露悪さという凡庸さ 東京都知事選と変化の兆し

 

まぁなんだか東京都知事選の一連の流れを見ていたら、東京はこのまま進んでいくとGANTZみたいな世界になっていくんじゃないかという感じもしなくもないですが(笑)、 カオスというか、なんとなくサイケデリックトランスな感じもしたので、関連動画を紹介♪

 

 

露悪さという凡庸さ

露悪的な語りとか、「下品さ」を隠さずに何でもあけっぴろげに見せるのが正直でかっこいいみたいな、ある種の「上品さ」への対抗としての「抵抗の芸術」みたいなアレも、よくありがちなもので、

粗暴なヤンキーを毛嫌いする連中が、同じことをツィッター等の言語ゲームでやっているだけともいえる。そんな「ツィッターデビュー」みたいな感じの「SNS言語系ヤンキー」たちは、大学デビューの「陽キャのキョロ」よりもシャバいところがある。

SNS言語系ヤンキーの過激さも、けっきょく「陰キャのキョロ」がオラオラ系になったパターンのひとつでしかなく、「サピエンス的凡庸さ」を生きているだけだから、それなら「サピエンス的凡庸さ」を身体で生きているヤンキーの方が、まだ生き物として正直で自然な存在だともいえる。

 

 

ポリコレも、意識高い系の高学歴左派によるトーンポリシングの一種ともいえる。

「こんなこともできないの?わからないの?」「勉強しないとああなるよ」「あらまぁ、なんて育ちの悪い人たちですこと」の見下しの感情でしかないものを、あたかも「他者への価値判断の絶対基準」かのようにして、

自分たちを「正義」「よいひとたち」とし、「自分たちの道徳基準に達していない者たち」を「悪」「劣」として排除することを合理的に正当化する差別思想。

平たくいえば「いいひとたちだけで国をつくりたい」に基づく左派版の同化政策であり、「不快な人、表現は徹底排除したい(ただし自分たちのそれは例外)」という文化左翼たちによる粛清なんですね。極左も極右も似た者同士、けっきょく最後には気にいらない者を排除し殺すだけ。

 

「己を治外法権的な立ち位置において、相手にだけは法を課す」、みたいな無責任な人たちが、「移民が~、人種が~、マイノリティーが~、マイクロアグレッションが~」とかを掲げて、インクルージョンを啓蒙したりもするわけですが、

こういう人たちは、自身をリベラル側だと思ってたりもしますが、質的には全くリベラルではなく、池上彰 氏がかつて語ったように、「リベラル=左翼と呼ばれたくない人たちの自称」であることも多く、

また、リベラルは少数派で、多数派(非リベラル)と戦っているつもりの人もいたりしますが、実際には多数派は大体がリベラルなんですね。だから構図としては、「リベラル(多数派)と戦っている左翼(少数派)」というほうが近いでしょう。

嫌われているのはリベラルではなく、(左右にせよそれ以外にせよ)極端な人たち。とにかく自分たちだけが常に絶対正しいみたいな硬直した状態で、他罰的・攻撃的なスタイルの人たちです。

 

「反権威にみられる権威主義」、「反権力にみられる権力性」、「反差別にみられる差別意識」のように、○○の逆を表明さえすれば「○○の逆そのもの」を我々は生きている、という思い込み、それはむしろ自らの○○に気づけなくするゆえに、○○よりも肥大化しやすい。

「気に入らないものを完全に駆逐するということがどういうことなのか」を理解できない凡庸なサピエンスに権力を与えてはいけないんですね。

 

東京都知事選と変化の兆し

ここで話は変わりますが、都知事選を見て思ったのは、ひとつはモナーキーとアナーキーの力学、そしてもうひとつは将棋の世代交代とよく似ていて、デジタルネイティブ世代が文化をリードしていくだけなく、いよいよ政治闘争における手法においても世代交代を促していく流れですね。

将棋界と藤井聡太七冠から見える「デジタルネイティブ」と「デジタル技術の使い方」

興味深かったのは、「デジタル民主主義」を掲げる安野貴博氏ですが、「デジタル民主主義」の第一人者といえば、台湾の天才オードリー・タン 氏で、日本でも遅れてその流れが生まれているということ。

オードリー・タン 氏はアナーキストですが、かれの考えるアナーキストは「無政府主義」ではないんですね。彼は「権力に縛られない保守的なアナーキスト」と言われていますが、「保守」というより「持守」に近いとのことです。

 

私の考える「持守」とは、様々な文化が一つか二つ前の世代から、次世代や次々世代まで途絶えることなく受け継がれていることです。進歩という理由で文化を壊したりせず、コンサバティズム(conservatism)という語の本来の意味である「伝統文化を守る」ことなのです。 ➡ 台湾、オードリー・タン「アナーキズムは無政府主義ではない」

 

「彼の考えるデジタル民主主義がすごく好きだ」 オードリー・タンが都知事選候補で注目している「天才AIエンジニア」

 

安野貴博氏は9歳で独学でプログラミングを学び、東大卒業後はAIエンジニアへ。彼は「AI」を駆使して選挙を戦いました。

安野貴博氏に政治的な手腕のようなものを感じるか?といえば今のところ全く感じませんが(笑)、しかし彼の目標である「デジタル民主主義」、たとえばネット選挙にしても、まずは彼のような視点と専門性をもった人が登場しシステムを構築していかないと出来ないでしょう。

AIがAGI(汎用人工知能)からASI(人工超知能)へと進化していく先に、何かとんでもないものが生まれてくると予感していますが、そのとんでもないものは、その能力と作用において、「神と悪魔が合体したようなもの」とも表現できるかもしれません。

どちらにせよ、AI技術の驚異的な進化によって生じてくるだろう未知のサイバー攻撃や犯罪は、現在のそれと比べて異次元の力を持つことでしょう。この分野の若者をもっと積極的に起用してシステムを構築していかないと、もはや全く太刀打ちできない状態になるでしょう。

ico05-005 まず日本の皆さんにお伝えしたいのが、私にとってITとデジタルとはまったく別のものであるということです。「IT(Information Technology、情報技術)」とは機械と機械をつなぐものであり、「デジタル(Digital)」とは人と人をつなぐものです。 - オードリー・タン

 

今後、社会の構造を根底から変えるような大規模な革命は、AIの技術的進化に絡んで起きるでしょう。それはさておき、まずAI社会システムを構築していくことから始まります。その意味で「デジタル民主主義」の先駆けとなる人々は、みな「革命家の卵」ともいえるでしょう。

 

 

日本の「デジタル民主主義」が遅れていることはマイナスだけでなくプラスに働いていることも結構あるように思います。欧米のポリコレやJリベラルの先鋭化を見ていると、ネットとリアルにかなりの温度差がある日本の状況が、むしろその暴走にブレーキをかけている面があるし、

「デジタル民主主義」の遅れによって、物事が一気に進まなかった結果、ポリコレ、Jリベラル全体主義のおかしさに多くの人が気づく時間が十分にあったことは、結果的によかったんじゃないかと思います。

日本のように多様性がなく同調圧力の強い国においては、デジタル化があまりに早いと、「デジタル全体主義」になり、「民意」が暴走してスターリニズムの再来とか文革の紅衛兵みたいな集団的狂気に突っ走っていく可能性もあるので、

多くの人が、その手の人々の極端さや政治的扇動のパターンに慣れてきた時点で徐々に移行していく流れは、まだ救いがあるともいえるでしょう。