「心の中の百条委員会」とグレーゾーン

よく「営業」の人で「嫌な感じの接客」をする人がいますが、「この接客の仕方では客が離れていくよね」というよくあるアレですが、「他者の嫌な接客」は見えても「自分のそれ」は見えていない、っていうのはごくありふれたものにもかかわらず、見落とされることも多い。

自己投影って別に大衆的な無意識ではなく、インテリ、専門家、学者等の方がむしろ灯台下暗しになり見落とされやすい。

しかもそれを人文レトリックやジャーゴンで高級に見せているという場合は、よくある「嫌な接客」よりも嫌らしい感じになるが、この手の「高級な嫌らしさ」、○○であるかのように見せかけた「ぽさ」は、大衆の方がよく見抜いていたりする。

 

たとえば、SNSで人文系インテリがお仲間同士で「この本を読め」的に勧めてくる本なんて別に一生読まなくてもいいし、気が向いたら読んでもいい、どちらでもかまわないものだが、

そもそも「言葉」で「こうしたほうがいい」をいくら言ったところで、その人の言語行為(発語行為、発語内行為、発語媒介行為)」と「行動」への信頼度の方が強く作用している。

一部のインテリが「あたり前のこと」を言っても大衆に相手にされないのは、相手に問題があるのではなく、世間の風潮、大人の姿勢に問題があるのではなく、あなた自身に問題がある、ということをもっと知ったほうがいいということ。

 

それはさておき、この手のインテリがわかっていないのは、実際には、かなりの多くの人々は、特定の学問にせよその他の技術にせよ、無意識では「学ぶこと」を望んでいるということ。

「知」へ欲求というのは、ヒトの本能に根差している。

他者の「言葉」「その時々の反応」という「点」に気をとられ過ぎる視野の狭さと神経質さゆえに、脊髄反射して否定的に「その考え・姿勢ではダメだ」と決めつけ、それを「修正してやろう」という意識で「点」に向けて言葉を発する。

まさに「嫌な感じの接客」と同質の作用を「身体」に与えている。そうではなく、「学びたい身体(無意識)」に適切に働きかければ、人は勝手に自ずと学ぶようになる。

 

心の中の百条委員会とグレーゾーン

 

 

テレビが誰かを何かを吊るし上げれば「私刑は娯楽」とばかりに1個人を極悪人として一斉に叩き、知事選でキラキラ女子がSNS仕込みしたらしいことが発覚すると、素早く手のひらくるっくるーして再び異様なボルテージで叩き始める人々って、

「何か叩くものがあれば叩き始める機械」なんじゃないかとすら思えてきます。あるいは、「情報」という餌を投げ込めばすぐに群がる池の鯉みたいな感じ。そんな姿は、たしかにニーチェの「畜群」という評価が妥当ともいえます。

 

大衆は畜群、衆愚の一面を持つとはいえ、しかし人文インテリも別の面では同質で、己の「症状」を「不快な他者」に対して自己投影するだけの「人文ジャーゴン機械」みたいな現象もよく見かけます。

「自己投影」も「ルサンチマン」もそうですが、「下」のそれはわかりやすいので目につきますが、「上」のそれは目につきにくい。

 

問題は下にある」的な思考は単純な考察が多く、インテリは自分が「上」と思っているのでその手の単純化を好むが、しかしたとえば「ニーチェ自身のルサンチマンの方がより根が深い」ともいえるんですね。

過去に「鬼化したルサンチマン」と表現したことがありますが、「ルサンチマン」という言葉で「下」の問題を一蹴するだけのインテリの方が、より根深いルサンチマンを内面化していることがある。よって「ほんとうの問題は上にある」ともいえる。

たとえば、「明らかに低レベルなSNS上の言語表現」よりも、それなりの肩書がある人文アカデミアの言説の方にほんとうの問題の根源があることが観察される場合でも、オールドメディアやインテリは常に「下」にだけスポットを当て続ける。

「こっち側には絶対目をむけさせないぞ」という自己防衛は、「自己投影」だけでなく「鬼化したルサンチマン」が潜んでいることがあるということ。ゆえに根深いものは「上」にこそ存在し、それが「下」にわかりやすい形で投影されているだけ、ともいえるんですね。

 

たとえば、子供より親側により根深い問題があり、それが子供にわかりやすい形で現れているとき、「わかりやすいもの」を親を含めた大人たちが叩くことで「解決したことにする」という構造も似ています。

また、関係資本の多い無敵の人(自我肥大した「持てる者」)は、「資本」を抜き取れば精神構造は無敵の人(持たざる者)と似ていても、前者は社会的承認を得ているからそう呼ばれない、思われにくい構造とも似ています。

