「当たり前」と日常の中にある豊かさ 「引き算目線」「足し算目線」
人類はその誕生から現在までの何百万年、殆ど狩猟採集生活で過ごし、ほんの数千年前からようやく農耕を始めだし、ちょっと前に産業革命、そしてついさっきまでお互いに殺し合っていたような生き物です。
そして一瞬前まで、日本は焼野原でした。いやそれどころかヒト(ホモサピエンス)は、地球の生物の長い歴史の中で見れば元々「希少種」であり、氷期には個体数1万を切るレベル(時は僅か数百人まで減る)、これは現在のレッドリスト=絶滅危惧種指定一レベルの危機的状況ですが、それを過去に経験しています。
市民が自由に発言し必要な食糧・物質・情報が手に入り、便利な生活を手に入れたのは、長い人類の歴史の中で「今ようやく起きている」、しかも「一部の国だけに起きている」、まだ新しい社会的現実です。
生物学的に私たち現生人類(ホモサピエンス)は一種だけです。アフリカに発生した我々ホモサピエンスは、その後数十億人になり、そして元々何も変わるところのない一種の生き物である我々の世界は今どうなっているでしょうか?
以下の動画では、数十億人のホモサピエンスを100人のホモサピエンスに置き換えて、世界がどうなっているかをわかりやすく表しています。かつて大自然で共に生きていたホモサピエンスの今の世界での暮らしを見てみましょう。
世界がもし100人の村だったら
⇒ 『日本がもし100人の村だったら』 池上彰著・協力 池田香代子(マガジンハウス)
「自分よりも貧しく劣悪な環境で生きている人々」と比較することで「自身の幸福を確認する」、というような他者との比較など無意味で不毛です。そういうことを言いたくて↑のような動画を紹介しているわけではありません。
そうではなく、「殆ど全ての人々に衣食住があり教育があり、そしてインフラが整い、豊かな自然があり、さらに治安が良く、仕事もある」という、「我々にとっては当たり前」の、「そんな国」を造るということは並大抵のことではなく、
長い歴史の上にようやく辿りついた結果であり、本来の生き物の自然状態での生活環境に対して、非常に特殊な次元の恵まれたものである、という事実の再確認です。
と同時に、それを生み出すために、先んじて発展した先進国のホモサピエンスの歴史を見れば、それは発展だけでなく同時に多くの悲劇を生み出したことも事実です。
「人類が今までやってきたこと」、「現代社会を支えている負の力学」には様々な種類がありますが、そのひとつとして自然破壊・他の生命の犠牲があります。その現代社会の姿を、イギリスのアーティストが3分間の風刺動画で表現した作品「MAN」を以下に紹介しますね。
MAN
そして自然や他の生命だけでなく、過去・現在の先進国側の負の力学の影響にさらされ続けるホモサピエンスたちも世界に大勢いるわけですね。途上国の中でも下の層は、「世界の2・6・2の法則」での下位の役回りに固定されて抜け出せない状態なのです。
その自我の総合運動の結果としての今の世界の姿をこの動画に見る、ということです。そして誰もがその時代の社会に限界に制約され条件づけられて生きているんですね。
「引き算目線」と「足し算目線」
常に「理想の自分」に対する「現実の自分」の「引き算目線」で評価する場合、「あれもこれも不足」しているかのような自責心理のプレッシャーで自分自身を委縮させていきます。
まぁ骨太でマッッチョな自我・気質を元々持っている子供の場合はそれでも跳ね返し、ブイブイ進んでオラオラ~って元気よく闘争して成長していくでしょうけど。
繊細で優しい自我・気質の子は、「引き算目線」ばかりだと委縮して、強迫観念的に過剰適応して無理に合わせて頑張っていく傾向があるので、抑圧過多になって自己分離的になり、ストレスの限界点で壊れてしまうことも実際にあるわけですね。
なのでそういう場合は、「現実の自分、本来の自分」が前進・達成できた「ささやかなこと」を「足し算」して自己肯定感を高めていく方が良く、良いものを伸ばしやすいでしょう。
また、自分に対しての目線ではなく、他者・外側の世界に対する目線の場合も同じで、「理想の現実・他者」に対する「現時点の現実・他者」の「引き算目線」ばかりで評価する場合、
「あれもこれも不足」しているかのような他責・不満の否定的心理になり、現実・他者との関係性の可能性や理解力を狭め委縮させていきます。
他者が誰一人あなたにそうしない環境下でも、「自分だけは自分に対してそうせず」に、「足し算目線」で自分自身を見つめてあげ、ほんの小さな、ささやかな前進や変化・成長を認めてあげるようにすると、自己を完全に見失わずに済みます。
同時に、他者が誰一人「世界・現実・他者」にそうしない環境下でも、自分は「引き算目線」だけでなく「足し算目線」でも同時に見つめているバランスを見失わないのなら、「世界・現実・他者」の前進や変化・成長にも気づき、その肯定的側面を見落とさずに済みます。
「世界・現実・他者」を「引き算目線」ばかりで見る人は、自身が前進や変化・成長していこうとするときに自身の「引き算目線」に遮られます。自身の外への眼差しが自身の内にも投影されるからです。
なので前進や変化・成長・創造していこうとするときは、まずは自分自身、そして「世界・現実・他者」も含めて「足し算目線」で見つめる視野も必要なんですね。
「当たり前」と日常の中にある豊かさ
見方を少し変えれば、今私たちに与えられているものは物凄く多いですよ。その無形の「当たり前の財産」をどう生かし、自身の生に工夫して取り込み用いるのか、
そしてその試行錯誤の機会や選択の機会は、誰かに与えてもらうようなことではなく、学校で学ぶようなことでもなく、感性に素直になって見つめて学べば、実は日常の中に色々あるんですよ、気づかないだけで。
先進国に生まれればそれは当然のことで、人は最初からあるものは「当たり前」と思い込み、ないものを求める傾向がある生き物です。
それは向上心やさらなる発展へ向かう原動力にもなりますが、同時に「ただ在ることの喜び」「今在るものの恩恵や素晴らしさ」を忘れさせることもあります。
人は地上の動物の一種でありつつ、社会化された仮想現実空間でも同時に生きているため、「毎日食事があり、綺麗な水があり、寝る場所があり、便利な生活インフラがあり、自由に行動出来て五体満足で生きていること」へのシンプルな喜びを忘れやすい生き物です。
「あれもこれも足りない、ここもあそこもおかしい」とそればかりの「引き算目線」ばかりでは、今私たちには何が与えられているのか?それが生み出されるまでにのどれほどの歴史・時間・労力を必要としたか?を見ない人は、
「そんなものあって当たり前」のように感じ、「今ここにないもの」ばかりを求め、それが得られないことだけに囚われ嘆き批判し攻撃し続けるわけですね。
もちろんこれは「現実がそのままでいい」「改善すべき問題は何もなく、ただ感謝さえしていればいい」などという短絡的な意味ではありません。私も「負や影の部分」をこのブログで沢山考察はしていますが、全てがそういうものばかりだとは思っていないんですね。
私は生や人への憎しみの感情から「負や影の部分」を分析しているわけではありません。私は日本が好きですし、何だかんだいって日本がやっぱり一番いい、って自然にそう思うただの日本人です。
とはいえ「クールジャパン」の流れに乗って、「日本好き」みたいなことを書きたいわけでもないのです。ただ年々、「この国は色々問題もあるけど、やっぱりいいなぁ凄いなぁ」って自然にそう思う、ただそれだけなんです。(^-^)