音楽の起源 シンプルな身体と高度な欺き
「生命とは動的平衡にある流れである」「動的平衡とは、絶え間ない流れの中で一種のバランスが取れた状態のことである。」 - 福岡伸一
「絶え間ない流れの中で一種のバランスが取れた状態」、この「動的なバランス」は無意識にあり、それは個体に閉じてはおらず自然界に通じています。生命力の在る森は個々の命の動的なバランスがそのまま生かされている。
しかし、「私以前」にある無意識というものを領土化して囲い込み、その解釈を独占する、というようなことを一部の権威主義的な人文系たちがやってきたことで、「それを生かしたままにしておく」というアジールの質がどんどん失われていったともいえるでしょう。
人間は蚊やゴキブリを『害虫』と呼んで忌み嫌いますが、もし彼らを地球から排除すれば、人類もいずれ絶滅してしまいます - 福岡伸一
これは蚊やゴキブリのような生き物の話にとどまらず、「自称 リベラル」や先鋭化したフェミニズムや活動家が「蚊やゴキブリのような者として扱う存在」を完全排除した場合も同様に、人間社会及び文明はいづれ消失してしまうでしょう。
ではまず一曲紹介♪ 「いのちの名前」で石川由依さんが歌っています。『進撃の巨人』のミカサの声の人です。
この歌の動画のコメントに「石川さんの歌声まじウユニ塩湖すぎて」というのがあり、おもわず笑ったのですが、たしかに石川さんの雰囲気って「ウユニ塩湖の精霊」みたいな感じがします(笑)
音楽の起源と社会
最新のゲノム解析などによって、バカ族は10~20万年前の人類から枝分かれし、長らく孤立した森の環境で暮らしてきたことがわかってきました。私たちの遠い祖先がアフリカの熱帯雨林で狩りをして暮らしていた頃の音楽の姿が、そこにあるのかもしれません。 ➡ ヒトはなぜ歌うのか? 答えのカギはアフリカに?
↑の記事内で、いろんな学者たちが「こうではないか」とそれぞれ考察していていますが、その中でルイ博士の「音楽の起源は集団の絆をつくるため」という考察は本質のように感じますね。文字言語が主体になる以前の、原初のコミュニケーションとしての音声言語。それが生み出す「声の文化」。
もうひとつ記事の引用紹介です。「社会性の起原」というテーマの記事で、社会学者の大澤 真幸 氏は「一緒に歌う身体」「ともに踊る身体」を「間身体的連鎖」の実例として説明しています。
「平等主義・分裂生成・反規範」 「社会性の起原」102 より引用抜粋
〈社会性〉はいかにして可能なのか? これがわれわれの問いだった。
その回答は、「第三者の審級」。人間的な〈社会性〉の中核的な要素、〈社会性〉を可能ならしめている契機は、「第三者の審級」にある。直接的に互いを知覚しうる程度に近くに共在し、互いに同期しあう身体たち――すなわち「間身体的連鎖」――から独立して固有に実在していると(集団を構成するメンバーたちによって)想定された、超越的な他者としての「第三者の審級」、これが回答だ。
(中略)
第三者の審級が成立するまでの進化のステップを再確認しておこう。端緒には、志向作用(心の働き)に随伴している「求心化/遠心化作用」がある。人間においては、任意の志向作用は、求心化作用と遠心化作用の複合によって成り立っている。たとえば見ること(求心化)は、見られうることへの直観(遠心化)と双対的なセットになっている。
(中略)
求心化/遠心化作用を活性化させている個体たちが集合しているときに何が起きるだろうか。このとき、「間身体的連鎖」が構成される。間身体的連鎖とは、知覚的・感覚的に共振し、同期している身体たちの連なりである。「間身体的連鎖」は抽象的で一般的な概念だが、その典型的な実例は、斉唱や舞踊である。一緒に歌う身体たち、ともに踊る身体たちこそ、可視化された間身体的連鎖だ。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
シンプルな身体と高度な欺き
楽譜が読めないらしい「あいみょん」ですが、あいみょんの「声」の力、これを舐めてはいけない(笑) JPOPの神様が宿っている変性意識を感じる声のひとつ。
まぁ「身体性」とか「変性意識」とかって、なんか特別なものでも高尚でも「深いもの」でもない。「ありふれたもの、ありきたりなもの(のように感じるもの)」の背後に常に生きている。
「どの領域に触れているか」だけの違いで、自身のそれを深いと思い込んでいるだけ。そもそもそれ自体に意味や価値はなく、ゆえに「傑作/駄作」という価値、評価もない。それをするのは既に社会化された「私の思考」による価値と解釈の権威化。
バカ族が歌う美しい「ポリフォニー」、彼らはただそれ自体を生きている。それ自体を生きている身体は、それを傑作だの駄作だの、素人だの玄人だの言わない。
固有の動的バランスを有し、それぞれの音・振動を奏でながら会話する。個のそれぞれの動的なバランス(生き物次元)と全体が調和したハーモニーはマナを持ち、そこに世界を生み出す。彼等は学校や学問を通してそれを学んだわけではない。創造性、そして「創造する身体」というものはそういうもの。
「玄人/素人」という類型で差異化したがる専門というのは、むしろ素人以上に「類型」への囚われが強いことがあるんですね。だから「無意識の囚われ」を玄人の方がむしろ直視できない、ということは案外ある。
玄人芸術家でも「○○にみせようとしている」ことはよくある。派閥意識や権威性の強さ、その臭いというのは隠せない。そこには社会的な力学も強く働いているし、その分野のフレーム、概念がもたらす思考の型・類型が前提に存在する。
にも拘らず、それが全くないかのように語ったりすることがあるが、『「意識」隠して「臭い」隠さず』って感じ。
「身体」は正直。玄人であれ嘘はつけない。しかし、あいみょんにはその臭いがしない。
「深い話」みたいなもので煙に巻きたがる人文系アカデミア人は多いが、身体はもっと正直。アカデミア人は言語や思考の生み出す「虚」の価値に囚われて過ぎていたりもする。
「量産型の美容整形」みたいな感じの、ポリコレに漂泊された人文系の語りというのは、ゆらぎの多様性を排除した「AIの文章」と質的に変わらないのだけど、一部の人文系のアカデミア・インテリはAI同様に「前提」を問わないので、己がそれと同質ということに気づかない。
「大衆」の言語の方がノイズ量が遥かに多く揺らぎの幅も大きく表情が豊かだが、AIの文章は「表情筋を失った整形された顔」のような感じでしょう。
とはいえAIは使い方次第でツールとして役に立つし、権威を持たず内心への干渉もしないので、ポリコレに漂泊された人文系の語りより遥かにマシ。そもそも顔であれ文章であれ、整形することそれ自体は個人の好みの問題で、善でも悪でもなく自由。
『ポリコレ型道徳に基づく「人文系アカデミア版の人生訓」とか「人格の陶冶」』は、「大衆の処世訓」より遥かに質が悪いが、このような灯台下暗しや非対称性もまた「権威」によって維持されている。
「詐欺師」のような人だけが人を巧妙に欺くのではなく、「高度な言語操作能力・言語的知性」というのは、発話者それ自身をも欺き続ける力があり、その意味では「素人」の方が見破りやすいのでまだ質が悪くない。これは「言い訳」も同様に。
なのでしっかりと見極めるべきは、人文系インテリのレトリックを用いた「高度な欺き」。この手の人文詐術の方がより広く「他者」を欺いている、ともいえるからです。