「何かに恵まれなかったある種の不運さがその人をそうしている」とは見ずに、「人間性がクズ」とされやすい傾向は、SNSでもリアルでもよくみかけますが、こういうのも「自己投影」「鬼化したルサンチマン」が絡んでいて、実際には、その「クズ」というのは自己紹介なんですね。

 

今回の兵庫県知事選もそうですが、もう人文インテリ連中なんて、(大衆と同様に)話を聞く前から「何を言うか、どう反応するか」がわかる。「機械」のように硬直しているから簡単。

ボキャブラリーや知識が多いというだけで、思考の質は大衆と大差ない。「ジャーゴンを塗した(上等な感じのする)畜群」というだけのこと。そんな者たちが「複雑さ」を語る滑稽さ。

たとえば「安倍」「原発」という単語を入力すると、自動的に思考が始まり自動的にしゃべりだす言語機械みたいな感じ。まさに「症状」でしかないんですが、「他者のそればかり見て己のそれは見えていない」という点でより症状が深いともいえるでしょう。

なんかこの手の滑稽な人文インテリは、己の価値判断に逆らうかのような現象や対象を見聞きすると、口から「ヒトラー!ファシズム!」を吐き出すだけの言語機械みたいになっているけれど、これはもはや「劣化」というより、「終末期に近い症状」とも言えるでしょう。

 

「エコーチェンバー」は学者・専門家・インテリ知識人にも生じており、むしろ他者に優越できるような成功体験や過度な自信が、 「自分の考えや知識を常に検証し、更新する姿勢」の欠如として働き、「エコーチェンバー」をより強固にしていることがあります。

白黒二元論から一歩も出れない党派性のエコーチェンバーに閉じこもっているうちは、何も変わらないどころか、ますます「人文インテリは不要」という流れになっていくだけでしょう。

「グレーゾーン」に滞留できず、モヤモヤに堪えられず、すぐに歯切れのいい白黒二元論で言語化し、「○○は良い / ○○は悪い」で区分けし、「○○はクズ」とカテゴライズする単純化、

お仲間同士で傷を舐めあい、内集団・外集団で切断し、先生よいしょのコメントばかりかき集めて自分アゲばかり行い、異論・反論してくるひとは徹底的に侮蔑してサゲるか無視するだけ、みたいな人が人文系の学者とか対人援助職の専門家とかやってる社会状況を見るかぎり、

「ほんとうの問題は上にある」という視点の方が公共性が高いとはいえるでしょう。

 

ところで、「グレーゾーン」に滞留する力、二項対立や二元論でスパっと分けずに考えていく柔軟性という点では、安野貴博さんは想像以上にそれがある人だと思いました。しかも思考力・言語化能力、観察眼も高いので、面白い人だなぁと思います。

 

 

 

インテリは往々にして豊富な知識や、特定の能力を持ってはいますが、しかし、これが時として傲慢さの源泉となり、自分の知識や能力を過大評価し、他者を見下す傾向が生まれたり、知識量や学歴などで他者より優れていると感じて優越感を抱きやすくなります。

それゆえに自分を客観的に見ることができず、自分が「全て」正しいと思い込んで、自分の意見や考えに対する批判を受け入れられず、それを蔑むようになったりもする。

そういう人が成功し社会的な地位や権力を得ることで、さらに傲慢さが増大する可能性が高まり、あるいは年を経て、過去の成功体験を過度に重視し、それが自己肯定感を過剰なレベルまで高めてしまうこともある。

 

 

以下に、エマニエル・トッドの『西洋の敗北』に関するnoteを紹介。今のままでは、アメリカの崩壊の次は日本かもしれませんね。いや、場合によっては地政学的には日本の方が崩壊のレベルがヤバいことになるかもしれません。

どちらにせよ、アメリカの劣化コピー国としての日本の運命は、このままでは明るくはないでしょう。まぁとはいえトッドの見解が100%正しいとは思っていませんし、ロシアが正しいとも欧米が全て正しいとも思いませんが、

これまで世界を支配してきた西洋的な力学は、一回、大きな創造的破壊を経て生まれ変わらない限りは、見るも無残な状態になっていくとは思いますので、そこはトッドの見解に近いですが、

欧米のような文明の在り方は長くは持たないというのは、アメリカンインディアンもとっくの昔に見抜いていることで、あまりに大地から離れ過ぎた「虚」の文明は、大自然の大きなサイクルにおいて必然的に崩壊する宿命なんですね。

世界が歴史がどのように流れても、ヒトの生の根本のところは変わらない。「インテリが嫌がるもの・やらない仕事」が、人々の生の土台の働きとなっているように、「身体」は元々大地に根差している。

ニンゲンの「思考の過剰さ」という虚の運動がどれほど激しくとも、大地はビクともしないように、そしてひとたびそれが動けば、ニンゲンなどあっというまに飲み込まれるように、普遍でもなんでもない人文系の思考程度のものに実存を丸のみされないこと。

