「関心領域」の多元性   

ゆらぎの幅が大きく、意外な角度から他者や物事を捉える狂人、変人、天才タイプは、「そういう見方があったのか」と面白く感じることが多いですが、フレームは誰しもが持ち、そしてフレーム同士にも権威による非対称性が生じている。

闘争心が前に出過ぎる人は、「特定フレーム内の言語ゲームで勝つ」ことが優先され、「他者不在」の一方的な論理展開になり、視点が部分に固着したまま完結してしまうことがよくある。

にもかかわらず、権威性が付与された属性はそれを覆い隠してしまう(しまえる)が、SNSやメディアで目立つ人文系の高学歴者にもけっこう見られ、それが慢性化した人は、「文脈の解釈の仕方と反応の仕方」に如実に現れてくる。

 

ではまず一曲紹介です。紫 今「魔性の女A」です。 この動画のコメントで「天竜人も見惚れちゃう」というのがあって、笑いました、座布団5枚!天竜人も食らう魔性の音♪

 

 

今年の五月から公開の映画「関心領域」ですが、「冷酷な二面性」というのは、内意集団・外集団バイアスの作用ともいえるでしょう。

旧約のヨシュア記、新約のヨハネの黙示録もそうですが、聖書の神は虐殺、略奪、戦争を肯定し、異教徒は殺してもいいとしていますが、このような宗教観にもそれが内在されていますね。

第1回十字軍(1096-1099年)では、エルサレムを奪還するために派遣された十字軍が、イスラム教徒やユダヤ人を大量に虐殺しました。アルビジョア十字軍(1209-1229年)は、カトリック教会が異端と見なしたカタリ派を根絶するために行われたもので、多くのカタリ派信者が虐殺されました。

イベリア半島でのレコンキスタ(718-1492年)では、イスラム教徒やユダヤ教徒がキリスト教への改宗を強制され、拒否した者は追放や虐殺の対象となりました。

そして、アメリカ大陸、アフリカ、オセアニアなどでの植民地支配において、キリスト教宣教師が現地の宗教を否定し、強制的にキリスト教に改宗させることが行われました。例えば、スペインの征服者たちはアメリカ先住民に対してキリスト教への改宗を強制し、拒否した者は虐殺されました。

 

これだけでなく異教の伝統からでもアリストテレス, さらにトマス ・アキナス,ジョン・ロックらが, それぞれ理性,キリスト教神学, 自由の立場から, 社会秩序の維持のために奴隷制を容認する姿勢を示しているのであるから, 奴隷商人たちが,正当性を感じ, 全く良心に恥じるところがないのも, 無理もないことかもしれない     ➡ Thomas C. Batterton 覚書 植月恵一郎

 

このように、権威というものは、それが宗教であれ学問であれ、その非対称性によって特定のフレームを他者に内面化させる作用がある。

モンテスキュー『法の精神』 (第5章「黒人奴隷制について」)から一部を引用していますが、彼は以下のように述べています。

 

『 ヨーロッパの諸民族はアメリカの諸民族を絶滅させてしまったので、あれほどの広い土地を開拓するのに役立たせるため、アフリカの諸民族を奴隷身分に置かなければならなかったのである。

現に問題となっている連中は、足の先から頭まで真黒である。そして彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持主である。極めて英明なる存在である神が、こんなにも真異な肉体の内に、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない。  ➡ Thomas C. Batterton 覚書 植月恵一郎

 

これが「フランス啓蒙思想の代表的存在」の考え方だったわけですが、このような思考の型にもその前提に、キリスト教を含んだ複合的な「権威化されたフレーム」がある。

欧米なんてらら~ら~らららら~ら~

 

いいひとだけで国を作りたい」というJリベラルの本心、そして「多様性」を掲げる運動にも通じるものがありますね。内意集団・外集団バイアスが強化された人々。そういう人々は、デスノートが空から落ちてきたら、その日のうちに「外集団」の名をノートにびっしりと書き込むことでしょう。

