「自己責任」の行き着く場所 「互いの首を絞め合う社会」
「自己責任」の行き着く場所のテーマの前篇です。今回は「笹井 芳樹 氏の自殺」と「互いの首を絞め合う無慈悲化する社会」をテーマに書いています。
理研の笹井 芳樹 氏が自殺しましたが、非常に優秀な科学者であり、残念なことです。笹井 氏の自殺の後、みなが「責任」が誰にあるかを「俺じゃない、私じゃない」、と「あいつが悪い、こいつが悪い」みたいな責任の押し付け合いで互いを否定しあっていましたが、
現代社会の「その姿」それ自体が原因の一つであることは見逃されいます。笹井芳樹氏だけではありません、状況・環境・立場はそれぞれに違えど、そうやって、「現代社会の姿それ自体の負の力学」にさらされた時、「人は生きることに疲れていく」わけです。
自殺するかしないかは、ストレスの大きさと本人のメンタルバランスや強弱の状態によりますが、
あのような「正論」を盾にした「無責任な悪意」の力学が何も建設的で生産的なものをもたらさず、むしろ社会の不活性化・個人への束縛と抑圧しか生まないものであることを問いかけているわけです。
「正論」を盾に、常軌を逸した無慈悲で理不尽な「自己責任」の悪意だけが存在に向けられる時、「自己責任」の行き着く場所は「生きることが存在すること」がすべて「罪悪」としかならない不毛な結果しか生まないのです。
罪を憎んで人を憎まず、それは存在自体を憎まない、という「視野の大きさ」であり、「知・情・意」がバランスし豊かに機能している時、人はこの「視野の広さ」と存在への慈悲心を共に持っているんですね。
本来、慈悲心は宗教の人が持っている心のことではないんです。カルト的な宗教人・スピ系の原理主義者は、組織的・思想的な利害関係の対立や思想上の定義によって、すぐに人を悪魔とか外道とかに区分けし、「ネガティブに区分けした側」に対しては容赦ありません。
こういうものは慈悲心ではなく、単なる観念的に操作された強迫観念的な行為であり、宗教的・思想的な認知的不協和の合理化です。
ですが、多くの人が「強迫観念的な硬直した自己統合状態」にある現代人は、その中でより固定観念の強い人は、カルト的な宗教人・スピ系の原理主義者と何ら変わることのない、「無慈悲で排他的な攻撃性」の原動力になる時があります。
そしてその力学が過剰に感情的な「無責任な悪意」となって誰かを追いつめる時、悲劇が起こるわけですね。
「理研の問題」を考える際に、「外野」の感情的なやり方には一切同調しませんでした。そういうことをすることによって「本質」は逆に見落とされ、
死ななくてもよかった、死ぬようなことではないことで、一人の優れた素晴らしい研究者があそこまで追い詰められてしまう、そういう方向性に向かう可能性・危険性もまたわかっていたからです。
冷静に問題点だけは指摘しつつも、ネガティブな「祭り」には同調しなかったのです。そして「過剰に攻撃しない人」が思ったよりも多くいたことに私はむしろ安心し、まだ社会は完全に機能不全化の末期症状にはなっていない、と思ったんですね。
過去記事 ⇒ 社会風刺とユーモア 動画 「抑止力強化」では人・現象の本質は変わらない
今回の理研の問題で「中心的な3人」の「周囲」には誰も目がいっていません。本当の悪人はね、そんなにマヌケじゃないし、真剣で真面目な人間じゃないんですよ。頭が非常によく抜け目なく決して捕まらないし、表でマスコミで徹底的に吊るしあげられたり、そういうヘマをすることはまずないです。
そしてさらに深い「悪」は目には見えず「特定の誰か」によらないものであり、それは「不調和な無意識の活動」が「意識されずに」解放されたときに起きます。これを「意図的に操る者」も存在し、そのための「心理操作の技術」もこの社会には存在します。
そういうものを巧みに使っている者たちが、メディアを含む社会上部に何食わぬ顔で「誰からも攻撃を受けない安全な位置」に存在することは確かであり、
また、そういう人々が権力組織の力を使いつつ、「操られている下の者たち」の「下働き」に支えられているという腐敗のスパイラル構造が存在することも事実ですが、
そのような理不尽な力学が存在するこの社会の中で、一方的に抑えつけられている人々が、心・精神のバランス異常及び自我の崩壊によって、自殺・逸脱行為に突き動かされる時、それは全て「自己責任」とされ、
それが社会の「腐敗・問題・原因そのもの」とされるわけです。もちろんそれも問題の一部であり、自我の負の運動の結果ではありますが、それはその行為に働いている負の力学の全体性から見れば、「部分」であり全体そのものではないのです。
