「余剰」の喪失と「高級な嘘」

 

ジョセフ・ヒース 氏みたいな「言語性知能及び言語化の達人」は、ボクシングでいえばベンジャミン・ウィテカーみたいな磨き抜かれた技とセンスを感じます。ベンジャミン・ウィテカー最高です♪

 

 

 

「余剰」の喪失と「高級な嘘」

 

推し活」という囲い込みの力学は、SNSを使ってセルフマネジメントしつつ自己をブランド化し、ファンを獲得し、自身の作品を販売したり、仕事に繋げているクリエイターやインフルエンサーたち全般が、その濃度はともあれ、うっすら共有している「搾取」の手法でしょう。

 

「聖なる価値」に基づく推し活は、主観的には充実感に満ちているだろうから、ウェルビーング〔=幸福〕に繫がるという主張も理解できなくはない*3。しかし、やはり宗教と同様に推し活もまた、個人や社会にとって有害にもなり得るものだ。

実際どんな宗教であっても、宗教の信者は全般的に宗教に属さない者より健康で幸福度が高いというエビデンスはあるが、だからと言ってカルトも含めたすべての宗教が推奨されるべきではないのと同様である。引用元 柳澤 田実:消費社会の宗教、ファンダム・カルチャー 

 

 

しかし、必ずしも「パラソーシャルな関係(擬似的な親密さ)の構築を通じてファンの忠誠心を高める戦略」、「ファンの感情的つながりを経済的利益に変換する仕組み」だけが「囲い込み」ではありません。

しかもその手の「囲い込み」は制度化されたシステムのような権威や権力性は与えられてない場合も多い。その場合は全く「高級」ではなく、そして広く可視化されている現象という点で、よりマクロな範囲に及ぶ作用や深刻な根深さを持たないのです。

なので今回は、よりマクロ範囲に及ぶ「高級な囲い込みの力学」のほうにスポットを当てて書いています。

 

たとえばかつては「組織宗教」は権威・権力性を与えられた「囲い込み」でしたが、人文アカデミアにおける「概念」の流布と一般化のプロセスも、類似の構造を持っています。そしてそれは制度化されたシステムとして権威を与えられ、構造的な権力性を有しています。

 

 

「未来」を所有することで強い意思決定が可能になる、というのはその通りですが、能力主義社会、言語的知性優位社会において、「特権的なシステムに支えられた囲い込み」は、そのような力学の範囲にとどまりません。「言説の権力」はもっと多様な形で作用します。

 

リベラルな学者は、理に適った不同意と理に適わない不同意の境界線をゲリマンダリングする(恣意的に区切る)ことに熟達していく。そうして、自身の好む道徳的見解に反対する主張が、理に適っていない(つまり「一線を超え」ており、禁止の条件を満たす)ものとして分類されるようにするのだ。 ➡ ジョセフ・ヒース「反自由主義的リベラリズム」(2024年7月30日)

 

人文アカデミアの「概念」に囲い込まれた一部のルンペンブルジョワジーが、言説をメディア等で流布する形で一般人を囲い込み、シノギとして領土化していくという流れも、思想・イデオロギーにおける搾取の1形態ともいえるでしょう。

特定の学術概念を専門家が独占的に扱う概念専有の状況、メディアを通じて一般化された形で概念が広まる言説の流布の過程、そして特定の概念や理論を中心に形成される学問的影響力の拡大による知的領土の確立。このような現象を思想やイデオロギーにおける搾取の構造化とみなします。

 

 

衰退し死滅しつつある業界というのは「人文系」がまさにそうで、人文系学問の衰退は、確かに現代の高等教育や研究機関で見られる傾向です。

実用性重視の風潮によって、即時的な経済的価値を生まない学問分野への投資が減少し、就職市場との乖離によって人文系卒業生の就職難が問題視される状況において、人文系学者たちは自らの存在意義を主張するために様々な戦略を取っていますが、

しかしながら人文系学者による資本主義批判は、 資本主義システムの恩恵を受けながら、そのシステムを批判する制度内批判という矛盾だけでなく、批判的言説自体が市場で消費される商品ともなる現象によって、それ自体が資本主義を維持しているという矛盾構造を生み出し、

またサンデルの指摘するように、知的エリートは特定の権威システムを形成し、一種の資本を独占しています。そうでありつつ、「あたかもその外部を生きている」かのように啓蒙する矛盾、かつ、その手の矛盾や搾取を「指摘されにくい」という権威という立場の特権的な加護を受けつつ、それを継続するというアンフェアさ。

