「悪の巧妙さ」 ありふれたものにみえるありふれてないもの  

 

私たちは..」というような表現を嫌がる人がいますが、とはいえ案外「私たちは..」といえるような傾向性が「私たち」にはあります。

サピエンスとしての類型、原初の思考の型、ミーム、防衛機制、バイアス、そして「それぞれの国、社会、集団のエートス(ヴェーバーの定義における)」のような構築的な類型があります。

 

過去に「帰属理論」について少し書いたことがありますが、私たちは通常、内集団のメンバーに対してはその行動や現象の原因を推論する(原因帰属)ときに「外的帰属」をしやすく、外集団のメンバーに対しては「内的帰属」をしやすい傾向があります。

これを積極的偏見と呼びます。

積極的偏見は、内集団のメンバーに対しては好意的で理解的で寛容であろうとする一方で、外集団のメンバーに対しては批判的で偏見的で厳格であろうとする傾向です。

積極的偏見は、自分たちのグループを正当化し保護し強化することで、社会的アイデンティティを高めようとするものでもあります。

ではここで一曲紹介♪ JOAN BAEZの歌う「ALL MY TRIALS」です。この曲の作者は不明で、バハマの子守唄に由来するともいわれています。

「All my trials, Lord,/Soon be over」というフレーズは、どんなに苦しい状況でも、その苦しみはもうすぐ終わる というメッセージを伝えています。声のゆらぎが素晴らしい歌手ですね♪

 

「悪の巧妙さ」 ありふれたものにみえるありふれてないもの

文化大革命で最も恐れられた女性「江青」は毛沢東の第4夫人で、彼女は四人組のリーダーとして、紅衛兵や造反派を扇動し、毛沢東に反対すると見なした多くの党幹部や知識人を攻撃しました。

彼女は文化界や芸術界にも強い影響力を持ち、紅色女皇とも呼ばれ、自分の好みに合わせて芸術作品を改変したり、批判したり、自分の思想に沿わない作品や人物を迫害しました

フランス革命は一般的には「自由や平等を求める正義の闘い」のように語られますが、その理念はどうであれ、革命の名のもとに行われたその「行動」をみるなら、多くの暴力や残虐行為に満ちた血塗られたものでした。

その中でも特に有名なものは「バスティーユ牢獄襲撃」「九月虐殺」「恐怖政治」で、ロベスピエールによる恐怖政治では革命政府は反対派や敵対者を大量に(数万人)処刑しました。「九月虐殺」では暴徒たちは裁判もせずに囚人たちを刀や棍棒で惨殺しました。

そして日本の左翼の一部にもロベスピエールの影響は見られます。初心者でも読みやすくわかりやす本を紹介すると、池上彰と佐藤優の共著「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972 」は左翼運動における「思想の力」と「暴力の力」の関係や、「失敗」の本質を考える上では参考になるでしょう。

 

「悪の凡庸さ」は、ハンナ・アーレントがナチスのユダヤ人大虐殺に関するアイヒマン裁判を報告した『エルサレムのアイヒマン』で提案した概念ですが、

この概念は「深刻な・魔的なものではなく、思考や判断を放棄し外的規範に従順な人々によって行われるありふれた悪」を示しています。アーレントは、エルサレム裁判でアイヒマンを取材した際に、彼が「悪の凡庸さ」の典型であるという印象を持ちました。

アイヒマンは、自分が行ったことに責任を感じず、ただ命令に従っていたと主張しました。 アーレントは、このような態度が現代社会における悪の本質であると考えました。

これに対して「エルサレム〈以前〉のアイヒマン」は全く異なる視点からアイヒマンという個人を捉えています。この本はベッティーナ・シュタングネトという哲学者が書いた本で、

ナチス親衛隊のアドルフ・アイヒマンが、イスラエルに拉致される前に、逃亡先のアルゼンチンで残した録音や文章を分析し、彼の人間像や思想を明らかにしようとしたものです。

その結果、アイヒマンは自分の行為に誇りを持ち、ナチズムや反ユダヤ主義を熱烈に支持し、裁判では自分を偽っていたことが明らかになりました。そこに見出されたものは「悪の凡庸さ」ではなく「悪の巧妙さ」でした。

アーレントの「凡庸な悪」に対比するなら、「深刻であり魔的であり思考や判断を放棄していない意識的な個人(アイヒマン)」によって行われた「ありふれていない巧妙な悪」ということです。

