透明感・波動と素晴らしい歌手 「心・技・体」と「守・破・離」
今日は「ある素晴らしい歌手」を紹介しつつ、「透明感・波動」について少々と、他に「能力・才能を現実的に高め開花するためにどのような基本姿勢が必要か?」というテーマを「心・技・体」と「守・破・離」の概念から考察した記事を書いています。
「心・技・体」と「守・破・離」は何となくわかるとしても、「透明感・波動」とかって一体何でしょうか?そんなものに意味や効果、影響力があるのでしょうか? まず先にこのテーマから入りますが、
例えばここに二人の歌手がいて「同じ歌謡曲」を歌うとします。一方の歌手は 物凄い人生経験があって、その歌の歌詞の世界も実際に経験済みで、でも「透明感」がなく波動は荒く、歌は普通にプロレベルに上手いとしましょう、そして表情はとても豊かで感情的に歌詩の世界に入り込んで陶酔的に一体化して歌うとします。
そして一方の歌手は、まだ子供で人生経験もなく、当然その歌の歌詞の世界を実際には知らない状態、でも「透明感」があり、波動は繊細で、歌は普通に上手いとしましょう、
そして表情はあまり大きく変化させず、感情的にではなく歌の世界観を相手に伝えるために、「ひとつひとつのコトバ」を大事に丁寧に発音しシッカリ伝えるように歌うとします。
「アメリカ流」に考えれば、前者の感情移入型の歌手の方が人に想い・心が伝わる、届くように思うはずです。波動が悪かろうが透明感などなかろうが、「自身が経験があることを全身で感情的に伝えようと深く一体化したアクションで歌う」わけですからね。
ですが、実際は必ずしもそうではありません。もちろん相手(聴く側)の状態によってはそれで響くことはあるでしょう、ですが人は、音・コトバを耳・脳だけで聴いているわけではなく、表現を肉眼だけで見ているわけではありません。
そのコトバを発する人の波動・状態を無意識で感じ取っているため、人は他者の感情表現・詩的表現の奥にある「心」を「身体」で聴いて(感じとって)いるのです。歌詞や表現力やメロディーだけを観ているのでも聴いているのでもないのです。
ではここで、先ほどの「後者の方の歌手」の実例として、ある歌手を紹介します。ブラジルで大人気ののど自慢番組で一躍有名となった日系ブラジル人少女の山下ヤスミン(十歳)。今、日本でもネット内で徐々にファンが増え続けています。
まだ十歳の彼女は「大人の男と女の恋心」や「大人の人生の悲哀」など全く知らないわけですが、どうしてここまで心に響くのでしょう。
人が心を打たれる時、それは「脳」だけではなく「体」に響いているんですね。(これは東洋思想的・感性的な主観的アプローチからの分析ですが、今日はこの角度から書いています。)
それは「ハート」で聴いている時に起きます。身体の心(ハート)は脳と連動はしていますが、脳とはそれぞれ別に感受する感性を有しています。彼女の意識には「透明感」があり、波動が繊細であるため、その波動は意識の深い部分に届きます。
そしてその上で「心を込めたコトバ」を丁寧に発音し、その美しい「型」を通して相手にシッカリと「歌の世界観」を伝えようとしているから、人の「脳」と「身体の心」の両方に響くのです。
もちろん、感性・感受性は人それぞれですので、相性やその時の状態によっても「感受の仕方」は異なるため、誰が聴いても絶対そうなる、というようなカッチリしたものではありません。ですが素晴らしい歌手ですので、以下に5曲続けて動画を紹介しています。
日常のとても身近なところにあるもの
欧米的な「露骨、赤裸々な感情表現」ではなく、「型」から伝わる「身体の心」の美と趣、というものが日本の表現世界には存在します。
そして一見静的で「本心が見えない」ように感じる日本の伝統的な深い表現の中には、「身体」と「心」が融合した「心身一如」が「そのまま」顕現化しているのです。
日本という国は不思議で、実は日常のとても身近なところに、「研ぎ澄まされた見本」が当たり前のように「そのままの形」で存在していたりするわけですが、それにどれだけ深く気づけるか、ということでしょうね。
「世阿弥における花の概念について~能が何を表現しているのか~」 より引用抜粋
世阿弥能楽論には体と用という概念 がある。用は肉眼で見えるが体は心眼で捉えるものであり、用は体に伴って存在する〔「体・用事」P.149-151〕。
これを闌位と関連付ければ、体とは演者の内に秘めた心であり、用はその演者が演じることにより醸し出す趣であるといえ、この心と趣は一心同体である。
さらに「…懸ハ、体ニ有テ用ニ見エタリ…」〔P.152-153〕より、芸とは体から発せられる趣(懸)と言い換えることができ、この趣の美は体として存在し用として現象する。
すなわち能楽という芸能は、演者の心による趣(現象)であるため感じ取るものである。ゆえにこの趣は、演者が心により表し観客は心によって感じる能楽の面白さと表現できる。
花と面白さは同様であるから、この趣は花と置き換えることができる。そうすれば、花は見るものではなく感じるものであるということになる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ PDF 世阿弥における花の概念について~能が何を表現しているのか~
「ただの我流」の人は最初から「オリジナリティ」のみに固執します。例えば「個性を大事に」とか、「創造性を伸ばす教育」とか、まぁ巷でよく聴きますが、
そういう話を聴いてよく思うことなのですが、「ただの我流」と「天才」「達人」はイコールではないのに、一緒くたにしてないか?と思うんですね。
「個性」やら「創造性」やらの教育が「最終的に何か上手くいっていない」のは、最初から「オリジナリティ」ばかりに向かい、「ただの我流のままに止まっている」からだと思うんですね。
例えば「天才」と「達人」の姿が重なることはもちろんありますし、「天才」と「達人」が共に「オリジナリティ」や「創造性」を有しているのは確かですが、かといって、
「オリジナリティ」や「創造性」さえあればそれが「天才」「達人」に向かう道なのかとういうと、その公式は成り立たないのです。「天才」は先天的なものが優位の能力の高さで、「達人」は後天的なものが優位と仮定すると、「ただの我流」はどちらも優位ではありません。
そして「オリジナリティ」や「創造性」だけを言われて、「ただの我流」から一歩も出ない人々は自己肥大に向かいやすく、結果的に「現実自己」を成熟させることができないこともあるのです。
そのため「淡々と技術を身につける普通の人」よりも能力・社会的可能性が低くなるという残念な結果すら、受け止めることが出来ない、ということになるわけです。
「心・技・体」と「守・破・離」
では、天才は先天的なものが優位なので置いといて、「達人」、あるいはそこまでいかなくても「普通に優れた能力」というものはどのように育っていくのでしょうか?
