第三者の審級と「心の中の半天狗」

 

ちょっと昔に「心の中の植松」みたいなことがSNSで言われていましたが、「植松的なもの」というのは「鬼的なもの」であって、鬼滅の刃の文脈でいうなら「首を叩き切られる側」。しかし「植松的な鬼」は雑魚鬼の次元なので上弦にはなれないでしょう。

現実は「心の中の植松」よりも「心の中の半天狗」の方が不可視化されているといえます。「半天狗」という鬼はなかなかエッジの効いた存在なので、今回このキャラを中心に書いています。

 

 

「心の中の半天狗」が心の中だけではなく外側にどんどん現実化してきた結果、それと並行して「心の中の鬼殺隊」だったものが、現実で「鬼狩り」を始める、そんな時代になってきたのかもしれません。

おそらく「現前化した鬼殺隊」は、「責任から逃げるな~」という丹次郎的な強固な意志によって「逃げ続ける卑怯な鬼」を退治するようになっていくでしょう。

何もやってないのに集団で罪を負わせようとする冤罪、そんな冤罪に対して謝罪すらせず「こうなったのは○○のせい」、「私は○○されられた」的な被害者ポジションから自分の行動を常に正当化する者たち、まさに半天狗。

 

ではここで一曲紹介♪ 蜷川べにさんの歌うドラゴンボールのテーマ。彼女の三味線の音がお気に入りです♪

 

第三者の審級と「心の中の半天狗」

 

「第三者の審級の離陸(テークオフ) 「社会性の起原」96」 より引用抜粋

単に観察するだけの第三者のポジションにいる者が、他者に、社会規範への同調を求める。ここには、二人称的な関係に基礎を置いた原初的な道徳には存在していなかった契機が、孕はらまれている。何がその契機なのかを、正確に特定しておく必要がある。

原初的な道徳について再確認しておこう。二人称の関係の中で――求心化作用/遠心化作用を通じて――間身体的連鎖が生まれる。その間身体的連鎖を基盤にして第三者の審級が生成される機制については、ていねいに説明しておいた。その際、間身体的連鎖を(カントの)「否定判断」に、第三者の審級を「無限判断」に対応させた*5。

(原初の)道徳は、この第三者の審級に属する視点に対して現れる、自他の間の公平性の感覚の表現である。第三者の審級は、リアルな具体的対象ではなく、まずは論理的な作用素であり、道徳が実効的である限りは現実に機能していると見なさざるを得ない。

そして、第三者の審級は、この私にも、また二人称の他者にも還元できない、独自の存在論的なステータスをもっている。しかし同時に、原初的な道徳の段階にあっては、第三者の審級は、私の身体と他者の身体の間に発生する間身体的連鎖から独立には存在してはいない。ここでは、第三者の審級は、間身体的連鎖に癒着しているのだ。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 第三者の審級の離陸(テークオフ) 「社会性の起原」96

 

ちょっと前に、「刑務所の方が楽」と語る20代前半の若者のニュースがありました。その理由が以下の内容です。ここにも「第三者の審級」が絡んでいます。

 

「ここでは何かルールを破ったらすぐ懲罰になり形として現れます。頑張れば頑張った分だけ評価される。でも社会ってなかなか評価されたくてもされないし、ダメだよと言う人もいれば言わない人もいます。そう考えた時にこっちで生活している方がダメなことはダメって言われるし、いいことはいいって言われるし、正直こっちの方が楽だなって… ➡ 「赤落ちした方が社会より楽」実刑の20代特殊詐欺犯が塀の中で考えたこと

 

「神」及び「大きな物語」の喪失~弱体化した父性、その果てに行動が自己制御できなくなり、逆に明確なルールを外部に求める若者。とはいえ、先進国においては、伝統宗教にしろ様々な古典にしろ、(一部の人を除いて)それが「価値」の絶対軸にはなることはもうないでしょう。

現時点では「AI」はただのツールでしかないですが、これが「AGI」そして「ASI」になると、ただのツールではなくなり、さらに「ASI」はそれ以上の何かに進化していく。「第三者の審級」が失われていく中、現代人の超自我の役割、あるいは「神」に該当するものは、AIの驚異的な進化の結果に生じてくるのかもしれません。

