「パーソナリティの病理の多元性」防衛機制と自己の発達  未熟から成熟へ向かうために      

 

今回は前回の記事の補足ですが、H・コフート自己心理学やその他のアプローチに入る前に、「次の防衛機制」を中心とした「心・精神の病理」の分析と、自己成長のために必要な「次の防衛機制」などをテーマに記事を書いています。

 

記事が長くなり過ぎたため前篇後編に分けました。後編

 

まず、フロイトの「防衛機制」を発展させ、より細かく詳細な分析理論を組み立てた「メラニー・クライン」の病理論・ポジション論と、クライン派の対象関係論と自我心理学を統合したオットー・F・カーンバーグの自己と対象の発達モデルを先にシンプルに説明します。

 

メラニー・クラインに関しては「原罪=罪悪感の起源」に関するテーマでまた書くので、その時に詳細に書くつもりです。今回はパーソナリティの病理、精神病的な症状の起源と過程がどこにあるのか?というところをサクッと書いています。

 

 

幻想的無意識」と「部分対象関係

 

クラインはフロイトの「自己保存本能の二元論」による、生の本能(エロス)死の本能(タナトス)が幼児の「幻想的無意識」の中にあるとしました。

 

そしてクラインは、幼児が母の全体性をまだ理解できない初期の頃、その瞬間瞬間での満足(快)と不満足(不快)で部分的に対象認識しつつ結びつく関係を「部分対象関係」と呼びました。

 

いかなる人間も生まれる(=創造)ことにより世界に出現し、そして生理的システムの恒常性(=維持)によって生命が保たれ、そしてやがて老い、死にます(=破壊)。

 

この「創造・維持・破壊」のサイクルは自然界の生死のサイクルです。エロスは「維持・保存」「恒常性」に繋がり、タナトスは「破壊」に繋がる生命の力学なんですね。

 

妄想-分裂ポジション

 

この原初的な生命の破壊性の力学に関しては、また次回のテーマで詳細に書くとして、生後4~6ヵ月頃の乳児の発達段階では、母という外部存在はまだ「部分対象」としてしか認識出来ないために、

 

不快」は「悪・敵」とされ、「その瞬間」において対象は「破壊すべき対」と認識され、逆に「」は「良い存在」とされ、「その瞬間」において対象は「完全で理想的な対象」にされます。そしてこれが「妄想-分裂ポジション」を形成します。

 

発達早期における母子の関係性をとても重視したイギリスの小児精神科医・精神分析家であるD.W.ウィニコットの発達段階では、クラインの「妄想-分裂ポジション」の形成期は「絶対的依存」といわれる時期に該当します。

 

そしてウィニコットの発達段階では、絶対的依存期での「母性愛の不在」「保護の欠如」は「破滅不安」を引き起こす可能性、そしてそれが後の深刻な精神病理やパーソナリティ障害を引き起こす原因になる可能性を指摘しています。

 

「妄想-分裂ポジション」は「極端で分離的な善悪の二分法的な認知の根源」ですが、幼児期に現れるこの心理現象はプロセスとして正常です。問題は成長後に「退行」し「妄想-分裂ポジション」に陥る人です。

 

これは無意識領域でもかなり深い部分から引き起こされているパーソナリティ障害のケースに当てはまると考えられます。そして現代社会において、そのような深い退行による病理に陥る人は増えていると分析されます。

 

抑うつポジション

 

そして「妄想-分裂ポジション」の次に現れるが「抑うつポジション」です。これはウィニコットの発達理論では「移行期」「相対的依存期」にあたります。

 

この「抑うつポジション」時期というのは、それまで「快と不快」に分離していた「部分対象関係」だった母が、実は「快と不快を同時に内在したひとつの全体」であった、ということが徐々に理解出来てくる「全体対象関係」への移行期で現れるもので、「罪悪感の起源」になるものです。

 

罪悪感のテーマはまた次回に書くとして、「妄想-分裂ポジション」は「被害・他罰的な心の起源」であり、「抑うつポジション」は「罪悪感の起源」であり、「現実受容・他者肯定的な心の起源」であると言えます。

 

心が現実を受容する時というのは、「全体対象関係」、つまり全体性として対象を捉える時であり、「全体的なもの」を自身にとっての快と不快で「部分要素」に過剰に分離させた場合は、「過剰な肯定」か「過剰な否定」のどちらかに傾くわけですね。

 

躁的防衛

 

