ストゥルトゥス~自己への配慮~「真理を語る主体」へ

 

今回のテーマは、前回の記事の補足を含んだ内容になっています。

 

孤独と向き合う」などと、SNS等で有名な人とかが語ることがありますが、そういう人を観察していると、「理解のある彼君」どころか、それ以上に周囲の様々な助けに支えられているとても恵まれた人、幸運な人、有能な人、努力を継続できる力を持っている人が多いです。

仮にメンタルヘルスに何らかの障害等があっても、結婚していて子供がいて家族の仲がとても良く、それなりの才能なり能力なりがあって収入も十分にあり、友人や協力者に恵まれ、(メンタルヘルスはともかく)「体」は健康でよく動き、働ける、みたいな人が、「孤独と向き合う」とかいっても、やはりそれは次元がまるで異なる話なんですね。

あるいは何らかの肩書を得て、シッカリした足場(所属)を得、友人や協力者に恵まれている状況においてそれを語る、という場合も同じです。

 

「孤独」には多元的な意味合いがありますが、上に書いたような関係性(つながり)や能力がほとんどない中での「孤独と向き合う」を生きている人々、「孤独それ自体を生きる人」がSNSで発信して支持を得ていたり多くのファンに囲まれていたり、本など書いているのをほとんど見たことがありません。

残念ながら、『「それ自体を生きる人ではない人」が「それ自体を語る」』ことが大いにもてはやされ、そこにスポットが集中し、その人がプチカリスマ的な感じになって他者を囲い込んでいることが多い。

「その人の話だけがよく聞かれる構造」を、セルフマネジメント能力の高さによって得て、そこに何らかの富(資本)が集中する結果、『その構造から最も排除されるのが「それ自体を生きる人」である』というパラドックスが形成される。

しかし当人は「良いこと・かっこいいこと・役に立つこと」をやってるつもりで、無自覚に「持たざる者」をさらに暗い場所へと不可視化していく。

このような「特定の言語空間を独占するという形の領土化」がありますが、この「本質的なダサさ」に気づかない人ほど、「○○なんてダサい生き方はしたくない」みたいなことを平気で言うことも珍しくありません。

こういう人が人気があり、多くの人に好かれていたとしても、けっきょく「他者」の評価を市場原理的な価値、数字で判断しているのとあまり変わらないんですね。それならそれでいいのですが、そのように見えない感じにそうするところがかえってダサいのです。

 

この手の話はわかる人にはよくわかる話でしょう。そしてそういう人が「孤独それ自体を生きるというのはどういうことなのか」について身体で知っていても、その話は「聞いてもらえない」どころか、「存在することすら気づかれていない」ことが多い。

「特定の言語空間から弾かれている人」というのは、このようなセルフマネジメント能力の高い恵まれた人と対立することがありますが、それも力の非対称性によって「ただの難癖や嫉妬」としてクズ扱いされたりします。

確かにそういう心理状態では?と思われる例も少なくはないとはいえ、しかし、その中に「言語空間の独占する人々によって抑圧されていたパレーシアの発露」が見出せることもあります。

 

ではここで一曲紹介です。Mr.Childrenの「名もなき詩」で、野田愛実さんのCoverです。まもなく夏も終わりですが、夏の終わりに秋よりも哀愁を感じるのは今も変わりません。彼女の伸びのある声、ギターの音、勢いがあり、そしてどこか夏の夕暮れの雰囲気があります。

 

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしている
知らぬ間に築いていた
自分らしさの檻の中で
もがいているなら
僕だってそうなんだ

 

 

ストゥルトゥス~自己への配慮~「真理を語る主体」へ

 

『サバルタンは語ることができるか』の著者ガヤトリ・C・スピヴァクは、フーコーとドゥルーズが、大衆は知識人よりも物事をよく知っており、それを明確に表明していると主張した際に、知識人よりも物事をよく知っている大衆という、イデオロギー的に中立な準主体的行為者を表象していると批判していますが、

しかし、スピヴァクは、フーコーとドゥルーズが、人々の発言が何の問題もなく届くものだとは言っていないことを見落としていると、喜多氏は指摘します。フーコーは、発言を遮断し、禁じ、無効にする権力の体系が存在し、知識人自身もその一部であると述べています。

氏は、スピヴァクとフーコーの議論における共通点として、沈黙や聞かれない状況をも、言説や実践の編成と捉え、言説の中で分散する主体のあり方の一つとして具体的に示そうとしている点を挙げています。