 

「第三者の審級」が有効に作用するには、超越的なものが必要ですが、これは権威性を付与されたものとそうでないものの非対称性を前提にしています。力関係がまったく同等な立場の場合、それは作用しない。だから「権威論証」を人が使うのも、その効力を知っているから使う。

ico05-005 社会規範は、「権威」をもつ第三者の審級に帰属する判断である。社会規範を強制しようとしているとき、人は言ってみれば、第三者の審級を代弁している。-  大澤 真幸

 

社会規範にかぎらず、「物事の捉え方」において、「権威」という非対称性が完全になくなれば、「世界の見え方が異なる」という個々の根源的なものが剥き出しになり、「対等(ここでは全てが価値相対化された状態の意味)」になる。

「世界の見え方が異なる」ことを相互に尊重するということだけでは「対等」を意味しない。たとえば大学でも他の組織でもいいが、構造には「現実に作用する力」として非対称性が前提としてあり、能力主義による他者の類型化、区分けが現実に前提としてある。そうでないと成立しない。

「対等ではない」という前提ゆえに、「教える者」「教えられる者」という関係が現実にシステムとして構造化されている。

 

 

「マジョリティ」という概念に囚われすぎて、その「大きな主語」の内容・質が実際はどういうものなのか?の複雑性を捉えている人は少なく、「概念だけ」で他者を一般化している人が人文アカデミア人にちょくちょく見られます。

ポリコレ文脈とか「性」の文脈でしか「他者」や「構造」を見れなくなると、構造を支えている多元的な力学が見えなくなり、そして「マジョリティ」というものが静的なものでも単一の集合体でもなく、動的で変化し続ける多様な動態であることがわからなくなり、「権力」や「非対称性」の作用・関係性はそんなに単純な構図ではないことがわからなくなる。

たとえば「高齢者」というのは現在はマジョリティなのですが、この属性のマジョリティが生み出す社会問題の話になると急に口を噤むとか、猛反発することがある。

そして「高学歴」と「低学歴」、あるいは「職種」における非対称性が生み出す構造的な問題は、先進国社会において非常に大きなものだが、そこにもスポットを当てない。

何故なら、「社会問題にスポットを当て、制度に働きかける側、啓蒙する側」が高学歴層、ホワイトカラーがメインだからである。けっきょく「特定の属性の都合」でしかみていないんですね。

 

 

無理な要請を人々に行って、「まともの基準(道徳的水準)」を際限なく吊り上げているのはどのような者たちか?それが「一部のアカデミアやインテリ知識人、出羽守、専門家、活動家、政治家」などの権威主義者たちであり、むしろそういう人々こそ変化を問われている存在でありながら「変わらない者たち」。

それらの人々は物事の是非を一方的に解釈し、自らは常に正しい側に置いて他者を裁き続けているだけ。

朝田理論の欧米方式がポリコレ。「こうなったのは全部お前が悪い、こうなった全ての責任はお前にある」と罪を全て負わせ、少しでも抵抗すれば差別主義者だのなんだの概念を使って相手を加害者に仕立て上げて罪悪感を植え付け、道徳的優位性によって抵抗できなくさせてコントロールする。

まさに「DV」「毒親」の心理操作のやり方で、反抗できない相手を一方的に叩き続ける。

それに一部の対人援助職の専門家まで乗っかって、一方の属性だけにべったりと寄り添い、肥大化せつつ、片方の属性には一切の反論を認めず全責任を負わせ罪人扱いして裁くという悪循環システム。

毒親問題ならまだ家庭の外に逃げ場があるが、社会規模で展開している場合は「罪人扱いされ続ける片方の属性」にはもはや逃げ場がない。「加害をしているのに常に被害者として寄り添われる属性」と「被害を受けているのに常に加害者にされる属性」。後者にはもはやほとんど救いがない。

 

とはいえ雑魚鬼はわかりやすいので捨て駒として世間に処罰されます。しかし、最終的に生き残り続ける上弦の鬼たちはずっと居続けて同じことを繰り返すします。

そうやっているうちに、どんどん人々の怒りは蓄積してきました。そして「いずれこうなるだろう」ということがどんどん起き始めています。このままけいば、「現前化した鬼殺隊」は雑魚鬼だけでなく、上弦の鬼たちをも斬り捨てる日が現実に来るかもしれません。