そして「抑うつポジション」は「償い」=「心の痛み」を味わう大事な期間でもあり、この時期に「痛み」を和らげる防衛機制として「躁的防」が現れますが、これは過剰な痛みから心を守るために必要な防衛機制でもあります。

 

そして「躁的防衛」は「心の痛み」を伴う時の「自己正当化・自己防衛の起源」でもあります。この時期をクリアし、統合することで、人の痛みがわかる、思いやりのベースが形成されますが、

 

過保護で甘やかし過ぎると「抑うつポジション」を達成できず、成長後も未熟な部分対象関係的な自己愛構造が勝ることで、「心の痛み」を伴う「償い」はただの「不快」な部分とされて分離・排除され、「快」のみでいられる自己正当化へ向かうわけですね。

 

なのでウィニコットが「ほどほどに厳しく、ほどほどに優しい母」というのは、「快・不快」のバランス=「満足とストレスのバランス」が自然でよく、

 

結果、「妄想-分裂ポジション」にも固着させず、「抑うつポジション」もキチンと達成されることで、成熟した「全体対象関係」の発達段階へと昇華・統合していくわけですね。

 

➀「破壊的・暴力的な親」の場合 ⇒「妄想-分裂ポジション」に固着する可能性

➁「過保護・過干渉な親」の場合 ⇒「抑うつポジション」を達成できない可能性

 

↑ これによって質の異なる病的な「自己愛構造体」を肥大化させていく可能性が考えられます。自己愛性パーソナリティ障害者が健康になるためには「自己愛的な部分対象的関係」に止まるのではなく、

 

痛みを伴う全体対象関係」においてシッカリと「心の痛み」味わい達成・統合するという、健全な発達方向への軌道修正が必要、ということですね。

 

構造や意味は異なるのですが、コフートの自己心理学においても、健全な自己愛発達のためには、「適度の欲求不満と規範・理想を与える親保護者)」の存在が必要とされ、ウィニコットの「ほどほどに厳しく、ほどほどに優しい母」とも重なりますが、

 

それはコフートの分析では「自然で適度の満足と欲求不満」が「変容性内在化」を生じさせる、というものなのですが、これに関してはまた次回に書きますね。

 

では、以下にクラインの対象関係論をスッキリとまとめた図の引用紹介と、ここまで書いた内容をもう少し詳しく具体的に説明している参考PDFを紹介しておきますね。

 

 

引用文献:岡田尊司:パーソナリティ障害 ―いかに接し,どう克服するか.PHP研究所, 京都(2004)

 

 参考PDF ⇒メラニー・クライン(Melanie Klein 1882-1960)

 

 O.F.カーンバーグ

DSM-Ⅳ-TRでの境界性人格障害(BPD)の病理構造と診断基準は、O.F.カーンバーグによる「境界人格構造」を元に作成されたものです。カーンバーグの自己と対象の発達の5つのステージは、大きな構造としてはフロイトやクラインと大体同じものなのですが、

 

カーンバーグは、「全体的な対象表象に統合する段階」の第4ステージでの達成の失敗が「境界性人格構造」を残し、それが後の病的なパーソナリティ発達になると考え、

 

そして彼はコフートの「自己心理学」の「自己愛の捉え方」とは決定的な認識の相違があったため、論争が生じたのですが、コフートの捉え方は、それまでの「自己愛」に対する固定的で支配的なフロイトの概念・自我心理学とは異なるものだったことは、過去記事で書きました。

 

そしてこの分野の性質上、それぞれに分析の切り口や定義に大小の差異がありますが、個人的には、それぞれに「部分的な説得力と部分的な違和感」が同時に感じられ、不完全だと感じますが、

 

これは理論的に、というよりも体験的になんですが、私はコフート的アプローチが有効に作用する、とリアルに理解できる部分があるので否定できませんし、

 

また、カーンバーグのコフートへの批判の言わんとすることも感覚的にわかる部分があります。つまり理論的にはどちらも不完全ですが、

 

「部分的に真実のリアリティとしての断片を含んでる」という実感を得られる点では、他の精神分析学や心理学と同じなんですね。そして集合知を結集させ考察の偏りを補い深めることで徐々に全体像が見えてくる感じですね。

 

 参考サイト ⇒ オットー・F・カーンバーグ

 

引用文献:岡田尊司:パーソナリティ障害 ―いかに接し,どう克服するか.PHP研究所, 京都(2004)

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