瞑想的癒し曲と詩
今日は「広橋真紀子」さんの動画を二つ、そして私が過去に書いた「存在の詩」を三つ紹介します。
「広橋真紀子」さんの動画は選曲・映像構成共に素晴らしいです。このような感性の細やかな映像作品を見ると、感動し癒されます。⇒ http://home.u02.itscom.net/iyasi/index2.html
癒しの音楽 広橋真紀子 彼岸 〜higan〜 Makiko Hirohashi
以前に紹介した「存在の詩」も今回紹介する詩も、もうずっと昔(十年以上前)に書いた詩です。現在もたまに詩は書きますが、それはまたいつか紹介しますね。
「関係の詩」
空は無限に変化している..
秋が来て 肌にあたる風は涼しく 木の葉にあたる日光も 淡い反射光を放っていた 心は確かにそこにあって そして見ることの出来ない形なきもの
心はまるで大空のかけら 空に変化が訪れる まるで瞬間に染まるかのように 変わり目もわからず それは運動していた かけら同士がただ共感を持つ時 強制も感化もなく 同じ空がただ広がっていた
傷つきやすさは生きている姿 簡単に見失われた関係の詩 そして見失うと同時に始まり発展する 複雑な姿
「見過ごされる詩」
見つめる意識によって 同じ対象の姿が異なるように 心理の投影は「姿」をどんな意味にもねじ曲げる
正当化と自己防衛の深みは 発狂するほどの自己欺満の無限連鎖と 虚像の地層を形成し 日々慣性的に受け入れ 繰り返された日常と合わさり 堅固に一体化する
まるで無限に姿を変えながら生きるウイルスのように 同じものを違うもののようにしながら それ自身を維持していく
「殺す」というただそれだけの姿も 「奪う」というただそれだけの姿も 「虚無」「不毛」というただそれだけの姿も
蓄積し絡み合った集合意識の強力な「意味」と「置き換え」のシステムに飲み込まれ 包み込まれた「条件づけられた私たち」が見るならば ぞっとするほどの生々しいリアリティーに直面することはない
そしてそこにある姿は ごく限定された形に解釈される そこに見逃された姿がどれほど想像を超えていたとしても それを感じることはない
香-INCENSE-より 月桃〜はかなき夢〜 広橋真紀子
「風の道」
膨大な時と エネルギーの絶え間ない運動に強められた時間の中心軸 強められた無数の「自分という観念の核力」
強められた無数の私たちの思考が敷いた 果てしなく互いに分離した「私たち」の道
がっちりした冷たい肺で 精力を吸い 生を吐き出しながら カチカチに枯れてく姿 風はそこに吹かない
創造性を持つ自由が訪れないなら 放縦と規律に捕らわれる
ありのままの姿を見つめることなく 理想と向上に向かうなら 断片化された心は 複雑な日常に日々複雑化され 重く蓄積された記憶を 複雑に投影した今を見るような日常に疲労し
変化があるようで変化のない様々な形の矯正に 時間を埋めるように生きることで すべてを含んだ現在の輝きを見落としていく
虚ろに 猛々しく 冷えていく虚像の群に従うことなく 結論のない視線が道なき道を見つめる ありのままは風の道を定義されない姿のままに ただ歩む
リアルの全体性
生は詩であり禅であり、学びであり遊びであり、生は形があり無形であり、生は有限であり無限である。生は輝きであり影であり、生はリアルであり夢である。
生は厳しく残酷であり、生は暖かく優しくある。生は矛盾し理不尽であり、そして美しい詩である
「同じひとつのリアル」の見え方が千差万別なのは、それに何が投影されるかの意識の内容と状態の相対性による。
「リアルの全体性」の「何が捉えられ何が見過ごされ見落とされるか」は、意識の明晰さ深さと広さの相対性による。