つまり、フーコーとスピヴァクは共に、沈黙や発言が聞かれない状況を、言説や権力と切り離せないものとして捉え、分析しようとしていたという点で共通していると言えるでしょう。 ➡ 語る/語ることができない当事者と言説における主体の位置 スピヴァクのフーコー批判再考 喜多加実代

 

「自己への配慮」は、下位の者が上位の者に「真理を語ること」(パレーシア)を可能にするという点で、倫理的実践であると同時に政治的な実践でもあります。「命の軽い属性」が真理を語ることもそのひとつ。

それなりに何かで成功したインテリや強者属性の人々は、SNS等で目につく「相対的に下位の者」の剥き出しの発言に眉を顰めたりしますが、全てではないにせよ、そこにも下位の者が上位の者に「真理を語ること」(パレーシア)の萌芽が見られます。

まだ萌芽なので、荒い表現もけっこう多いのですが、まさにそこからその人の第一歩が始まるともいえます。

しかし「命の軽い属性」は社会からの要請や構造の力学だけでなく、自らも自身を今までそう扱ってきたともいえる。

たとえば、「痛みを感じにくい鈍麻化した状態」=「強さ」と勘違いしてきた場合のように、まぁそれだけでなく、他にも多様な「ストゥルトゥス」の結果がありますが、私はそれを「命の軽い属性」の自己責任に全てを還元することはできないと考えます。

 

「M.フーコーにおける「自己への配慮」」 より引用抜粋

「ストゥルトゥス」とは,外的表象や時間の流れるがままに「生」をまかせている者,つまり「自己自身に配慮しない者」を指す.「ストゥルトゥス」は,フーコー権力論の文脈に置き換えて言えば,「自由」な状態にあるのではまったくなく,まさに「権力」の戦略的拠点になる者である.

そこで「ストゥルトゥス」は,「自由」を獲得するために「自分自身の力でこの状態から脱出 sortir し」(Foucault 2001a: 126=2004: 153)なければならない.

フーコーはセネカを参照し,「〈ストゥルティティア〉から脱出することは,自己を欲することができ,自己自身であろうと欲することができ,自由に,絶対的に,恒常的に欲することができる唯一の対象であるものとしての自己へ向かうことができるようにすることです」(Foucault 2001a: 129=2004: 156)と述べている.

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ M.フーコーにおける「自己への配慮」

 

「自己への配慮」とは、主体が真理へアクセスするために必要な変形を自分自身に対して実行する探求、実践、経験の総体である。

フーコーは、この探求、実践、経験の総体を「スピリチュアリテ」と呼んでおり、「自己への配慮」は、この「スピリチュアリテ」の諸条件の総体であると述べています。

つまり、「自己への配慮」とは、デカルトにみられるような単なる認識行為ではなく、真理へアクセスするために主体が自らを「変形」させようとする実践全般を指すと言えるでしょう。

「自己の救済」とは、自己に配慮することで奴隷状態から脱し、幸福を達成することです。そして、古代の哲学においては、この「自己の救済」と「他者たちの救済」は不可分であり、自己に配慮する者は常に「他者たちへの配慮」にも開かれているべきだとされます。

そして、フーコーは、この「自己への配慮」という実践こそが、政治的権力に対する抵抗の拠点をもたらすと考えています。つまり、フーコーにとって「自己への配慮」とは、主体が真理に到達するために自らを変革していく実践であり、それは同時に政治的権力への抵抗という側面も持ち合わせていると言えるでしょう。

しかし、「ストゥルトゥス」と呼ばれる、自己に対して無関心な状態にある人は、独力では自己との関係を築けず、そこで「自己への配慮」には、自己と主体としての自己の構成との間に「媒介者」として「他者」が必要となるとのことですが、

この「他者」は、個人を現状から「脱出」させ、自己を統制し、喜びを見出すことができるように「導く」役割を担います。

そして「パレーシア」を実践できるのは、「自己への配慮」のための一連の「鍛錬」を受けた者だけだということ。つまり、「真理を語る主体」となるためには、倫理的な鍛錬を通じて自己を形成することが前提条件となります。

真に「パレーシア」を実践するには、保身よりも「真理」を優先し、その結果として生じるかもしれない不利益を恐れない「勇気」を持つことが求められます。