「○○は凡庸/凡庸ではない」という凡庸な思考
「他者がどのような文脈、感情、思考でそのように書いたのか」を脳内で捻じ曲げて、己の結論に強引に導くという「脳内我田引水」をやってしまう人はアカデミア人にも意外なほど多い。
『アカデミアは社会性を強化するどころかそれと同化させる力学の一部』でもある。
ポリコレもそうだが、それは同化政策の一種であり、「アカデミア的な社会性」の質を含んでいる。ほんらいの多様性は非同化の質ですが、同化政策としての多様性は、同化されない限りは非社会的存在として社会から排除される。
『近代美学入門』井奥陽子
今さらだけど、この本とてもいい。
例えば「アートは自己表現。オリジナリティが必須」のような一見普遍な考え方が、いかに西洋近代以降の刷り込みによるものか、が浮かび上がる。
個人の感じ方は、実は歴史的に作られる。むしろ近代美学からの解放本。— 宇都宮 勝晃 / Shhh inc. (@kUtsunomiya) June 1, 2024
オリジナリティとは、ばれない盗作である。 – ウィリアム・ラルフ・イング
「同化」は「依存」とは異なる質を持つ。「依存」は、社会で生きている以上は誰もがシステムに依存しているので、それを否定的なものとして捉える必要は最初からない。
「依存症」のように、自他に負荷がかかりすぎるバランス状態は「問題」として問われますが、「何かが問題として問われる」のもまた「社会」が前提としてある。
ただ、己が「社会」の下部構造に支えられつつ、かつ「思考」の前提も「社会」の上に成り立っているということに疎いまま社会の是非を語るアカデミア人は、むしろ社会への依存がより深い状態とはいえる。
「社会性」= 押し付けられたルールみたいな単純な捉え方をもとにして、何かと二項対立させてバッサリと否定・肯定するという雑な思考も、その前提に「社会化されたもの」があるんですね。
それは「権威化された社会性」であり、そこから大衆社会をジャッジ&啓蒙するが、「それ自体の凡庸さ」に無自覚な点が特徴的ともいえる。
大衆は「自覚的な凡庸さ」を生き、自身と社会の相互依存関係を自覚していることもけっこう多い。その点ではアカデミアよりは社会と同化しておらず、非凡さを有しているとさえいえるかもしれない。
なんだか、だいたひかるさんの「みんなと同じ事はしたくない という、みんなと同じセリフ」みたいな感じですね(笑)
結果として、日本では学問とは「アカデミアそれ自身のためのもの」であるという自己目的化に陥っていて、アカデミアの外にその価値を示すことができていない。究極的には、それこそがこの20年以上日本のアカデミアが被ってきた無益な「改革」圧力とそれのもとになる社会からの無理解の原因だと思う
— TJO (@TJO_datasci) July 7, 2019
「(俺が嫌い?) そうか、俺も馬鹿で凡庸な大衆社会が嫌いだ」「大衆共の処世訓を聞くと虫唾が走る」「お前もアカデミアにならないか?」 ➡ 「ならない!!」 ➡ 「よろしい、ならば排除だ!」という感じに、「同化しなかった者」は異端にされる。
まぁ↑これは風刺的な誇張表現です。
このような政治的なものにおいても同様ですが、牧人権力は、「己の言語の内にあるそれを不可視化しつつ、非対称な関係で他者に語る」ということを可能にする。そういう者たちが「社会の内/外」を語る場合、むしろ別の形で社会の構造を深く内面化させてしまう政治的作用にもなる。
たとえば、「社会性」を否定しながら何かの価値を語るのは根源的に矛盾しているのですが、それを可能にする(そのようにみせることができる)のが「権威」の作用。
「アカデミアそれ自身のためのもの」であるという自己目的化、これは「領土化」の1形態ともいえますが、「社会からの無理解」は、アカデミア自体が「社会のことも、社会と自身との関係もまるで理解していないまま、権威化された社会的思考で語る」という凡庸なダブルバインド状態ゆえにそうなっている。
社会云々を上から目線で語るのはいつものことだしそもそも自由だが、そうであるなら「自らのその権威化された社会的思考を問え」ということ。
水石。たかが石が見立てによって価値を持つ。関わる人はその価値の危うさをわかっていて、いくつかの仕掛け、とくに時間という仕掛けで「価値の舞台」を維持しようとする。これは権力のミニマルなメタファーだ。そして関係者の真面目さは、まるですべてがタモリのギャグのよう。
— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) December 11, 2022
先天的なものであれ後天的なものであれ、社会によって何らかの意味・価値を与えられるのであって、生それ自体、存在それ自体には意味・価値はない。「ただそうあるもの」でしかない。
「ただそうあるもの」として「それ自体を生きている」、それに意味・価値を付加していく働きは社会的な作用であり、ある価値が権威化されることで「優劣」の非対称性が生まれる。 ある意味「水石」の話は、「価値」というものの前提に通じるものでしょう。
社会的な力学と「芸術的な価値」は分離できないように、そして価値は権威と結びついているが、あまりにべったりと同化しているので見えにくい。
「凡庸さ」という「言語」は、「他者」及び「比較」を前提とした意味・価値。「○○は凡庸/凡庸ではない」の思考は既に「社会」を内在している。
「権威化された凡庸さ」としてのアカデミアも、権威化されていない大衆のそれも同質だが、内集団・外集団の非対称な社会性によってあたかも異なるものであるかのように差異化されている。
「非凡さ」も同様に、「優れたもの」という意味・価値は、その評価なり解釈の前提に何らかの社会的な質があり、その前提なく「ただ優れたものそれ自体が在る」ということはないんですね。
このような「言語の意味・価値の外部に出る」ということが社会の外部に出るということ。しかしその内部に同化しつつ「外部」を語る者は多い。「凡庸さ」についても同様に、権威主義による灯台下暗しが問われている。
すべてがただの石に戻るのはラディカルな民主化である。だが「民」はそのラディカルさを求めていない。社会主義にはその方向性があったが失敗した。隠喩は芸術と物語をつくり、そこに権力が生まれる。それへの抵抗芸術と抵抗物語も他方の権力である。人は石を目指し、数を目指す。だが目指しきれない。
— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) December 11, 2022
見方を変えると、「どこにでもいるような普通の人、日常に当たり前にある現象」といわれるような人、現象は、実はとんでもなく非凡ともいえ、そして「社会」というものは、極めて稀有な不思議な現象であり非凡なものでもある、といえるかもしれませんね。
美や芸術、あるいは「~学」というと高尚で敷居が高いように感じますが、美学は日常に溢れているのです。風に舞う桜の花びらに思わず足を止め、この感情はなんだろうと考えたなら、そのときはもう美学を始めていることになります - 井奥 陽子