学校化社会  言語から身体へ

 

前回の記事のつづき&補足です。

前回から続くテーマですが、このテーマにおいて「入れ子構造、リカージョンの矛盾」とか、「パターナリズムへの反発」というのは個人的には重要なことではなく、ウエイトを置いてはいません。

まぁそれは置いといて、リカージョンの矛盾って何?という方のために外部サイト記事を紹介します。➡ 池谷裕二「ラッセルのパラドックス - リカージョンは矛盾を生む

 

ではまず一曲紹介♪  「花冷え。」で、「 O・TA・KUラブリー伝説」です。パワーあるし、おもろい。このバンドお気に入りです♪

 

学校化社会

以前にも書きましたが私は「権威」という存在そのものを否定していないし、それは必要であると考えています。これはたとえば「宗教」のテーマについても同じですね、それ自体は否定していないし、必要であると考えています。

しかし、何かに属する問題について何かを語ると、「学問を否定するのか!」「宗教を否定するのか!」とか、挙句の果てには「現実社会だって宗教ではないか!(見方によっては確かにそうでもあるが)」みたいな論理を持ち出してくる例もそうですが、

こういうのは「お母さんヒス構文」の論理の飛躍と大差がなく、「そもそも今その文脈で話してはいないんですよ」ということ。

 

 

しかし、昨今の一部の人文系の学者になぜ自我肥大したような者たちが多いのか?それは社会システムの上部構造に身を置いて、その非対称性によって「他者を常にメタする側」だと思い込めることで、「他者から様々な角度でメタされること」を否定・拒絶し、己がフレームに自己完結してしまうからそうなりやすいともいえるでしょう。

■ 文化ヘゲモニー

「文化ヘゲモニー」という視点から見れば、人文アカデミア自体が文化ヘゲモニーの一部として機能する面があり、「他者の社会化」として作用する。

文化ヘゲモニーは価値観や信念の広まりに関わるため、人文系の学問がより深く関連することが多い。

例えば、教育カリキュラムやメディアの内容、政策の形成などにおいて、人文系の知識が文化ヘゲモニーの形成に大きな影響を与え、これにより、特定の価値観や信念が社会全体に広まり、支配的な文化として受け入れられる。

「他者の社会化」という表現は、人文系学校、メディア、宗教などの社会制度を通じて、自分たちの価値観や規範を他者に内面化させることが、まさに社会化のプロセスであり、よって文化ヘゲモニーは、他者を自分たちの文化的価値観に従わせるための社会化の一形態といえますが、

特定の理論・思想・イデオロギーやそれにもとづく視点が主流となることで、それ以外の視点が排除されることが生じ、これにより、学問の多様性が損なわれる。アカデミアの中で権威を持つ研究者や機関が、特定の研究方向や方法論を推奨し、それが標準となることで、他のアプローチが軽視される。

 

全ての人が同一線上の特定の人文的な思考を高め深める方向で生きていているわけではないし、また同じ分野の人であっても考え方や捉え方は異なることがしばしばある。進歩や進化は縦方向のひとつの道があるわけでないし、「成長」もひとつの基準で測れるものではないが、「学校化した意識」はそういう錯覚を形成しやすい。

 

たとえば中学時代でも高校時代でもいいですが、「自分がそう生きたことで触れたもの」から「それとは違うものに触れてきた他者」に対して、それを同一線上において「優劣」で比較したり、「こうだ」と決めつけることは「他者の不在」でもあるでしょう。

言語的アプローチ自体に限界があり、それによって分離されてしまうリアルがあるにもかかわらず、権威はそこで強引に知識による言語的解釈で対象を囲い込み、「全体性としてあるリアル」を己が専門フレーム内に収まるように書き換えてしまうことがある。

「言語的思考によって生じる矛盾」に対して、「さらに言語的思考を深化・高度化することで解決する」というような人文的なアプローチでは、そもそも捉えられない、触れられないものがある。

 

 

ico05-005 ぼく永遠アマチュアいい - YOSHIKI

人文的思考で物事を把握し「矛盾なく世界が記述できる」ように感じれるとき、むしろその「言語による疑似的な解消」ゆえに、「わからなさ」と共にあれなくなることがある。問題を解決したかのような錯覚を与えることに成功したとしても、むしろそれによってますます「触れる力」を失っていく。

