「自己責任」の行き着く場所 親・子/ 教師 編
前回の続きで、「自己責任」の行き着く場所で、今回は「親・ 教師」 編です。
「自己責任」の行き着く場所 前篇
⇒ 笹井 芳樹 氏の自殺と「互いの首を絞め合う無慈悲化する社会」
親と子、古い世代と新しい世代、社会と個人、教育と教師、こういうものが、ただ互いの敵対・対立・分離を強める方向性にしか向かわないのであれば、それは「互いの正論」で「自己責任」の押し付け合いをしているだけの不毛なことです。
まずは作家のジェニファー・シニアによるTED動画から紹介です。
幸福は親には高すぎるハードル
書店の育児コーナーには圧倒されます。作家のジェニファー・シニアが言うとおり、それは「巨大でカラフルな、皆のパニックの象徴」です。親であることは何故こんなにも不安だらけなのでしょうか?
その理由は、現代の中流家庭の親たちが目指す、「幸せな子どもを育てる」という目標があまりに捉えどころがないからです。この歯に衣着せぬトークでは、より私たちに寄り添った達成しやすい目標が示されます。
以下の記事も今回のテーマと関連が深いので紹介しておきますね。
「良いお母さん」のレベルが高すぎる日本。働く女性は意識と行動をどうやって変えたらいいの? – 小紫恵美子 より引用・抜粋
非常に良い記事ですので、皆様には是非ご一読頂きたいのですが、特に心に響いたのは、「国民が豊かで幸せになるという目的のための施策にジェンダーを持ち込まないほうがいい」というところと、
「日本は『よいお母さん』のレベルが高すぎる」というところです。
■日本のお母さんに求められるレベルは高すぎる?
特に「日本は『よいお母さん』のレベルが高すぎる」という一言には、正直を申しあげれば、肩の荷が下りたような感覚を覚えました。
「やっぱり、私たち、頑張りすぎていた面、あるよね」という想いを持つお母さんたちも多いのではないでしょうか。
なんでこんなに完璧にやろうと頑張り過ぎるのか?それは「お互い様の精神」も「おおらかさ」も失い、そして「誰にも迷惑をかえてはいけない」+「自己責任」が過剰に押し付けられた潔癖症的な「過剰適応」の結果、ともいえるんですね。
ではここで私の好きな吉田拓郎の「唇をかみしめて」の女性ヴォーカルcoverを紹介します。この曲は私のずっと心に残り続ける昭和の名曲のひとつです。
社会の機能不全の「自己責任」 の行方
「誰に責任があるのか」、「親か子供か社会か教師か?」、「犯人は誰だ、あいつか、こいつか」、そうやって私たちは「機能不全そのもの」と取り組むことを見逃していくんですね。
教師・教育の問題はこのブログでもたまに取り上げていますが、それは全ての問題を押し付けるためではなく、「機能不全化した社会」の一部の負の力学として分析しているのです。
ですがこれも「問題の部分」が過剰に「自己責任化」されると、多くの「見落とし、すり替え、責任転嫁」が「無意識化」され、逆に本質が見落とされてしまうわけですね。
「つぶやきかさこ~生き方・働き方・考え方+旅」 より引用抜粋
教師だけが悪いのか?教師バッシングで凶暴化する生徒・親
教師の体罰問題が大きく取り上げられ、何もかもが教師が悪いという風潮があるが、ぜひ広く学校、教育現場の問題を考える上で、読んでほしいのが、現役教師が昨年夏に出版した「高校事件ファイル」和田慎市著だ。
非行生徒の厳しい教育指導ではなく、勝利至上主義のための、大人の自己満足のための体罰が横行し、かつそれを隠蔽しようとする学校が多いことから、今、教師体罰問題が大きな問題になっている。
また体罰問題だけでなく、生徒によるいじめ自殺が問題になり、これまた責任逃れ、隠蔽体質の学校のあり方が問題になっている。
それはそれとして大いに問題だが、すべて教師が悪いという風潮から、教師が指導に萎縮し、結果として、凶悪犯罪を行う生徒が増えても、「犯罪捜査」や「教育的指導」ができず、被害者生徒を泣き寝入りさせる他ない状況に追い込んだり、
また教師が悪いわけではなく、むしろ生徒が悪いのに、言いがかりともいえるモンスターペアレントが、「マスコミに訴える!」「体罰だ!」と騒ぎたて、余計に教師がろくな指導もできず、学校の荒廃が進んでいる実態もある。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)