このように、「特定の言説を理解・操作できる能力が社会的地位と結びつく」という現象が、「文化資本の不平等」を固定化する構造になっています。

そして、文化資本の蓄積によって格差を生み出す主因でありつつ、格差についての言説の主体ともなるフリーエネルギーみたいな資本ループ構造によって、資本主義を積極的に進めつつ格差を固定化する張本人にすらなっていること。

そしてこの構造に対して本気で着手する気配が一切見えないにもかからず、社会問題等が起こるたびに何やら深刻な面持ちで「社会はどんどん悪くなっている!」「資本主義が悪い!」「ネットが悪い!」みたいな誰でも言える単純化された論理で世間に問いかけて見せることには余念がない。

それに加えて道徳的優位性まで纏って、さらに地位を盤石にする者も現れ、もはや「難攻不落の資本主義の要塞の主」になっていく。

そして、メディアのアジェンダ設定だけなく、SNSや書籍等においても、社会問題の定義や解決策の提示において影響力を持つ「言説の権力」を持つ者の言葉に偏る傾向によって、このフリーエネルギーは維持され続ける。

このように、「聞かれる者 / 聞かれない者」の選別においてすでに圧倒的な非対称性が生じているため、いつまでたっても構造は変わらず、ただ特定の者たちの言説が資本に還元されるだけの囲い込み構造を強化しているだけとなり、これでは「高度な搾取」以外の何物でもない、となるでしょう。

 

 

たとえば彼らのような人たちが「権威性・神秘性」や「魔術的なもの」を人文的なレトリックによって脱価値化・脱魔術化することも、同じく「資本をめぐる領土争いの一種」ともいえるでしょう。

脱魔術化を行う側が新たな権威を獲得、創出することで、再領土化へ向かい、またその批判的思考自体が市場価値を持つ商品となる「批判の商品化」は、一部の人文系のシノギのための得意芸といったところか。

結局のところ「資本主義そのものみたいな生」を送りながら資本主義を嘆いて見せたところで何の説得力もない、ということ。

それぞれの生が、「生き残るための資本を巡る競争」でしかないのであれば、「言語系エリートの権威性」=「資本性」を解体していきましょう、も同様に資本主義の闘争の文脈で成立し、闘争の対象となります。

そうならないように目を別の方向に逸らせる、というような特権の力と言語操作力もいかんなく発揮してきたとはいえ、しかしそろそろその効力は切れそうな社会的状況になってきました。

己の資本だけは死守しながら、「そのままでは勝てない対象」の価値は解体しつつ囲い込み、再領土化しようとする、このような自分たち(少数の者)に都合の良いだけの価値反転を行う言語系エリートの人文レトリックを非権威化し、どんどん骨ぬ抜きにしていきましょう、という流れに入っているということです。

サンデルの言説においても、まさにこのような知的エリートこそ、「芸術の権威性・神秘性」よりも大きなスケールで資本を独占する権威システムのひとつともいえるからです。

身体エリート、感性エリート、言語系エリートの中で、もっとも強力な「文化資本」による階層を生み出し、世界規模で多くの人々の人生の経済的水準にも影響を与えているのは、言語系エリートの生み出す能力主義に基ずく社会構造システムです。

 

人文レトリックによる行き過ぎた価値相対化によって、なにもかもごっちゃ煮みたいなった状態は、これから上を目指していく人にとっては下剋上のチャンスかもしれないが、脱魔術化によって何が失われたのか?は想像以上に大きな価値とそれに付随する文化の豊かさが骨抜きにされてしまったともいえるんですね。

「神は妄想である」のドーキンスですら、文化の核にある価値が失われそうな段階になってようやく「文化的なクリスチャン!」とか言い始める有様。 ➡ 著名な無神論者のリチャード・ドーキンス氏、自身を「文化的なクリスチャン」だと語る

 

マジョリティや労働者をまずは活気づけること、それを大事にしなかったこと、保守的なものを思慮浅く解体してきたこと、そういったものが少子化を加速させ文化・伝統を失わせ、学問を含む様々な「余剰」を失わせ、全体が先細りしていく中で、ますます「目先の金」「生き残ること」だけが価値となって社会は修羅化していく。

 

人口ボーナス・人口オーナス・教育ボーナスと「余剰」

たとえば日本は1950年代から1990年代半ばまで人口ボーナス期にあり、この期間に大きな経済成長を遂げました。一部の人文系のノスタルジックな嘆き、「古き良き文化の衰退」は、日本人の劣化とか社会の劣化とか、そのような人文的な意味での「良し悪し」の文脈に回収されがちですが、

本質は人文的な「良し悪し」の文脈ではなく、日本は1990年代から「人口オーナス」に陥っており、「人口オーナス」というのは働く人の数を子どもや高齢者など支えられる人の数が上回る状態を指しますが、