このようなこと今までこのブログでは各テーマに分けて様々な角度から書いてきました。社会の力学、家族の力学、自我と無意識、そして遺伝や脳の機能、生物学的な進化の過程、理性と感性、などさまざまですが、
一般的な「自己責任論」に関しては、 杉田俊介氏が2007年に書いた「自己責任論」再考にほぼ集約されるとも言えます。「後編」ではもう少し深い角度からこのテーマを書いています。
「自己責任論」再考 文=杉田俊介 より引用・抜粋
長い間不安定な生活や貧困状態に置かれた人の多くが「悪いのは自分だ」「自分の努力や能力が足りなかったから仕方ない」という自己責任の念に苦しめられる。フリーターもそうだし、野宿者もそうだ。ぼくもそうだったし、今もそうだから、よくわかる。
自立生活サポートセンターもやいの湯浅誠さんによると、格差と貧困は違う。「努力や能力に応じた格差はよい」とはまだ言えるが、貧困は政治的社会的に解決すべき問題で、個人の自己責任の埒外にある(「格差ではなく貧困の議論を」『賃金と社会保障』2006年10月下旬・11月上旬号)。
雨宮処凛さんは繰り返し「ニートは全然悪くない。フリーターも全然悪くない」(『すごい生き方』ブログ)と言い切る。
湯浅さんも雨宮さんの質問に答えて「自己責任論は、自分のストレスや社会の矛盾を自分自身に向けさせる、もっともコストのかからない、もっとも安上がりに貧困を見えなくさせる手段です」(『生きさせろ!―難民化する若者たち』太田出版)と言っている。
実際、当事者運動のキーの一つは、社会から何重にも押し付けられた「悪いのは全部自分だ」という強力な思い込みを、当事者の心身からどう解除するか、にあった。
– 引用ここまで –
堅苦しい記事が続いたので、ここでちょっと、私の好きな吉田拓郎の曲「どうしてこんなに悲しいんだろう 」の弾き語りcoverを紹介します。しみじみとしていますがとても優しい暖かい歌です。弾き語りの素人さん、とてもいい味出しています。
以下「自己責任論」再考 引用・抜粋のつづき
しかし他方で、素朴な疑念が少しある。これらの言葉は、ある種の洗脳の意味を含んでしまう。それは「お前が悪い!/私がすべて悪い!」という洗脳に対する逆洗脳、戦略的な抵抗洗脳なのだろうが、「あなたは悪くない」「悪いのは社会だ」が洗脳的に作用する事実は動かない。
状況の逼迫はわかる。ぼくなりにわかる。しかし、個人の自由(自らに由って立つ)の価値を依然深く信じる限り、何か違う抵抗の言葉もあるのではないか、と思いたい。
(中略)
しかし、だからこそ、自分の生存を「何も悪いことをしていない」純粋被害者=「子供たちは怒って怒って怒っている」(佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』新潮社)のポジションに重ね、そこからスタートしてしまうと、やはり決定的に間違ってしまう、とぼくは確信している。
(中略)
大切なのは、「被抑圧者の日常とは、抑圧と被抑圧の重層的なかかわりの中で営まれていた」という加害/被害の多重性を洞察することだ。この感覚は、女性の生をありのままに肯定する、というリブのベース感覚と矛盾しない。自分はこんなにも苦しいが、純粋被害者ではないかもしれない。それを認めるのは本当につらい。切ない。でも、どうかよく考えてほしい。
いやぼくは考える。さもないと、ぼくらは権威主義の誘惑と連鎖(「君たちは悪くない」と言葉で慰めるばかりか、生活や所得を保障してくれる権威者への依存と盲従)を永久に断ち切れないからだ。
(中略)
ぼくは長い間、次の矛盾に困惑させられてきた。「人は自立しなければ生きる価値がない」(自由の価値)。「人はたんに生きているだけでよい」(生命の価値)。前者は正しい。後者も正しい。しかし両者は矛盾する。どういうことだろう。自分が不徹底に思われた。根本的に何かが間違っている気がした。しかし、ある時ふと雪解けのように気付いた。この矛盾と葛藤は自分の中で永久に消えはしない。
ぼくらは自己否定と自己肯定の間で無限に引き裂かれて構わないらしい。むしろこの悪循環こそが、ぼくがフリーター的生活・生存を強いられてあることの存在証明なのだから。
(中略)
すぎた・しゅんすけ/1975年生まれ。法政大学・大学院で日本文学を専攻。現在、川崎市のNPO法人で障害者サポートを仕事とする。著書に『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)。「自己責任論」再考