「わからなさ」と共にあり、非言語的にそれに触れていくその深度が、何かの領域における「玄人」の質になっていくが、そのモヤモヤに耐えられずに言語で解消してしまう癖がつくと、その「解消の巧みさ」を「玄人」だとすり替えてしまう。また、社会システムに支えられた権威ゆえに「そう見せる」こともできてしまう。

「別の視点から見れば、人はどこまでも素人でしかなく、片割れでしかない」という「諦め」は、非常にポジティブな意味を持ち、未知の領域があることを認めることでもあり、それは「世界の見え方が異なる他者」の肯定でもあり、「知性」の一形態ともいえます。

そして権威性が及ぶ範囲は有限。その外部では何一つ「わからなさ」は解消していないし、フレームの外部においては「素人/玄人」の区分け自体が価値を持たない。

しかし、「学校化した意識」で言語的知性の全能感が肥大化していくと、それがわからなくなり、ある種の「知性」の劣化が起き、フレームの外部を生きている他者、「同一線上の進歩観」では語れない独自の線上を生きている他者の「知」が見えなくなる。

 

そのような者たちの世界・社会・人間に対する解釈が、メディアや書籍を通して世の中を際限なく「学校化」していき、いつしか世界は大きな学校のような感じになっていった。その流れに沿って玄人化していく者は、むしろ「触れる力」を失っていく。

その意味では、「永遠アマチュア」は「解消せずに触れ続ける者」ともいえますね。

 

言語から身体へ

 

芝生   谷川俊太郎

そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ

谷川俊太郎「芝生」を読む

 

ico05-005 ストロークは僕にとって恩寵でした。そして深い教えでした。 - 岡﨑乾二郎

「病気は病気でしかない」ということは決まってはいないんですが、「そう思う人、そう感じる人にとってはそう」というだけで、「そうでない人にはそうではない」ということですが、これは病気だけなく他のことでもそういえます。

雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる

しかし、プロフェッショナルになってしまうと逆にそれが見えなくなることがあり、またプロフェッショナルの権威性にただ従うだけの人にも見えなくなる。座学としての学問であれ実学としての臨床であれ同様に。

 

岡﨑乾二郎 氏の『 頭のうえを何かが Ones Passed Over Head 』は、言語に先立つ「身体の思考」を捉えています。

『 世界と自己を成り立たせてきた構造、作り上げてきた自我=自分の世界をいったん棚にあげて、あるいは放棄して、再度作り上げることなしに、新たな技術そして思想は身につきません。  - 岡﨑乾二郎「 頭のうえを何かが」より  』

 

しかし、これは「私」のフレームが強固な人ほど難しいともいえます。「誤作動する自分の脳を誤作動する同じ自分の脳で修正することはほぼ不可能に近い」と岡崎氏は語りますが、そもそも誤作動していなくても「自分の脳を修正する」というのは、自分の脳から生じている「私」には出来ない。「私以前」「私以外」のものがそこに作用しないとできない。

 

『 自分がそれをやりたいと思って命じても身体は自由に働かない、手応えある外部のモノからの働きかけ、語りかけに身体は応えはじめ、また脳も遅れて、それ(外部の声の促す働き)を理解する。

これらのことは絵を描くということ、ものを創るということの核心にあったことかもしれません(いや、もともとこれは生きることの本質だったといえるかもしれませんが)。脳梗塞の経験は劇的にそれを悟らせてくれました。 - 岡﨑乾二郎「 頭のうえを何かが」より  』

 

「生きる」ということの中には、言語的なアプローチでは解消できない別のリアリティーが含まれているが、それは常に背後にありながらも、通常は隠れています。しかしあるときその別のリアリティーが顔を出す。

愛とか情熱とか、そして有形無形の「芸術的なるもの」もそうですが、それは「矛盾」を解消せずに、そこにあるものを全て生かしたままにして原動力に変える。

非記述的なもの、非言語的なもの、非ロゴス的知性としての詩のように、そこに十分すぎるほどの何かが満ち溢れているとき、「理屈を練り上げる」ことには向かわずに、それを超えてしまう。

創造性は「私(自我)」の矛盾や葛藤の「前」にある。理屈による解消というのは、自我に言語による納得を与えはしても、原動力それ自体にはなれないんですね。