドリームを見失うとはどういう感覚なのか説明し、地域のリーダーから政策立案者を含むすべての人が考えなければならない質問を投げかけます。

 

 

◇ 黒人男性がオルタナ右翼に潜入

アメリカにおける人種と政治についてのこの見逃せないトークでセオ・E・J・ウィルソンが語るのは、白人至上主義者のネットユーザー、Lucius25に成りすました経験、

そして自分とは意見の異なる人々と関わり合う上で得た、予想外の共感や驚くべき観点についてです。

セオは我々に恐怖を断ち切り、好奇心を抱き、考え方の違う人達と勇気ある会話を持つことを勧めます。「会話が暴力を止め、国をスタートさせ、橋を架ける」というのが彼の言葉です。

 

 

◇ 関連外部サイト記事の紹介

凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題     テロにも発展。その名は「インセル」

イギリスにおける「人種差別」 — 神谷 匠蔵

日本における「ポリコレ」に反対できる人はいるのか

「差別」とは何か?アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること

権力の暴力。割とヤバイ警察が存在する世界15の国

 

 

 

このブログでも去年の初夏頃に紹介した好きなラッパーのひとり「ケンドリック・ラマー」が、今年2016年の第58回グラミー賞5冠 を達成し、(ノミネートでは11部門で、12部門にノミネ ートされたマイケル・ジャクソンに次いで2番目の記録。)

 

またこのグラミー賞で「最優秀アルバム賞」に輝いたのは、デビュー当時から好きなシンガーソングライター「テイラー・スウィフト」さんで、彼女の曲も過去に紹介していますが、まぁとにかく2重に嬉しかったです。

 

ケンドリック・ラマーの出身地であるコプトンは、カリフォルニア州のロサンゼルスにあるスラム街で、そこはストリートギャングの巣窟で犯罪率が高く、「人口10万人以下の街」では全米で一番危険で治安の悪い街に選ばれたこともあるそうです。

 

では以下に、アルバムTo Pimp A Butterflyに収録の「Alright」という曲の歌詞の一部を引用・紹介です。

 

「Alright (Music Video Version) ケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar) 」 より引用抜粋

お前色々悩んでたよな?
自分の持ってる「影響力」を
良くない方に使っちまって
俺にだって覚えがあるぜ
自分の持ってる影響力を
怒りに任せて使ってたけど
そうやって腹を立てていたら
結局それがものすごい
鬱状態になってって
気が付くと
ホテルの部屋で叫んでた
俺の周りの至るところに
ルシァー(悪魔)が潜んでたから
俺はずっと逃げ続け
安心して隠れてられる
そんな居場所を見つけたんだよ
あの頃は
必死に自分に言い聞かせてた
自分にわからせようとした
自分の土台は何なのかって

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ Alright (Music Video Version) ケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)

 

2014年8月9日に起きた「白人警察官による黒人青年マイケル・ブラウン射殺事件」に対するケンドリック・ラマーの発言

 

「あの事件は起こるべきじゃなかった。でも俺たち(アフリカ系アメリカン人)に自尊心がなかったら、どう相手から尊敬されるのか? デモや略奪だけじゃなく、尊敬はまず自分の内側から始まるもの」

「一番被害を受け、一番ギャングを恐れているのは、その街に住む善良な黒人市民たちです。しかし、警察から見ると、ギャングが徘徊している地域に住んでいる黒人というのは、肌が黒いだけで全員ギャングのようなものであり、しばき倒す対象です。」

 

このように語る「狂った街に住む善良な少年」それがケンドリック・ラマー。

 

◇ 関連外部サイト記事の紹介

警官による黒人の射殺は人種差別が原因か?

○  ドナルド・トランプが勝利した大統領選にNBA選手も反応、レブロンは「乗り越えるべき非常に困難な障害」と投稿

 

そして何度か紹介した女性シンガーソングライターのSiaさんに関する記事と曲の動画を続けて紹介します。Siaさんの曲って凄いね、ビシビシ響いてきます。

 

「Kendrick Lamarを迎えたSiaの新曲”The Greatest”オーランドのゲイクラブ銃撃事件の犠牲者への追悼メッセージ」より引用抜粋

Siaは、Kendrick Lamarを客演に迎えた”The Greatest”のミュージックビデオ(MV)を公開した。十代の天才ダンサーMaddieZieglerと4度目のコラボレーションを果たしたそのミュージックビデオには、

