アメリカ大統領選  「実」と「虚」~創造的破壊へ

トランプ当選おめでとうございます。

ところで、マカクザルには「選挙に負けた候補者のほうをじっと見つめる習性がある」とのことです、今回はハリスをじっと見つめていたのでしょうか。 ⇒ なぜかサルは選挙に負けた候補者のほうをじっと見つめる習性があると判明

まぁなんか強引な感じの研究にも思えますが、自然界において勝ち負けは既に先に決まっていることが多い。何故かというと身体(無意識)の領域は「実」が優位の世界で、「虚」が通じにくいからです。

何故こんなことを書いたかといえば、今回の大統領選は「身体(実)」の方が優位だったからです。前回のバイデンの時は「」が優位でした。

 

まず、カナダのトロント大学の哲学教授のジョセフ・ヒース 氏の記事を引用・紹介です。

 

「ジョセフ・ヒース「反自由主義的リベラリズム」(2024年7月30日)」 より引用抜粋

「反自由主義的な進歩派の若者(YIP:young, illiberal progressives)」が、現代の共和党員のほとんどを「文字通りの意味でのファシスト」と見なしているという話は今やおなじみである。

こうした若い活動家が、自身の表明している価値観と自身のとる政治手法との間にある明白な矛盾に無頓着なことに、関わった人なら誰でも気づくだろう。傷つけられやすい多様なマイノリティを守るという大義を掲げながら、自分たちに同意しない人をキャンセルしたり罰そうとしたりするイジメのような戦術を用いることには驚くほど躊躇がない。
(中略)
私の主張はこうだ。YIPたちはこの緊張関係を処理するために、伝統的なリベラルの教義に潜む曖昧さや抜け穴を利用して、自らの奉じる価値と戦術との間にある矛盾を中和している。
(中略)
「私が正しくてあなたが間違っている」という昔ながらの主張を持ち出さず、一般的な寛容の原理を受け入れた上で、それが自身の見解には適用されない理由を説明する特別なストーリーを補完するのだ。そのストーリーは状況に応じて次のような様々な形態をとり得る - 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元  ➡  ジョセフ・ヒース「反自由主義的リベラリズム」(2024年7月30日)

 

 

上↑の記事で、YIPの政治的手法として、「権利の拡張的な定義」「危害の拡張的な定義」「自発性の限定的な定義」というものが挙げられていますが、これは若い活動家にかぎりませんね、専門家やインテリ・知識人等も、このような手法を濫用して「気に入らない他者・対象」を過剰に攻撃することが観察されます。

ジョセフ・ヒース 氏は、「私的な道徳的見解が、他人に生き方を指図するためのリベラルな見かけをした議論へといかにロンダリング(浄化)されたかを見て取るのは難しくない」と記事を締めくくっていますが、お見事です。

 

それはさておき、「ハリスが当選する」と思い込んで語っていたインテリ知識人たちの「身体性の脆弱さ」には驚きました。まさに「虚」が優位の人たち。おまけにトランプ勝利後の「人文ジャーゴンまみれのインテリの理屈」は「虚」の塊。やっぱりああいう人たちは何も身体で触れていなんだなぁと痛感しました。

インテリたちは「何も深く広く学んではいなかった」ということ。普段、エコーチャンバーだのなんだの言ってるインテリは、己自身の思考フレームこそが「人文フィルターバブル」で自己完結していることにもっと気づいた方がいいでしょう。

これからますます「実」が優位になり、「非人文的」な「身体を伴う実直な課題への取り組み」が必要になっていくでしょう。

自然界を含むマクロで根源的な流れにおいて、「身体」への回帰、引き戻しが生じています。これはあまりに一方に偏り過ぎたから起きていることですが、人類の規模での揺り戻しなので、政治的なバックラッシュとかそんな浅いものではありませんが、これに関しては今回は省略。

 

インテリ・知識人の記事は「頭」で書いた記事ばかりで、「身体を感じる記事」は少なかったけれど、以下に紹介のnoteは、トランプ完勝の核になるところを素直にシンプルに正直に見て書いているのが伝わってきます。

「深く高度で知的な分析に見せたがる人文レトリック・ジャーゴンまみれの考察」など、「身体」の領域においては無に等しい。今の社会において、人文系の「高度な屁理屈」ではなく、こういう素直な記事がもっと必要だと思います。でないと身体が腐るから。

 