 

 

「欧米の没落とポスト民主主義の到来:エマニュエル・トッドが鋭く分析する現代世界の構造的危機」 より引用抜粋

彼によれば、読み書きができるだけでみな平等だったかつての時代とは違い、今日の高学歴エリートは自分たちを「知的に優越した存在」と考えるようになったとのことです。つまり、高学歴層とそうでない層の間に、新たな「教養格差」が生まれたのだと指摘されています。こうした格差意識は、平等主義的な民主主義の理念を内側から蝕むとされます。

多数決の結果よりも「専門家の知見」を重視する風潮が広まり、エリート主義的な価値観が社会の隅々に浸透していくようです。

トッドは、この高学歴エリートの台頭が民主主義を形骸化(当初の意義や内容が失われ、形ばかりのものになること。)させていると警告しています。

(中略)

トッドは、現代の欧米社会を「ポスト民主主義」の時代に突入したと診断しています。20世紀型の民主主義は形骸化し、選挙はイベント化しているようです。政治は大衆の関心を集めるショー的な要素を帯び、政策論議の実質は乏しいとのことです。

他方で、富の集中と格差の拡大が進む中で、社会の分断が進んでいるとされます。勝者と敗者の差が固定化し、社会の流動性が失われつつあるようです。政治に対する大衆の不信と無関心も深まっているとのことです。

トッドは、こうした事態を「民主主義の死」と呼んでいます。

では、いかにして危機を乗り越えるのでしょうか。トッドは明確な処方箋を提示するわけではありません。だが彼の議論からは、次のような展望が見えてくるようです。

まず、民主主義の危機を直視し、その原因を解明すること。政治的な対立に目を奪われるのではなく、社会の深層で起きている変化に目を凝らすこと。高学歴エリートの傲慢さを戒め、社会の分断を解消する方策を探ること。既存の政治制度や政党に過剰な期待をかけるのではなく、市民一人一人が主体的に考え、行動すること。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 欧米の没落とポスト民主主義の到来:エマニュエル・トッドが鋭く分析する現代世界の構造的危機

 

 

「高学歴層が増える中国」が迎えうる”意外な未来”

 

トッドのいうように、『多数決の結果よりも「専門家の知見」を重視する風潮』の何が問題かと言えば、

範囲を限定すれば専門家の意見を重要視するのは当然としても、たとえば今回の兵庫県知事選のように、人文アカデミアって別に政治の専門家ではないし、精神科医やってるからって別に政治の専門家ではないように、分野や対象が変われば1素人に過ぎないんですね。

そもそも「SNSを妄信して専門家の話を軽視する」とか、そういう二項対立の文脈ではないのに、あたかもそういう話のように置き換えるところも、昨今のインテリ連中の図々しいところなんです。

特定の「専門家」という権威性の及ぶ範囲を超えて、様々な力学が作用している社会の事象に対して何らかの判断しているときにも、己の見解を大衆より常に上位に置きたがる。

 

「コロナ禍」においてもそうですが、専門家が全てにおいて正しかったといえるでしょうか? ひとつの専門の領域を超えるものが「コロナ禍」には含まれていたにもかかわらず、特定の専門家主導にした結果どうなったでしょうか?

毎日毎日オールドメディアで専門家たちに言い聞かされたことを鵜呑みにした人々の中には、「コロナ百条委員会」みたいになって、異様なほどの熱力で「従わない個人(逸脱者)」を「悪」としてバッシングしたように、

「コロナ百条委員会」による過剰な自粛の同調圧力によってさまざまなものが委縮し、それは今も尾を引いています。

統一教会のときも、原発のときもそう。人々はすぐ百条委員会になる。とはいえ統一教会は原発とはまるで問題の質が異なるし、何かを批判することが悪いわけではないが、

「心の中の百条委員会」は、特定他者・対象を徹底して断罪する白黒二元論によって「公開私刑」するだけ。

 

そして最近の「オールドメディア百条委員会」は、リベラル(自称リベラルというだけで全然リベラルではない)に偏っている。それに比べてネットにはどちらの百条委員会もあるし、カルト化したクラスターもあるけれど、グレーゾーンのエリアも広く、総合的には多様性があるとはいえるでしょう。

どちらにせよ、最近はインテリ・知識人たちも含めて神経質(繊細)で潔癖なタイプが増えている状況なので、人々は「学ぶ」ことを通して情報の真贋を見抜く力をつけるだけでなく、もっとグレーゾーンに滞留できる胆力(身体性)を養うことが必要でしょう。

時代が神経質(繊細)で潔癖で他者に不寛容になればなるほど、後者(身体性)が重要になってきます。でないと「一億総百条委員会」みたいな全体主義になっていくでしょう。