三体問題 クォンタム・セルフと「制度化された時間」
「受命(じゅめい)」「随命(ずいめい)」「遭命(そうめい)」は、中国の古代思想における運命の三つの側面を表す概念です。これらは「三命説」として知られています。
受命: 人の寿命を指します。生まれながらにして定められた寿命のこと。
随命: 因果応報の考え方に基づいて、良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果がもたらされるというもの。
遭命: 善行を行っても不幸に遭遇するなど、行動と結果が一致しない、因果の一致しない運命を指します。
「偶然性」というものは「遭命」の領域です。
「現代社会システムに適応的で、育ちがよく能力が高い人」は、「因果応報」の考え方に基づいて「地獄に落ちるぞ」とか今更脅されなくても、犯罪はまず犯さないだろうし、自然と「良い結果」に向けて努力するため、
宗教的な文脈における「随命」はあまり意識せずとも、「偶然性によってもたらされる不運」としての「遭命」は意識されます。それは努力ではどうしようもない、避けようがないものだからです。
「○○ガチャ」も遭命の領域ですが、その多くは何らかの資本に恵まれているかそうでないかを基準にしています。「○○ガチャ」は「仮説的必然」の文脈で語られますが、それ自体は「仮説的偶然」です。仮説的必然を遡ると最終的には「原始偶然」に至るからです。
九鬼周造 氏は、「他でもありえた」という根源的な偶然性を「離接的偶然」と呼び、「原始偶然(シェリングの概念)」が、その存在根拠をそれ自身のうちにのみもつという「自因性」のゆえ、「形而上的見地」からそれを「必然」と捉えます(経験的見地からはあくまで偶然)。
これは「自因性」のゆえに「必然」ということであり、しかしそれ自体では何ら「現実性」をもたない「無」であるということ。
「形而上的絶対者」は、それ自身としては一切「現実性」をもたない「無」でありまたそうであるがゆえに、あらゆる「可能性」を含蓄した無限の「多」である 九鬼周造
絶対性の否定としての相対性、唯一性の否定としての多元性を主題とする宗教的多元性の問題はまた、必然性の否定としての偶然性の観点からも考察される必要がある。本論文は、九鬼周造の『偶然性の問題』(1935 年)を中心とした〈偶然性の哲学〉から、宗教的多元性の哲学的背景を考察する試みである。
九鬼の偶然性をめぐる分析は、〈宗教〉という一般概念に対する「個物あるいは個々の事象」としての個別宗教の偶然性(定言的偶然)、各個別宗教の発生にまつわる偶然性(仮説的偶然)、そして或る個別宗教が「他でもありえた」という根源的な偶然性(離接的偶然)として解釈されうる。九鬼の思索は、最終的に、この「他でもありえた」という「可能性の全体」としての「形而上的絶対者」に行き着く ➡ 偶然性の問題と宗教的多元性 ―九鬼周造の思索から―
話を戻しますが、不運な人や、資本の乏しさに苦しむ人が「遭命」を強く意識し、それを社会の範囲における努力では解決できないか、相当に難しい時、「宗教」による別の「受命」と「随命」の解釈に人生の意味をスライドさせ、「遭命」を乗り越えようとすることがあります。
これは、別に宗教に依らずとも、人は何らかの「物語化」によってこれを行う、という意味ではごくありふれたものです。
宗教は「遭命」によってはじまったともいえ、そして「遭命」を超えようとするが、根源的には超えられない。その結果、現代では、「より確率的な必然性(随命の領域)をコントロールすることにより上手くいく合理的な生き方」の方が広く選択される。
しかしその生き方も根源的なものを超えることはできないゆえに、「自らの人生の問題はたいていのことは解決可能な、能力や関係資本に恵まれた人」であっても、それどころか安全な環境にいればいるほど「遭命」が強く意識されるようになり、
その結果が「管理社会」を加速させる力学にも繋がっていますが、それはさておき、確率とか合理性を超えている予測不能な力学という「神秘」は残り続けるということ。「神秘」とは「神」の「秘密」と書く。どこまでいっても「隠された神」は存在し続ける。
「三命」という三つの力学は、意識されるされないに限らず人の生に作用し続け、人生を非常に複雑なものとしています。そして「三つ」の力学が同時に作用しているときというものは、「二つ」のときとはまるで異なります。
三体問題は、古典力学における重要な問題の一つですが、二体問題から三体問題への移行は、単に物体の数が一つ増えただけではありません。
