ペルセウス座流星群とピアノ曲  癒しとリセットのための「空白」の瞑想

 

暑さのピークは過ぎましたが、まだまだ暑い最近の日本の夏ですね。

 

私は子供の頃から雷や夕立が好きで、暑さでボーっとした意識が雷でシャキっとし、夕立の後の夕涼みは本当にとても気持ち良いです。夏は花火や祭りなどを見に行くのもいいですね(^-^)

 

堅い専門的な記事がしばらく続きましたので今日は一息ついて、ペルセウス座流星、花火、ピアノの演奏動画などを紹介しますね。

 

また記事後半では、「雑念恐怖」「囚われ」意識の切換(オン・オフ)などへの対処方法として、感性アプローチからのちょっとした瞑想法を紹介しています。

 

 

「ペルセウス座流星群 2015年」 より引用抜粋

ペルセウス座流星群について

ペルセウス座流星群は毎年8月12日、13日頃を中心に活動する流星群です。

ペルセウス座流星群は、とても観察しやすい流星群です。 毎年、ほぼ確実に、たくさんの流星が出現することがその理由のひとつです。1月の「しぶんぎ座流星群」、12月の「ふたご座流星群」と共に「三大流星群」と呼ばれています。

活動が極大の頃に夜空の暗い場所で観察すれば、最も多いときで40個以上の流星を見ることができます。 また、流星群の活動期間が多くの方の夏休みやお盆休みに重なっているため、

夜更かしをしやすかったり、星のよく見える場所に行きやすかったりすることも理由に挙げられます。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ペルセウス座流星群 2015年

 

次に紹介のJarrod Radnich はこのブログで何度か紹介しているThePianoGuys の友人で、プロのピアニストで金髪のナイスガイですが、

 

コスプレ衣装を着て多彩なアレンジで自在に曲を弾く人で、音がとても滑らかで柔らかいんですね、ThePianoGuysに共通する躍動感と自由さを感じます。2曲続けて紹介しますね♪

 

 

 

ラストの動画は「桑名水郷花火大会」です。

 

 

癒しとリセットのための「空白」の瞑想

 

今日は「雑念恐怖」「不快な侵入思考」「囚われ」などへの対処方法として、少し異なるちょっとした瞑想方法を紹介しましょう。空白を観る「空白」の瞑想です。

 

意識の切換(オン・オフ)が調整できないのは、交感神経・副交感神経のバランス前頭前野と 大脳辺縁系・大脳基底核などとの複合的バランスとも相関があり、

 

多元的な意味合いを持ちますが、今回はそこまで多元的なものではなく、極シンプルな意識の切換(オン・オフ)に役立つ瞑想です。

 

これはシンプルですが精妙で奥行きがあり、時間をかけて深化していくものですが、「空白を観る」ことが深化していくと、やがて思考の運動の発生の瞬間のみならず、無意識的な情動の動きと発生の瞬間さえ見る(感じられる)ようになります。

 

これを上手く使えるようになると、関連付けによって生じる連想のループを「外す」などの様々な意識の切換(オン・オフ)にも応用できるようになります。

 

私たちは通常は、脳・神経の機能が生起させる思考・感情や生理システムのバランスの変化に同化・一体化している状態であり、

 

そして機能が健全であれば無意識が勝手にバランス調整をやってくれているわけで、心身が健全であれば同化・一体化していても特に違和感はなく問題も生じないわけです。

 

ですが何らかの機能不全や恒常性の異常が生じた時には、何らかの「違和感」が生じ、例えば「不快感」「痛み」「苦痛」「不安」など、無意識のバランス異常が意識に上ってくるのです。

 

この時は、逆に同化・一体化が強力であるほど内部のバランス異常が外的に顕在化されることで問題が生じてくるわけです。

 

これは、「外部の現実には何も深刻な問題は生じてなく内部で何かが起きている時」に生じてくる場合の話しです。

 

私がこれを「無意識からの問いかけ」「存在からの問いかけ」と表現するのは、無意識は存在の奥行であり「生きている」からです。

 