フロリダ州オーランドの同性愛者向けクラブで起きた凄惨な銃撃事件の犠牲者に対して、そしてLGBTQコミュニティに対する、力強いメッセージがこめられていた。

2016年6月12日、フロリダ州オーランドの同性愛者向けナイトクラブ「Pulse(パルス)」で起きた銃撃事件は、まだ記憶に新しい。49人が死亡し、53人が負傷。容疑者も射殺された事件は、アメリカ史上最悪の事件となった。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ Kendrick Lamarを迎えたSiaの新曲”The Greatest”はオーランドのゲイクラブ銃撃事件の犠牲者への追悼メッセージ

 

 

マジョリティマイノリティノイジーマイノリティ

 

力関係でいうと「強い側・多数側が弱い側・少数側を抑え込むのは容易」でもその逆は容易ではないため、力では勝てない弱い側が声を大きくすることで対応することは、現実的に仕方がない手段・反応のひとつだとは思います。

 

「毒親 対 子」、「いじめっ子集団 対 1生徒」、「村 対 1住民」、「ブラック企業組織 対 1社員」、「カルト組織  対 1信者」、そして「権力 対 個人」、「マジョリティ 対 マイノリティ」、

 

などのように、力関係が全然対等ではないものの対立構造においては、受ける負の力はその力関係の差に比例するわけです。

 

やっている側が力関係的に圧倒的に優位であれば、ちょっとやそっとの抵抗や防衛反応など「屁でもない」ことであり、現実は全く変わりません。

 

加えている力が、どれだけの破壊的な負の作用を相手に与えているかの想像力もないから、痛みを感じることすらありません。

 

なので「反応が大きいのは弱い方である」のは当然・自然であり、また「反応の大きさ」は加えられた負の力に比例するのであって、それは過剰反応ではなく「必要なこと」でもあるんです。

 

そうでなければ「沈黙をもって是と見做す」で、圧倒的に否定・抑圧され続けるのは弱い立場の方だからですが、そういう反応的・対立的な現象の全てが、「本当に純粋にそれだけで起きている反応や対立なのか?」をより公正に見ることも同時に必要なんですね。

 

「当事者ではない人」が、それ等の現実下に置かれて苦しんでいる人々の怒りや不満を利用する、そういう人間もいる、というのが社会・人間のややこしい一面でもあるからです。

 

特にメディアの弊害は巨大で、次に学歴エリート系の活動家などですね。教授とか学者・専門家とか高学歴な知識人・文化人などの一部にもいますが、

 

そういう人たちがこのような人々の現実から沸き起こる心の力を自身のために利用する、というようなケースです。この背景にはある種のプロパガンダ的な、政治的力学が多分に含まれていることがあり、

 

しかもそのプロパガンダ的運動を、「自身の言動の間違いや誤解・理解力の不足」への適切な批判や周囲の問いかけには全く応じないままに、「一切反省・訂正・改善もすることもなくただ自身をそのまま補強する」ために用いているような場合もあるんですね。

 

つまりこのようなノイジーマイノリティの中には、「個人としての問題や自身に向けられている批判を帳消しにするために、特定の集団や思想カテゴリーに同化することで自身の防衛として使っているような悪質な人」がいる、ということです。

 

例:「私はリベラル側、よって私への攻撃はリベラルへの攻撃、私の過激な言動は全てリベラルとしての言動、みたいな構図。(これを保守に置き換えても同じ。)」

 

自称保守だろうが自称リベラルだろうがそんなことは二の次です。大抵の場合、よほど観念的でイデオロギーに同化一体化している極端な人以外は、それはそのひとの極一部の要素に過ぎず全体性ではない、それがメインではないからです。

 

たまに右や左の活動家として積極的に運動するのを見かけると、基本的に過激なイデオロギーに囚われた人は右であれ左であれ、「筋が通っている人」「気骨のある人」とは全く思わないんです。

 

何らかのイデオロギーや思想・観念に同化一体化している姿は「硬直的な自己統合状態」なので、一面から見れば言動に首尾一貫性があり、筋が通ってるようには見えます。

 

また反対にもめげすに徹底抗戦するので「気骨のある人」には見えますが、(私はそうは感じません)そして不安定で機能不全化している社会状況下では過激な言動を貫く人の方が、「状況に柔軟に対応し調和的に時間をかけて粘り強く解決しようとする成熟した大人」より「筋が通ってるように見える」のです。

 

だから結局、この延長上に「ISとか原理主義者こそ一番筋が通っている」というような、極端な観念との同化という方向性・人間観にも繋がっていくことがあるんですね。

 

ISに憧れる若いフランス女性たちがいる」、という事実は、「フニャフニャしてなくて筋が通っている・気骨のある男」のように見える、「硬直的な自己統合状態」による強力な「観念と行動の一致性」にあるわけです。

 