「いいひとだけで国を作りたい」「それ以外の者たちを排除したい」にデスノートという武器が与えられた時、夜神月を生み出す。Jリベラルは「自称 リベラル」というだけで、その質は全くリベラルではありません。

デスノートは存在しませんが、絶対的な権力はそれに近い。だからこのような人々が強力な権力を持つと、文化大革命スターリンみたいなことをしかねない。ノートを殺戮に使用しないエルのような者たちだけが理性の持ち主。

 

ところで話は変わりますが、過去に「エルサレム〈以前〉のアイヒマン」という本を紹介し、「悪の凡庸さ」はひとつのステレオタイプでもあるという視点から記事を書きましたが、前回の記事タイトル風に言うのであれば、『「悪の凡庸さ」という凡庸さ』という感じですね。

「関心領域」というものには様々な次元があるでしょう。「自分と似たような人々」、「分業化された専門フレーム」もまた、ひとつの「関心領域」、そして内意集団・外集団バイアスを生み出す。

そこで深めた知に基づいて、「フレームの外部」を解釈し、「記述」してしまうのは仕方がないにせよ、フレーム内では深い知・高い知であっても、その外部では必ずしもそうではないし、通用しないことがある、ということを「認めたくない」とき、それは「他者不在」の論理展開になりやすい。

 

過去記事 ➡ 「悪の巧妙さ」 ありふれたものにみえるありふれてないもの

サイト ➡ 映画『関心領域 The Zone of Interest』

 

「関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘  より引用抜粋

甲南大学教授は「ヘス夫妻は隣で起きているホロコーストに『無関心』だった、とする指摘も見られるが、それは違う」と話す。映画が描くナチの実像、そして彼らについて語られてきた「悪の凡庸さ」論の危うさについて聞いた。
(中略)
自分の思い通りになる子どもには愛情を注ぐけれど、それ以外には非常に冷酷な、二面性のある人物として描かれています。
(中略)
ナチが自然保護に熱心だったことはよく知られていますが、我々が考える自然愛護とは相当違う。人為的に介入しなければ自然は守れない、という発想なんです。

ヘス一家は庭の手入れを欠かさず、雑草をこまめに抜いたり、収容所の壁際に咲くバラの手入れをしたりします。それは、美しいドイツを実現するために、「劣等」な人々を取り除いて「優れた」ドイツ人を入植させる、という考えの表れでもあります。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 「関心領域」のヘスは無関心でも「凡庸」でもない ナチ研究者の警鐘

 

 

ところで、ヒトラーのナチス政権がニュルンベルク法を制定する際、「アメリカの人種法に着想を得た」という事実は、多くの歴史家や研究者によって指摘されています。ジェイムズ・Q・ウィットマンの著作「ヒトラーのモデルはアメリカだった」では、この点が詳細に調査されています。

例えば、異人種間の結婚を禁じる法律や、一定の条件を満たさない人々に投票権を与えない法律などが、ナチスによるユダヤ人の差別政策の先駆けとなりました。また、アメリカの「血の一滴の掟」は、ナチスによる「純血の追求」の法制化にも影響を与えたとされています。

ナチスのニュルンベルク法は、ユダヤ人とドイツ人の結婚を禁止し、ユダヤ人を二級市民として扱う内容でした。これらの法律は、ユダヤ人を社会から排除し、最終的にはホロコーストへと繋がる政策の基盤となりました。

このような歴史的背景を理解することは、現代においても重要です。また、法律がどのように社会に影響を与えるか、そしてその影響がどのように歴史に刻まれるかを考えるきっかけともなります。

 

なんだかマクロなレベルでの皮肉な構造ですね。世界に巨大かつ根源的な問題を生み出しているにも拘わらず、「異教徒」の国を遅れた未熟な国として見下し、「我々が啓蒙してやらねば」という態度をいまだに継続していてる。

一部の欧米出羽守、インテリ、知識人たちも同様に、「自らの二面性とそれが生み出している影を決して見ることのない救いがたさ」というものがありますね。