思考と思考の間には、必ず「空白」があります。思考は連続してはいません。考える時、アタマの中で発する言葉もまた必ず間に「空白」があり、イメージとイメージの間にも必ず「空白」があります。

 

この空白は「何かに注意・集中する観察者」ではありません。「観察者」は「観察されるもの」と相互依存関係にあるため、

 

結局は「観察されるもの」と相互依存関係を強める=「観察者バイアスを強化する」か、あるいは無意識化して消去(意識に上らないように統制)しても、

 

実際は「分離・抑圧化」されているだけで、その背後では「無意識化された自我運動」が潜在化された状態でループし続けます。

 

では「観察者」を観察した場合はどうでしょうか? これも「観察者」が「観察されるもの」に置き換えられただけであり、「観察と観察されるもの」の相互依存関係は強化されます。

 

ところがこの「空白」は、何にも同化せずにただ在る「意識空間」です。この「空白」は相互依存によって強化も消去もされない子供の心からずっと在る無垢な意識(無心)ですが、

 

「空白」なので殆ど気づかれません。 そして赤ちゃんの頃は誰しもが観念や情報に同化したりとらわれてはない自由な状態だったのですね。

 

「観察者や観察されるもの」はどちらも後天的な条件付け・動機付けの過程で強化され意識に焼き付けられるように一体化した後付けのものであり、主観・客観のどちらも本質は自我の運動の二元分離の運動形態です。

 

そして自我というものの本質はそれ自体で自立的に存在するような絶対的なものではなく、相対的で可変的で相互依存的な動的な性質のものであり、

 

それに対して先天的な純粋意識は強化も消去もされない、何にも同化せずにただ在る「意識空間」で、大人になっても存在し消えてはいませんが、

 

様々な情報と自我の同化によって意識が濁っていたり、自我の動的な質によって激しく波打つ中では、見失われてしまうものなんですね。 それは沈黙と静寂の中にただ在る「意識空間」です。

 

それは何にも集中せず、観察しようともせず、「ただ在る」、「何者でもない意識空間」です。ですが「常に在る」ものです。

 

言語性思考やイメージではなく、観察されるものを観察するのではなく、ただこの「何もない空白」を観てみましょう。

 

「雑念恐怖」などの「強迫観念」は、観察者と観察されるものの相互依存(ループ)それ自体に力を与えなければやがて無力化し、この場合は無意識下においてもループが無力化されていきます。

 

つまり前者が抑圧による主客の自我バランスの回復による「統制化」であるとするなら、後者はループ化した自我運動への同化からの「解放」です。

 

とはいっても、俗世を離れ心身の欲を捨て出家するとか、山にこもって聖者・仙人さんみたいな特殊な暮らしをするとかならともかく、社会の中で生き暮らし自己実現へ向かうのであれば、

 

完全なる無垢状態のままであるわけにもいかず、自然自我(主我)社会的自我(客我)の双方を成長させつつ調和バランスさせていくことが内外の適応性として必要なことです。

 

なのでまず、不毛な負の無限ループにハマって硬直化した分離的な自我運動への同化力を弱め無力化しつつ、囚われのない全体性としての意識を感じながら、柔らかく調和した自我運動を再構築する、というわけですね。

 

と書いてはみましたが、これは同化・囚われが強力な人にとっては非常に難しいことでもあり、そうでない人にとっても深化させていくのは難しいですね。

 

この状態は他者と比較競争するようなものではなく、目的志向の先にある「達成」ではなく、原因志向性の先にある「答え」見つけるための思考の運動でもなく、

 

それらの能動性によるものではありません。私たちは絶えず動くように動機付けられ条件付けられ、それは外的にだけではなく内的にもそうです。

 

なので思考はせわしなく動き続け、そしてそれに同化し続けています。そのため過去にも未来の方向にも動きがないような、「何かに向かう能動性を使わない」でそのままに「ただ在る」、というような「受動的なもの」には全く慣れていないわけです。

 

そのためこれが自然に深化していくには時間のかかることでもありますので、変に結果を求めるような焦りは一切不要です。まぁ無理せず、空や雲をみるような気持ちでゆっくりやってみてください。(^^♪

 

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