「わからなさ」をわかろうとするための霊性
デリダは、言語が現実を直接反映するものではなく、常に解釈を必要とするものであり、そして書かれた言葉(エクリチュール)が音声言語(パロール)よりも重要であると考えました。
エクリチュールは、読む人によって異なる解釈が可能です。これは、テキストが固定された形で存在するため、様々な文脈で再解釈される余地があるからですが、デリダは、この解釈の多様性が、言語の本質をよりよく表していると考えました。
パロールは現前性を強調するのに対し、エクリチュールは不在や差異を強調します。デリダは、この不在や差異が、より深い哲学的な洞察をもたらすと考えました。
そして、「解釈」の前提に様々なバイアスが強く作用していたり、強固なフレームがある場合、特定の意味・価値に沿う形に強引に捻じ曲げられることがしばしば生じてきます。
『 強い感情の支配のもとにあるときは、人間の知性は意志の道具としてふるまうのであり、意志の求める成果だけをもたらす。論理的な議論は、情動的な利害関係の前では無力であり、利害関係が支配する世界では、根拠に基づいた論争は何ものも生まないのである。 – 「ひとはなぜ戦争をするのか」 フロイト 』
「強い感情や情緒的な利害関係が支配的な場」においては論理的な議論は成り立たない、というのはまぁ経験的にわかることでしょうし、戦争においては言わずもがなでしょう。思考が訓練されている(とされている)専門家や学者でさえ、党派性や思想の強さなど、「前提」への強固な信仰が思考プロセスを支配してしまうことは珍しくはありません。
教養というのは、知識がその本質ではなく、歴史や理論体系によって矮小な自己が否定される経験。生まれ持った感覚や、育った環境による慣習や常識、そういう生来の感覚が否定されて自己が変容していく過程こそ教養の本質なので、自分の感覚を強化するための知識は教養とは逆行する。
— 下西 風澄 (@kazeto) February 10, 2021
主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを「霊性」と呼ぶことができるように思われます。 フーコー
心に余裕がなかったり、強迫観念にとらわれていたり、過剰なプライドや、勝ち負けの意識、トラウマや様々な負の感情等によって、思考の頑なさや視野狭窄が生じることもよくある。
だから、「論理的な思考が出来る人だから」とか「知識が豊富だから」とか「経験が豊かだから」とか、そういうこと以前に、思考の自由度、柔軟性は、心・精神の状態に影響を強く受けているわけですね。
人間は精神に余裕があるときにはじめて、前提や仮説を疑ったりする批判的思考ができる。心が知性や思考の母体であって、その逆ではない。
— 下西 風澄 (@kazeto) August 8, 2024
「ある特定範囲に限定すれば、そこにある程度の統計的な傾向性が認められる」という質のものを普遍化し、「これがこの問題の原因の全体だ」としてしまう視野狭窄、「客観性の落とし穴」はよくありますが、
ましてそこに思想が加わっていたりすると、研究の結果がアイデンティティ政治の道具にされてしまうことがある。その影響を受けた場は、他者(当事者)に専門側の政治性を内面化する政治の場と化し、それはもはや「わからない他者をわかろうとする真摯な営み」ではないでしょう。
「わからなさ」を受け入れることは他者への畏敬の念をもたらし、それでも「わかろうとすること」は他者とつながるための回路になる。「わからなさ」に偏ると神秘主義的になり、「わかる」に偏ると操作主義的になる。この塩梅の中でさまざまな臨床の理論がある感じ。
— 東畑 開人 『雨の日の心理学』 (@ktowhata) August 4, 2024
たとえばフェミニズム等の思想が、その強固な前提から「他者」を「属性」で区分けして判断し、他者の苦悩の本質をわかっている気になっているような状態は、『「個人としての他者」の「わからなさ」をわかろうとする姿勢』を最初から放棄しているともいえます。 ➡ 思想の強い女性カウンセラーが辛い
あるときは権威やらパターナリズムに猛反発しながら、自分の思想や利害関係において都合がいい時だけ「○○の権威がこう言っている」「○○の権威が書いた本にこう書いている」、というご都合主義的な権威論証はごくありふれたものとはいえ、
これは宗教と哲学の違いにもいえますが、「絶対的な答えが先にある」、「前提を疑うことが出来ない(許されない)思想」というのは、そこで完結してしまうので、それ超えるものを含んだ他者、対象、現象についての理解を最初から放棄しているともいえるんですね。それでは「他者不在」になるでしょう。
「若い男性ほどフェミニストを嫌っている」のは日本でも韓国でも同様ですが、 韓国の政府系シンクタンク「女性政策研究院」の調査では、「フェミニズムに反対する男性は50代の約10%に比べ、20代は約51%」という圧倒的な差があります。
【2024/8/23 追加更新】 ➡ Z世代男性の3割、平等推進は「やり過ぎ」 他の世代の1.5倍