それを 「知・情・意」と「心・技・体」と「守・破・離」で見ていきましょう。「知・情・意」=心(精神)です。 そして「知・情・意」がバランスすることで、調和した健全な「心」として統合され、
「心・技・体」は、調和した心(知・情・意)をベースに、「技」=「それぞれの分野の技術」を磨き、「体」=「身体力」によって「心・技」の調和した働きを実現させる、わけですね。そして「知・情・意」=心(精神)の更新・変化・成長は、「技」のポテンシャルを底上げします。
そして「守・破・離」というのは、茶道、武道、芸術等において広く使われる概念でもあります。「道を極める過程」「師弟関係」などでよく出てくる概念で、伝統文化などの習得に限らず、様々な分野での「技・体」の更新・変化・成長に必要な過程です。
まず「守」によって「技・体」の専門的能力を高めます。つまり「型」の修練・鍛錬・努力によって、ある特定の技能を「板に付く」まで身につけるのです。師匠・先生の指導、「型を守る」ところから、学びと技能習得のための修行が始まるのですね。
「破・離」というのは、シッカリと身に付いた「型」を、次は自分自身の感性や能力によって創造的に研究し、さらにより良い型をつくるために型を「破る」わけですが、それは全否定・根本破壊ということではありません。
そして「知・情・意」=心(精神)の変化・変容が生じない=「硬直した統合状態にある心」は、「型」の習得までしか行けません。
「型」を破り、それ以上に創造的なものを打ち立てるには、心(精神)に自由と柔軟性がある =「知・情・意」が伸び伸びと機能しつつ、調和的に統合されている状態、でなければ無理だからです。
なので、本当はそこを「教育課程」で重視することが大事なのですが、単にオリジナリティとか創造性とか、個性重視とか、現実を無視した漠然とした理想論しか言わないため、「ただの我流」を量産するに止まっているわけですね。
だから、「昔の日本に戻れ」というようなことを言われるわけです。何故なら日本人は「型」に非常に強く、その結果高いレベルの「守」の段階に到達してきたのです。それは素晴らしいことで、それが日本の強さのひとつの要素でしょう。
「オリジナリティとかいうただの我流」を量産するくらいだったら、高いレベルの「守」の方がマシなんですね。世界を見ても、日本ほどの高いレベルの「守」の段階に到達している国は少ないのです。
ですが、次の段階の「破・離」は創造的な過程であるため、「守」で求められる姿勢・能力とは異なるものが必要なんですね。
高いレベルの「守」があるにも関わらず、それに固執し、あまりにも保守的過ぎ、発想に乏しく視野の柔軟性や多様性にも乏しいために、徐々に硬直性が増し、先細りになっているのです。
そして「破・離」=「新たな型の創造」がなければ、あるいは乏しければ、人間・社会はやがては行詰まるんですね。確かに現在でも「極一部の人」はそれを破りさらに先に進みますが、
そういう人が非常に少ないという現実は、「個人の可能性の幅が狭く、創造的活力のレベルが低い社会」であり、同時にそれは社会自体の希望も低い、ということでもあるわけです。
「離」は「古きもの」と「新しきもの」が同時に「新しい型」の中に創造的に存在する=「温故知新」とし、 「古き型」から自由になり、その結果、「離」⇒「自在」=「達人」になることができる、ということです。例えば「能」で言えば、「観阿弥」や「世阿弥」のようなレベルの人ですね。
なので「ただの我流」は「オリジナリティ」とか「個性」とか「創造性」とか言う前に、まず「自己の再認識」=それぞれの分野において高いレベルのパフォーマンスを発揮する先達の「型」を「守」として徹底する、そこからスタートすることがまず必要です。
そして「自分の現段階での無意識の平均値」を超え、超えたところでシッカリ安定するまで、「心身に刻む」わけです。
これは「知識的に教えられて記憶する」ことではなく、身体化するほど深く学び身につける=「体得する」わけです。そして型の中に込められた知恵や意味を理解することです。
「オリジナリティ」とか「個性」とか「創造性」とかいうのはその後でいいのです。これは別に万人が「達人」にならなければいけないということではありません 。
ただ、「勘違いしたまま我流で終わる」のではなく、天才ではない一般人が、「普通に優れた能力」へと日々向っていくために必要な基本的姿勢、という意味なんですね。