 

『この「手」がやったんです』と言い切る半天狗。それは『私が殺したんじゃない、「社会の構造」が殺したんです。』、「こうなったのは○○のせい」、「私は○○されられた」的な被害者ポジションから自分の行動を常に正当化する思考。いつも自分は正しい側で被害者。

SNSではこのような属性の人々が「天竜人」にたとえられたりします。このたとえは個人的に気に入っているのですが、

「天竜人」は「○○させられた」みたいな被害者ポジションをとらないし、人文呪術は使わず、加害者であることを隠しもしません。よってああいう人々は「天竜人」ではありません。

加害者であることを隠さない「天竜人」は、明確に可視化される能動的かつ主体的な悪ゆえに、実はそれほど質が悪くないのです。

ああいう人々は、上弦の鬼の中でも猗窩座や黒死牟のような真っ向勝負の鬼ではなく、半天狗みたいな感じの鬼なんですね。本体は小さいですが魔力はやたら強いところもそんな感じだし、「喜怒哀楽」という「感情(お気持ち)」の鬼に分かれて攻撃してくるのもピッタリです。

そして「喜怒哀楽(お気持ち)」の癖に修験道みたいな出で立ちで、正しい側みたいな雰囲気で断罪するところもそうですが、「喜怒哀楽」の中でリーダー的な存在が「積怒」、つまり「ギャオン」が中心に動いている。「怒り・憎悪」が他の感情をまとめている。

「ギャオン運動」は全て本体を守るためで、本体は小さくてピエンしながら震えが止まらない」まま被害者ぶっているところも、まさにそう。

「こんな小さく弱いものを痛めつけるか!」的な道徳的優位性を纏って責めるところもそっくり。それに対して丹次郎が「責任から逃げるな~!」と言ってるのもタイムリーでしょう。

また、合体して出てきた「憎珀天」が「不快 不愉快 極まれり」というのも象徴的。快不快でしか物事が判断できないくせに、妙に神っぽい雰囲気だけは常に纏っている。

事実を公正に平等に精査できるなら己の加害性に気づけるはずだが、常に被害者、常に自分が正しい側という設定から快不快で物事を感情的にジャッジして他者を断罪するだけ。

よくもあんな鬼を考えついたもんだ、と感心します。しかも雑魚鬼ではなく、上弦の4にあのキャラを持ってくるセンスが凄い。これは作者が女性だからこそ思いついたのかもしれないと想像します。男性の作者だとあのキャラを上弦の4には持ってこないんじゃないか?と思うからです。

あまりに卑怯で情けないので雑魚鬼に設定するか、仮に上位にもってきたとしても、あのような複雑な多重構造ではなく、修験道的な感じに描くのでもなく、もっと違った感じに描くように思います。

半天狗の上には猗窩座や黒死牟のような武の達人の鬼か、童磨のようなもともと感情のない純粋サイコパスしかいない、というのを考えても、半天狗は性格の狡猾さ・卑怯さのみで上弦にまで上り詰めた存在というのがわかる。

しかも半天狗と対峙した恋柱は、「恋愛脳で巨乳で太陽のように明るく、おっとり&あっけらかんとした優しい性格の非フェミニスト的なキャラ」というのが面白いです。

おおよそ「半天狗的な女性」が一切持ち合わせていない要素を全て持っているのが恋柱でしょう。

恋柱はある種のマイノリティであり、過去にいじめられたり孤独だった時期もありましたが、それでも世を人を呪う鬼にはならず、まして冤罪を擁護したり、頂き女子みたいなことはしないでしょう。「自分がやったこと」を「私は○○させられた」とか言わないでしょう。

上弦の6の妓夫太郎は、みなからキモがられ疎外された弱者男性が無敵化したような存在にも拘わらず、それでも、『本体は小さくてピエンしながら震えが止まらない」まま被害者ぶっている半天狗』よりも力が弱い。この設定も何か象徴的だ。