相互作用の複雑性、非線形性の増大、自由度の増加、そしてカオス的性質の出現により、問題の性質が根本的に変化します。これが、二体問題と三体問題の間に存在する「複雑さの壁」の本質です。
〇 400年の未解決問題「三体問題」はなぜ難しいのか?一体問題、二体問題との本質的な違い「絡み合う数式」とは
多元主義によって我々は我々自身の偶然性・有限性に気づく (キリスト教神学者・宗教哲学者 R・パニッカー)
「社会の最小単位は3人から」と言われますが、社会の複雑さもある種の「三体問題」とも表現できるかもしれません。そういえばタオイズムでも 「1から2が生まれ2から3が生まれ3から全てが生まれた」というような考え方があり、万物は三元性から生じるということです。
まぁ事実、「私」たちも「3次元世界」に生まれたように、次元が最低三つはないとこれだけ複雑な世界は作れないということでしょう。
ところで、「脳」において視覚情報を処理する際に「2次元の情報を3次元の知覚として再構築する」わけですね。両眼視差(左右の眼に映る像のズレ)や運動視差(移動による視覚情報の変化)などの手がかりを利用して、脳は3次元の世界を知覚します。
その意味では、「脳神経」を1(起点)とした場合、「1から2が生まれ2から3が生まれ3から全てが生まれた」ともいえます。
ではここで一曲紹介♪ 映画「インターステラー」のサウンドトラックをピアノで演奏したカバー曲です。ハンス・ジマー(Hans Zimmer)は、ドイツ出身の映画音楽作曲家であり、映画音楽の世界で最も著名な人物の一人ですが、彼の曲の中で一番好きな曲です。
中国の作家・劉慈欣によるSF長編シリーズ「三体」で、智子(ソフォン)なるものが登場しますが、そこでは量子力学や情報理論に基づいた存在として描かれています。
これをホログラフィック理論と関連付けて考えると、人間も智子(ソフォン)のように情報の集合体として捉えることもできます。
ホログラフィック理論はまだ仮説の段階ですが、宇宙が実際には3次元ではなく、2次元の情報が3次元に投影されたものであるとする理論です。この理論は、ブラックホールの表面に情報が格納されるという考え方に基づいています。➡ 意識は量子現象なのか?「量子意識理論」を支持する有力な研究結果が報告される
量子もつれは、離れた場所にある粒子が瞬時に情報を共有する現象です。意識もこの量子もつれを通じて形成されると考える科学者も存在します。つまり、意識は2次元の情報が3次元に投影される過程で、量子もつれによって統合されるということです。
クォンタム・セルフ
「自己意識の最小単位がファスト・メモリとスロー・メモリであることが判明-筑波大」 より引用抜粋
ギャラガーの提唱をきっかけに、これまでの認知科学的研究では、自己意識のミニマル・セルフ(主体の即自的経験)を身体所有感と自己操作感に区別し、それらの形成過程の違いや因果関係が調べられてきた。しかし、さまざまな事象が統一されることなく報告され、その背景にあるメカニズムが不明確なまま残されており、それが神経科学と自己意識の研究の接続にとってのボトルネックとなっていた。
しかし、今回のミニマル・セルフ形成のナラティブ性(時間的連続性・履歴性)に着目した新しい実験パラダイムによって、自己意識の最小単位(クォンタム・セルフ)がファスト・メモリとスロー・メモリであることが明らかにされた。
これまで認識されていた身体所有感と自己操作感の間の因果関係は、実際にはスピードの異なる2つの運動記憶が同時並行的に意識に登ることで引き起こされる、ある種の錯覚であると同時に、現象論的には脳内にファスト・セルフとスロー・セルフと呼ぶべき2つの異なる動的な表象(情報)が存在することが示唆された。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
ところで、植物は「光」を「食べて」、それをエネルギーに変える「身体」を持っているともいえますが、何を食べどのようにエネルギーに変換しどのように活動するのか、その種類が宇宙に無限に存在しうると考えた場合、
人間には想像もつかないような身体が存在する可能性があるかもしれません。しかも3次元世界ではないなら、それはさらに想像を超えるでしょう。そしてそのような想像を超えた身体にはどのような意識、活動、知性が生じるでしょうか? 「自己」とは「一体どのようにしてそうある」のでしょうか?