そして今のようにイデオロギーだけが先行し、「他者不在」のままどんどん進めていくやり方では、日本も韓国と同様になっていくでしょう。また「他者」だけなく「構造」においてもそうです。構造の複雑さ、全体性を無視して、一元化された理想・前提によって強引に構造改革を推し進めてしまうと無理が生じてくるのです。
スピヴァクの「遂行的矛盾」という概念は、知識人がサバルタン(抑圧された人々)の声を代弁しようとする際に、自らの立場や権力構造を無視することによって生じる矛盾を指しますが、
大事な点は、スピヴァク自身もそれから自由ではない、ということ。 「西洋中心主義」だけが「解釈」における支配的なフレームなのではなく、様々な強固なフレームが存在する。ゆえに、「問われる側」だけなく「問う側」にも向けられるはずなのですが、
政治的正しさや思想、信仰等によって強固なフレームに無自覚であるとき、自身の解釈を絶対化し普遍化してしまうことがある。その意味でこの概念は、臨床心理や対人援助職の専門家とクライアントの関係にも適用できると考えられます。 ➡ 『サバルタンは語ることができるか』を読み直す : ブヴァネシュワリの読解における遂行的矛盾に着目して
「わからなさと共にある」なら、むしろ神秘主義には嵌らず、「わかろうとすること」の中に「わからなさ」が共になく、思想やイデオロギーが思考の前提に強く作用しているとき、その質によって神秘主義的あるいは「政治的」になりやすいとはいえるでしょう。
また、神学的な質を持つとする臨床が「神秘主義/操作主義」の二元論になりやすいとするなら、むしろ「神学の外部にある哲学的思考」が必要なのかもしれません。それが「わかるとわからなさが共にある」という他者観に繋がるからです。
ソクラテスは、「魂」を人間の肉体とは異なる、より高次の存在として捉えていました。 彼の思想において、「魂」は思考や道徳的な知性と同一視され、外的な善よりも重視されるべきものでした。
彼の提唱する「プシュケース ・ エピメレイア(魂への配慮)」は、後代の西洋思想、特にキリスト教の倫理観に大きな影響を与えたと考えられていますが、
「救済」としての質を持つ臨床は、事実に基づいて真理を探究する学問とは質的に異なる。それゆえに宗教的な問題に似た現象が起きやすいともいえますね。
と、このように「人文知」による考察は様々な角度から可能ですが、「身体の思考」はもっとシンプルです。
「自己への配慮」というなら、「身体を訓練する」のではなく、むしろ「身体を休めてあげる」、「のんびり過ごす」、「言語的思考を外す」「時間の感覚を忘れる」というようなことが、むしろ現代社会においてこそ大事ともいえます。
よく、「私は必死に沢山勉強した」「人より努力した」「時間をかけて積み上げてきた」とか、「毎日毎日、誰よりもそれについて長い時間をかけて真剣に考えてきた」ということをもってして、「だから(そうでない他者よりも)私の方が優れている、偉いんだ」という感じに、優劣や勝ち負けの文脈で語ろうとする人がいますが、
努力や積み上げたもの自体は否定しませんし、長い時間何かについて真剣に考え続けることで見出した何か自体は否定しませんが、
なぜそのひとはそのようにあるのか? なぜそういうふうな形で、そして心の中だけでなく他者に見える形で自身を鼓舞せずにはいられないのか?という視点でいうならば、
そこに現代社会の中における競争の力学(何かの役に立つことで他者に承認されたいとか、自己のキャリアの市場価値を高めることに繋がる方向性で闘争的に他者と関わる傾向など)が背景にあり、
それは既に社会的力学が個人の生活の細部にまで及び、それに「過剰適応」した結果として、「強迫観念」が強化され、「そうせずにはいられない状態」になっている、ということでもあるでしょう。
そういう方向性ではなく、むしろただのんびりとゆっくりと考える、あるいは瞬間的に「何かが見えてしまう」、それが消えないよう生かしたまま生きているとき、既にそれ自体がそういうものをあっさりと超えて、何かに深く触れていることがあるんですね。
「言語や認知の側」から自身や物事を捉えて思考をせわしなく働かすのではなく、身体の方から立ちあがっていくのを「待つ」という感覚。
「強迫観念」がなければ深く学べない、なんていうことはなく、まぁ「お勉強」に関してはそういう傾向が強くなる面はどうしてもあるでしょうけど、「学ぶ」ということはもっと広く深い概念であり、必ずしもそうでなければならないどころか、むしろそれがあるからこそ決定的に見落とすことがある。
お勉強し過ぎたインテリタイプにはそういう人が結構多い。時間感覚のおおらかさを喪失している。そして、「競争」や「強迫観念」から解放されていないと見えない、触れられない「非言語領域」はとても広いんですね。
真面目さや合理性というのはひとつの選択なのであって、そこに収束していけば答えに近づくわけではない。
— 下西 風澄 (@kazeto) August 8, 2024
記事の終わりに一曲紹介。Salyuで「体温」です。
わたしは どんな呼吸をしようか
あなたと私は 本当にそれぞれで よかった
別々で 本当によかったって
なぜなら あなたを抱きしめるから
二人の体温 違っているから