天性の偶然性と「世界の見え方が異なる者たち」   

人が何かに感動したり何かが好きだと語ったり、何かに面白さを感じているからといって、そこにみなが「似たような動機」を持っているとはかぎらず、「人は自身と似た対象を好む」とはかぎらない。

しかし、「自分がこういうタイプの人間で、どうしようもなくこうある」、だから「それと似た人の考え方とかアート作品とか人文的な思想が好き」、みたいな共感ベースで何かを好きになるという、その手の「自分自身を補強すること」を最優先する人は、リアルでもネットでも多くみかける。

心理学者とか心の専門家とか精神科医とか社会学者とか芸術家とか、そういう人たちの中にも、「己自身を肯定する(それに繋がる)ような見解」に集中的にスポットを当てたがるのを見聞きするとき、私はそれが不思議なんですね、「自分とは異なる者の方に興味・関心のウエイトがない」ということが。

アジェンダ設定もそうですが、このような力学には「領土化」が絡んでいるともいえるでしょう。

「自分がこうだからこそ、真逆の対象を面白いと感じる」というのが、フレームを突破する「好奇心の力」ですが、「党派性」とか「権威者の保身」とか「自己正当化」みたいなものの方が勝っちゃてる。

 

ではここで、そんなシャバい連中のことなんて忘れる「ちゅ、多様性」のcover動画を紹介♪ 魚の絵もいい感じなんですが、サビのところで思わず吹き出しました(笑)

 

 

天性の偶然性と「世界の見え方が異なる者たち」 

「私の思考」、「自我の内容」なんてただの「後天的な偶然」の産物。「こういうふうにしかあれない自分」「どうしようもない自分」だからこそ、『「こういうふうではない他者」が「触れているもの」』への「どうしようもない好奇心」が生じる、という人は「私の思考」を超えたところで「探究それ自体」を生きる。

この種の「どうしようもなさ」は「天性の偶然性」。だからそういう人は、「私の思考(自我)」が危うくなるようなものに無意識が動く。

 

 

まぁ「発達 / 定型」という文脈の話ではないですが、「世界の見え方」って、実存の次元では誰もが違う。

「世界の見え方が違う人に囲まれてる」という感覚には多元的な質がありますが、複数のレイヤーの使い分け方が人によって異なり、それをそう感じるという話であることも多い。

複数のレイヤーを使い分けるというのは、厳密には、嘘(茶番)を上手に使うということを多少は含んでいるでしょう。「配慮」もその多くは嘘(茶番)が含まれていたりもしますが、定型の人も何らかの理由で深いレイヤーだけが剥き出しの状態にあるとき、「世界の見え方が違う人に囲まれてること」に「疎外」をリアルに感じることはあるでしょう。

剥き出しの実存になりやすい人は、嘘(茶番)を含んだ領域をそのまま他者の実存それ自体だと勘違いし、その部分を見て「世界の見え方が違う」と思うのかもしれませんが、深部にいけばいくほど、そもそも「他者」は最初から「世界の見え方が違う状態」で互いに存在している。

実存次元で完全にわかり合っている、なんていう関係はそもそもなく、違う者同士が複数のレイヤーを通じて部分的に共感しているだけで、実際には実存的孤独を誰もが生きている。しかしそれを相手に露骨に見せないようする割合が人によって違う。

 

 

「不器用さ」=「正直さ」「誠実さ」と翻訳する人は、その割合が少ない人に多いけれど、「他者」の多層性に触れていくならば、その翻訳の仕方自体が「単純化」であり「一般化」のひとつでもあることに気づくでしょう。

たとえば「とても明るい人」、「感じの良い人」がいたとして、「しかしその裏にはこういうものがある」的な、巷でよくあるアレですが、「人の表と裏は真逆の対」みたい構造観で、「表が綺麗なら裏は醜い」みたいな、ああいう二元論でのカテゴライズこそが他者の単純化であり一般化です。

 

話を戻しますが、「それを相手に露骨に見せないようする」の「器用さ(にみえるもの)」は、不誠実さや不正直さではなく(その場合もあるが)、むしろ、「世界の見え方が違う状態で互いに存在している」ことを前提にしているからこそ身に付いたもので、

「他者の実存領域に安易にわかったつもりで踏み込まない」という距離の取り方によって生じくる。その「距離感と境界の強弱のバランス感覚」には「非言語的な他者への優しさ」が自然に内在しているということ。