まぁ興味は尽きませんが、話を戻します。クォンタム・セルフの特徴は以下の通りです。
- 動的な自己感:
自己感を固定的なものではなく、常に変化し続ける動的なプロセスとして捉えます。 - 多層性:
自己感を単一の層ではなく、複数の層が重なり合って形成されるものとして理解します。 - 量子力学的アプローチ:
量子力学の概念を応用し、自己感の不確定性や可能性の重ね合わせを考慮に入れています。 - ファスト・メモリとスロー・メモリの統合:
即時的な身体感覚(ファスト・メモリ)と持続的な自己意識(スロー・メモリ)の相互作用を重視しています。 - 脳の大規模ネットワークの関与:
自己感の形成に、脳の複数の大規模ネットワークが協調的に関与していると考えます。 - 社会的文脈の重要性:
自己感が社会的相互作用や文化的文脈によって常に影響を受け、再構成されることを強調しています。
クォンタム・セルフの概念は、従来の静的で階層的な自己感の理解を超えて、より複雑で流動的な自己感のモデルで、この新しいアプローチは、自己感の研究に新たな視点をもたらし、より包括的な自己理解への道を開く可能性があります。
制度化された時間
明治時代以前の日本では、時間に対する感覚が非常に緩やかでした。職人が予定通りに出勤しないことや、依頼物が遅れることは日常茶飯事でした。正月の挨拶回りに数日を費やすこともあり、外国人からは「時間にルーズだ」と驚かれることもありました。
「過去・現在・未来」という時間の流れをどのようの捉えるか? 「時間感覚の多元性」、たとえばモノクロニック文化では、時間は直線的であり、計画や順序を重視する傾向があり、モノクロニック文化は西洋に起源を持つとされていますが、
この時間感覚は直線的な時間で、効率性や生産性を重視するため、一度に一つのことに集中し、厳密な時間管理が重視されます。そしてキリスト教とモノクロニック(単一時間観)にもいくつかの関連性が見られます。
ハイデガーの時間論などにもそれが見られ、そこでは「時間の多元的な質」が捉えられておりません。過去から未来へと一方向に流れるものとして一元的に捉えられています。
しかし、多くの非西洋文化では、時間は循環的であり、季節や自然のリズムに従って繰り返されるものとされ、一部の文化では、時間は人間関係や社会的な文脈に基づいて捉えられます。
道元の時間論は「有時」(うじ)という概念に基づき、時間を「今この瞬間」に見出します。これは、各瞬間が独立して存在し、過去や未来ではなく現在の瞬間に焦点を当てる考え方で、どちらかといえばポリクロニック文化の時間感覚に近いといえます。
ポリクロニック文化では、時間は柔軟であり、現在の瞬間に重きを置く傾向があります。
学校における評価システムは、時間内に成果を出すことを求めるため、モノクロニックな時間感覚を強化します。また、教育機関は生権力の場であり、「勉強」という形式の中に、時間の管理、空間の管理、行動の管理などのディシプリンが内在されています。
これらのディシプリンは、学生を「従順な身体」として形成する作用があり、フーコーの視点から見ると、これらのディシプリンは単に知識を伝達するだけでなく、個人の思考や行動を規制し、特定のフレーム内における秩序を維持するための手段として機能しているともいえます。
そしてこのようなものを社会では「真面目さ」と評価するわけですが、
「ある時間、空間、メンバーにおいて何が誰が優れているか?」というのは絶対評価ではなく、「その基準・設定ではそうなるよね」という相対評価でしかなく、あらかじめ方向付けられている。
しかし「相対評価を不真面目に捉える人」の方が、「実存において真面目」ともいえます。真面目だからこそ、お勉強的な相対評価を絶対化しない。
日本が太陽暦と定時法を導入したのは明治6年(1873年)のことです。それ以前の日本では、日の出から日没までを6等分する「不定時法」が使われており、寺社の鐘が時間を知らせる唯一の手段でした。庶民にとって、時間の認識は非常に大雑把で、1日を24時間とする概念もありませんでした。
しかし、定時法の導入により、1日は24時間となり、時間が分刻みで管理されるようになりました。これを促進したのが、社会インフラの整備と鉄道の普及です。鉄道は定時運行が基本であり、時間を守らないと大事故につながるため、発車時間に厳格な管理が行われました。明治政府は強権を発揮し、これを徹底しました。
日清戦争前後から、鉄道の輸送量が急増し、時間を守る運行が当然のようになりました。日本は路線の数が多く、複数の輸送機関を乗り継ぐ場合、発着時間がずれると目的地にたどり着けないため、時間精度を高める必要がありました。特に人口密度が高い日本では、輸送力を高めるために時間厳守が求められました。
このような社会的条件が整う中、明治維新からわずか40年後には、日本人の時間感覚は分単位になり、欧米人から見ても違和感のないレベルに達しました。
このように、「時間」の感覚というのは制度的・政治的なものであり、その質は西洋的な時間なんですね。そして「制度化された時間の外に出る」ということが、道元の時間論であり、「禅・瞑想」です。