「アメリカのキャンパスで見た大統領選の風景」 より引用抜粋

私たちが、選挙結果を暴力で覆そうとするトランプを「民主主義的でない」と感じるのと同じくらい、アメリカ国民の多くは、富める者がさらに富み、労働者がインフレにあえぐ今のアメリカ社会を「民主主義的でない」と感じているのである。
(中略)
生活がままならない人々が大勢いる今のアメリカ社会で、「トランプは人権を無視する政治家だから投票をやめよう」という主張が、一体どれだけの人々に響いただろうか。そのような主張が無意味だというつもりは全くないが、率直にいえばそのような議論は恵まれた人々のサークルの中だけで起きている「贅沢品」のディスカッションなのではないだろうか。
(中略)
ハリス支持者の中で、トランプ支持者を嫌うことなく、彼らの声にしっかりと耳を傾けられた人がどれだけいただろうか。
(中略)
私自身、放っておけば耳に入ってくるのはいつもリベラルで民主党寄りな声ばかりだった。授業のリーディングにはニューヨークタイムズやニューヨーカーなど、自由主義的なメディアの記事が並ぶ。SNSを開けばフィルターバブルの世界。

今回の選挙は決して、「右派 vs 左派」や「人権無視 vs 人権重視」の戦いではなかった。格差が広がる今のアメリカ社会・仕組み・政権に対する “Yes or No”の戦いだったと言える

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ アメリカのキャンパスで見た大統領選の風景

 

最近の人文系は、ちょっと他者から小馬鹿にされる程度のことで、何かすごい目にあっている気になっているようだれど、その手の人は、ブルカラーの現場で下っ端として数年働いてみたらいいと思う。「そんなもの何の否定性にも入らない」という次元で否定性を身体に織り込みながら人々は生きている。

インテリの視界には入らないブルカラーの現場にかぎらず、ほんとうに他者から貶され自尊心を削られる日常というのがどういうことかを身体で理解していない人ほど、相手より自分のほうがずっと大変な状況でストレスの中で生きていると思いこんでいるもの。

 

「硬直した頭でっかち」、カズオイシグロがいうところのインテリは、リベラルにかぎらず、世界単位で思考を硬直化させ、二極化させているともいえます。しかしあくまでも「思考の状態」であり、人格の全体とか元々の性格というわけではないんですね。

やっぱり「お勉強」だけでは世界も社会も他者も理解なんてできない。

これは「学ぶ」ことで変容可能なものですが、過度にプライドが高く勝ち負けの意識が強く優劣に拘るタイプはおそらく一生変わらず生きていくでしょう。そして多くの場合、そんなあり方でも社会システムがインテリを支える構造になっているため、それなりに上手くやっていくとは思います。

 

 

アイデンティティ政治、フェミニズムもそうですが、リベラルもアカデミアもメディアも「男性の労働者(特にブルーカラー)」にスポットを当てない。高学歴のバラモン左翼やルンペンブルジョワジーの言説ばっかりが、さも社会問題や政治の本質を突くものとしてメディアで垂れ流されてきたが、この手の学者のご高説など何の核心にも触れてはいないことが多い。

 

 

 

リベラルにかぎらずインテリ連中というのは長年、己が「社会正義」あるいは「物事を一番よく深く知っている側」だと思い込んでいて、しかしそれで物事が上手く進まなかったり、読みが外れたとき、「己自身の在り方」に問いつつ学ぶということ一切をせず、

お得意の人文レトリックを使って自己正当化に走るにとどまらず、メディアもアカデミアも、特定の対象とその属性をしつこく侮蔑しながら攻撃し排除しようとしてきた。

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そんな「正義でも何でもない自己中で暴力的な連中」ってことがもうバレバレだから負ける。リベラルという思想それ自体より、インテリ連中(特に一部の人文アカデミアがもたらした負の要素)が大きいでしょう。

「身体知」は他者の「言葉・論理」よりも「行動」を見て感じとるから、その意味で正直に反応する。そしてこの「実」の次元の「他者の正直さ」において、人文レトリックはほとんど通用しません。

「虚」がほとんど通用しないからからこそ、それを「低学歴的なもの」とひとまとめにして小馬鹿にするしかない、そんなインテリの自己防衛&マウンティングの仕方は、もう世界規模で相手にされなくなってきている。

 

 

少し前に、エアコン業者を職業差別的に眼差しているとかなんとかで大炎上したアカウントがありましたが、低学歴とかブルーカラーを見下す仕草って、リベラルな感じの人に多いんですよね。

まぁしかし、「ポリコレは脳の認知機能を低下させると判明!」もそうですが、アメリカの大学教育が何もかも悪いなんて思いませんが、ポリコレを過剰にやり始めて以降は、「大学教育を受けた人と受けていない人」で、認知機能に変化が生じているともいえそうですね。

以前のアメリカの高学歴リベラルって、もっと素直に知性の高さを感じることが多かったけれど、「思想」が強くなりすぎて、逆に知性が劣化している一面もあるでしょう。

 

「身体によって学ぶ」ことにおいて「創造的破壊」が生じます。これはお勉強の自己破壊とは異なります。そして「創造的破壊」が『「私」が属する「社会」』の外部に連れ出す。なので、カズオイシグロがいうところのインテリなんて相手にせずに、元気のある若い人は「身体」でどんどん学んで行動していけばいいでしょう。