日本における「少子化の進展」は、1970年代半ばから始まったと考えられ、そして「少子化の進展」→「人口ボーナス」→「人口オーナス」という順序で進行していきます。人口ボーナスは、生産年齢人口の割合が高い状態を指します。

そして、「教育ボーナス」と少子化は密接に関係しています。

一部の人文系が「古き良き文化」とか思ってる時代は、「人口ボーナス」と「教育ボーナス」が重なるタイミングで生じた「豊富な余剰」に支えられた偶然の恩恵であり、嘆いているのは「人口オーナス」で必然的に生じてくる「余剰の喪失」ともいえます。

そして「余剰」を支えてきたのは、人文系が低く見がちな「マジョリティ」「哺乳類的な営み」、そのような保守的な力学なんですね。

よって、嘆いている人文系の連中こそ、「余剰」を支える側ではなく、それに支えられた「依存者」でありつつ、にも拘らず支えている側を批判してきたともいえます。

見方を変えれば、『「言葉」と「理屈」だけは御立派で、甘ったれてるくせに反抗的な学生』みたいな存在です。

ゆえに余剰が減ってくると、「ああ社会は悪くなった」「ああ生きずらい」と連呼し、かといって自らは哺乳類的な営みによってそれを支えようともせず、消費者(お客様)であり続け、様々なサービスの変化に人一倍敏感に文句を垂れるわけです。

まぁとはいえ「余剰」には多元的な質があり、人文的な文脈も含まれてはいるのですが、しかし一部の人文系はなんでもごっちゃにして、社会問題を考察する際に特定の人文的な文脈に一元化してしまう。しかも自らの権威性の保持とシノギのためにそうする。

その結果、「特定の人文的な文脈で複雑に考えることそれ自体が丸っと物事を単純化している」というパラドックスが生じるが、本人はそれを自覚しないまま人文的な文脈で複雑に考え続けるというループに嵌り、そうやってどんどんズレていくということです。

 

闇バイト」も「余剰」の喪失した修羅化した資本主義社会の流れで起きている現象のひとつ。純粋に「金」が至上価値となり、一切の精神性・神秘性が排除された唯物論的かつ動物的な目先の合理性しかない。

 

あまりにもバカが多いことに絶望。闇バイトについて潜入調査中の「ベテラン迷惑メール評論家」が感じた知の格差

 

ヤクザの世界だって昔は「物語り」があったし、任侠の世界には独自の精神性、文化があった。昔のヤンキーやギャングにだってそれはあった。

しかしそれは、「高卒でもマイホームと自家用車が買え子供数人育てられたような時代」という余剰が前提にあり、ヤクザでもシノギが十分出来る「逸脱」を包摂する余剰が社会にあったからで、

それらの多元的な「余剰」を失ったことで、現在の半グレ及び暴力団の一部は、もはや「物語性・精神性・文化を持たない剥き出しのヒャッハー的合理性を追求する集団」になってしまった。

 

人口ボーナスが終わり人口オーナスに移行すると、教育ボーナスの重要性が増します。高度な技能を持つ労働力が経済を支える役割を果たすためですが、これによりますます格差と少子化が加速し、余剰を支える力が失われることで、あらゆる面で効率化が加速化し、同時に文化は痩せ細っていきます。

哺乳類的なもの、非言語的なもの、感性的な質を「下」にみて、「理性」「言語的知性」を至上とする教育者やインテリどもの働きが、結果的に「豊饒さを支えている余剰」を削り取って古き良き文化を衰退させた大きな要因なんですね。

ドーキンスにせよ一部の人文インテリにせよ「理性」なんてものに頼りすぎた。それは底が浅い人間観、世界観ゆえにそうなる。科学的合理性・正確性だけは物事は豊かにならないし、人文的な理性的・論理的な思考だけでは社会問題は解決しません。

 

だから「セルフマネジメントに忙しい個人の自己実現者」がいくら増えても世界は豊かにはならない。単にその1個人と関係者が豊かになるというだけ。そんな自己愛しかない個人がやることなんて、共感できる仲間だけで小さく囲いを作って、その外部は「クズ」「劣化した人間」とコケ下ろしながら排他的に生きるのが関の山。

結局、あれこれ「本質」を語りたがる一部の人文系も、「目先の損得」でしか考えていないし生きていないのに、人文レトリックでさも深い考察の上で生きているかのように擬態するが、「高度な言い訳(自己正当化)」は、どこまでいっても「高級な嘘」でしかない。

そんな自己愛に満ちた「高級な嘘」であるならば、哺乳類的な非言語的なもの、感性的な質に含まれる脱魔術化されていない非合理性のほうが、豊饒さを生み出し続けるという点で、より優れた価値ともいえるでしょう。