そしてその割合が少ない人の方が、「複数のレイヤーの質とか使い分け方が合わない」=「世界の見え方が違う」と決めつけやすい、といえるでしょう。

こういうタイプの人が、「あんなのは不誠実で不正直な表面的な連中だから、どうせすぐにここを去るだろう」という感じに否定するのを見聞きしますが、確かに「その人においてはそういう現実になる」ことが多いでしょう。

何故なら「そう決めつける人」だからです。そんな不誠実な人だからこそ予言は自己成就し、それを「信仰」し続けることで固定観念が岩のように強化されていく。その結果、異論は一切認めないという「不正直」さに自ら一体化していく。

つまり己こそが不誠実かつ不正直で、それを自己投影して他者を否定している。「己の世界に対する否定」がそのまま己に現象化しているだけ、ということ。

「非言語的な他者への優しさ」が内在している人は基本的に「無理強い」をしない。自他境界がバランスしている人は、課題の分離が出来るので、「絶対にその捉え方を変えない人」にはそう見るままにさせて、そこを離れる。

「自分の思うように動いてくれない」、「何でも深く共感してくれない」、それは、自他境界のバランスがあるからであって、そこが気に入らないというのは、「自分のことをなんでも素直に信じて肯定する、意のままに操作できる他者」を求めているということでもあるんですね。

「ただ優しい人」「ただ不器用な人」「ただ暗い人」は、「ただ器用な人」「ただ明るい人」に対して「あれは演技でしかない」とすぐに決めつけたりはしないけれど、「自分の課題を他者に背負わせようとする人」はすぐにそうする。

そうやって自分アゲを行い、「自分にはないものを持っている人」をサゲるのが「思考の癖」になっている。「脱価値化」は防衛機制の一種ですが、この種の他者否定の仕方は、己自身を丸っと肯定できていない卑屈さから生じる。

しかし卑屈な状態は辛いから、それを他者に投影することで否定性を排除するという課題の丸投げを行う。それによって「他者が(自分とは異なる形で)ただそうある」ことも自身同様に肯定できなくなり、そのひとにとっては他者はほんとうにそうようにしか見えなくなる。

しかし深部の話ではなく、相手が深いレイヤーを見せていない段階で、「世界の見え方が違う人たちに囲まれて全く共感し合えるものがない、私は孤独だ」と思いこんでいる場合、もしかすると見せていない深部のレイヤーにおいては、意外に共感し合えるものがあるのかもしれません。

心を開くタイミングや、どのくらい開くか等も人それぞれでしょう。「開けっ放し」みたいな人もいますが、なかなか開かない人、開いてもすぐに閉じる人、境界の厚さや強度にもいろいろあります。

信頼関係が出来ていない状態では、ほんの少しだけ深いレイヤーでも一切見せないという人も結構いる。だから、「見え方が違う」と感じる以前に、まだ心を開くところまでいってないだけなのかもしれませんね。

 

「世界の見え方が違う」というのであれば、以下の動画の不可解さは凄いでしょう。ここまで「ちょっと何言ってるのかわからない他者」との遭遇はなかなかないでしょう。私の中では小泉進次郎 氏の面白構文を超えました。

この動画では、「息を吐くように嘘をつく」ではなく、置かれている状況を全く解することなく「マイペースに嘘をつき、訂正もなく矛盾もそのままにして最後まで突き進む」という何とも斬新な嘘が登場します。

 

 

「実は..僕のお母さんは僕が生まれる前に死んだ」から始まる謎の嘘が連続的に展開されますが、嘘をつく動機が見えないんですね(笑) そして双方にメリットがなにもない「純粋にただの嘘」に翻弄される審査員が笑えます。

一見すると、なんか弱弱しくオドオドして真面目に見える感じなのに、明らかな矛盾を意にも介さずに最大限の自由さと大胆さで勝手に進行していくマイペースさ。そのギャップ感もいい感じです。

最後の笑顔も実にいい。母親も凄く優しそうな人。「審査員の問い」など相手にもせず、オーディションの場を全く真剣に受け取めてないふざけた感じがなんともいい。私が審査員ならこれだけで「合格」出します。

まぁしかし、特に斬新なことなどなくても、根源的には他者は意味不明でわかりあえないものを前提に宿していますが、逆に言えば「そうだから面白い」ともいえます。