「ISに魅せられるフランスの10代少女、少年より多数」より引用抜粋

ISに加わるためイラクやシリアに渡航する計画に興味を持ったり、既に渡航したりした未成年のうち、55%を少女が占めているという。
(中略)
少女たちも少年たち同様にISの暴力行為に魅せられているのだと、社会学者のファラド・コスロカバル(Farhad Khosrokhavar)氏は指摘する。
(中略)
コスロカバル氏によると、こうした少女たちは身近にいる西洋社会の「未熟な若い男の子たち」に飽き飽きしているのだという。

「そこには、男らしさに関する新しいカルト的なヒロイズム(英雄崇拝主義)がある。10代の少女たちにとって、イスラム過激派の若い戦闘員たちが男らしさの理想となっているのだ」

「これは男性上位主義的なポストフェミニズムの一種であり、つまり、彼女たちは伝統的な男らしさを美徳とする男性を求めているのだ」とコスロカバル氏は話した。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ISに魅せられるフランスの10代少女、少年より多数

 

新興宗教の盲信者は大概が「硬直的な自己統合状態」です。同じく過剰な思想系の活動家もそこは同質です。

 

私が感じる「筋が通ってる人」というのは、必要な時には他者をシッカリと批判も出来るが、同時に自分が間違っていた時にも自然にシッカリと謝れる、改められる、極々普通の姿勢の人です。

 

ですが「硬直的な自己統合状態」での信念活動は、反対者である他者を責め続け戦い続け、己の信念を守り続けることだけに関しては頑なな首尾一貫性があっても、

 

人間だから当然不完全で完璧でもなく神でもなく常に絶対に正しいわけでもないのに、己の間違い・誤解は認めないんですね、

 

それどころか反対者の批判や指摘には反射的に過剰過ぎる暴言で返し、ケンカ腰に力づくで抑え込もうとする場面が結構見受けられ、その姿に人として筋が通っているとは全く感じないんです。

 

まぁもちろん相手が犯罪者とか、常軌を逸した攻撃とかしてくる状況ならそれもアリではあるけれど、そういう極端すぎる話ではなくて、もっと一般的なレベルの話しです。

 

そして過激な思想とかカルト系の新興宗教のような観念に深く長くハマる人には、潜在的にこの傾向性が高い人が多いんですね、「低次の自己防衛が多層化・多重化している無意識タイプの人」。

 

「思い込める力」「根拠のない自信」は使い方次第では良い作用をもたらしますが、それを使って何かを成し遂げるために大事な要素は「筋が通っている」こと、そして「気骨がある」ことです。

 

例えば今は人気も注目もなく利益も少なくても、ただ真摯に研究に打ち込む学者さん、今はまだ売れていなくても真摯に技や芸を磨き、クオリティの高い表現を生み出そうとしている芸術家、

 

地味で目立たなくて称賛は少なくても、信念をもって手を抜かずにいい仕事をしている職人さん、こういう仕事人たち、

 

あるいは今は逆境にあるけどそこで腐らず折れずにシッカリと自立して生き、逆風の中で己の人生を高められる人、こういう人はみな「気骨のある人」ですね。

 

ですが、単に自分のために活動している部外者(プロ系・専門家を含む)などに対して、「あなたが一見我々の現実に味方しているように見えても、あなたがたは全く味方でもなく理解者でもない自己主張人間」としか私は思いません。

 

そういう人は金のあるところに絡んでくるチンピラのように、現実問題に苦しむ人に巧妙に近寄って自身のプロパガンダに利用する人たちにしかみえないんですね。「詐欺の大元締め・金主の思想版」みたいなもんです。

 

とにかくすぐに庶民の問題を攻撃材料・ネタとしてかき集め、「本当の当事者とその関係者」への配慮や理解もないままにイチイチ首を突っ込む政党・活動家・メディアにはウンザリです。

 

そんな性急で過剰反応的なもの、そして思想的活動や最初から攻撃・批判が目的のための情報収集などではなくて、

 

「ただ静かに耳を傾けてシッカリと理解したもの」をそのまま時間をかけて伝えていくだけで自然に伝わって浸透していく、そういうものが「ありのままで」あるはずなのに、

 

そのやり方ではメディアの仕事、情報発信側の作業の都合上、効率が悪いし、ウケも反応も地味だったり、集客力に繋がらないから、

 

極端で派手な目立つやり方に偏り、そしてそういう情報の渦が世間の印象をどんどん偏らせ極端化させていく、わけですね。

 

どう感じるか」は「伝える側」が決めることではなく、相手が決めること、そういう風にメディアの姿勢・傾向性がもっと変化していくなら、分離・分裂を煽る力学にはならないでしょう。

 

 

 

○   万人平等・公平はあり得るのか? 身分・階級・差別・同調圧力を生む「元」を心理学的に検証

○  「全て自己責任が正論」 という風潮の嘘の心理  同調圧力という「無責任な悪意」

 

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