この本は、歴史的事実と哲学的洞察を組み合わせて、ナチス時代の犯罪とその背景について深く考えさせる一冊であり、2011年にドイツで出版されてから、多くの賞を受賞しました。

2014年にはニューヨーク・タイムズ紙が100 Notable Booksの一冊に選び、 2021年には日本語版が出版されました。この本は、歴史的事実だけでなく、人間の心理や倫理にも深く切り込んだ作品です。

逆説的に、アーレントの「凡庸な悪」という解釈の仕方に囚われすぎた人たちもまたステレオタイプ思考に陥り、「個人の差異」に気づかず、「こういう人はこういうものだ」という硬直した思考になっていた、ということです。

その結果、すぐに「○○みたいな人はアイヒマン」「○○みたいな連中はナチス」みたいな単純化を行い、ある属性の個人・集団に対してネガティブなレッテルを張ることが蔓延ってしまったわけですが、

「自身の薄っぺらさ」がわからない人ほどすぐに「○○は薄っぺらい」と決めつけるものです。そして自分の感覚や解釈の仕方だけを絶対化、本質化して、硬直化してしまう。

「薄っぺらい」のは対象を単純化するその眼差しではなく「硬直性」がもたらすものなんですね。そこにゆらぎがあるのであれば、一時的には浅くなってもすぐに深くもなる動性を失わない。

皮肉なことに、「○○みたいな人はアイヒマン」「○○みたいな人はナチス」とステレオタイプ思考で決めつけて、頭ごなしに相手を「悪」として容赦なく裁く興奮を抑えらないような人の方が、(どちらかといえば)アイヒマンに近い要素をもっているともいえます。

「自分が正しいことを証明するために相手の弱みや欠点を見つけて攻撃ばかりしたり、相手の感情や立場を一切無視したりする。」「自分の欲求や目標を達成するために、他者に対して故意に傷つける行動をとり、自分の自尊心や自己効力感を高めることで、自分の不安や不満を解消しようとする」

というような心理が強く働いている場合、帰属バイアスが生じやすくなります。

「原因帰属」に内的帰属と外的帰属に分けられますが、たとえば内的帰属とは、他者の行動がその人自身の性格や能力や気持ちなどから来ていると考え、外的帰属は、他者の行動がその人以外の状況や環境や期待などから来ていると考えますが、

攻撃性が強い場合、あるいは、ある他者の行動に対してネガティブイメージが先行している場合、その他者の行動は「(観察者から見て負の意味合いを持つ)性格や気持ち」などから来ていると考え、負の形で内的帰属され、個人の問題とされ非難されますが、

これは「非難を正当化するために合理化する」のであり、「見る側の感情」が(相手の複雑性を無視して)先に結果(評価)を決めていてるんですね。

どんな理屈や言い回しをしようが、感情の次元では「相手を裁きたい、否定したい、認めたくない」が本心なので、感情を成就させるためには「相手自身に問題がなければならない」ゆえに内的帰属する傾向が強まります。

それがたとえば「○○はアイヒマンみたいな奴だ!」みたいな表現として出てきたりする。そうやって感情を合理化するわけです。

しかし逆に親交のある人々とかポジティブイメージが先行している他者の行動に対しては、仮にその他者の行動、言動に負の部分があったとしても、両義性を見ず、個人の問題(性格や気持ち)にはせず、その人以外の状況や環境、構造等、外的帰属する。

これは内集団・外集団バイアスもそうですが、「見る側」が別の人に変われば人物評がそっくり反転する。こうやって「個人」は「それを見る人」によって、ただネガティブに単純化されたり、逆にポジティブに単純化されるわけです。

 

アイヒマンに話を戻しますが、アイヒマンはもっと複数の条件を持っていて「知能」が高い。だから「モノロジカルで感情的な人」はアイヒマンに欺かれ、「仮のペルソナ」の背後にあるものが見抜けない。

「悪」も上に行くほどある種の能力、才能がいる。凡庸な人の悪はやはり凡庸でしかなく、それは凡庸な人の善や正義がやはり凡庸なのと同様に。

アイヒマンは仮のペルソナでやっていたわけでなく、「思想の体現者」であり、それがアイデンティティそのものだったというところが怖いところなんですね。しかしそれをあたかも「誰にでもある凡庸な何か」のように見せる、「凡庸な悪という仮のペルソナ」をまとっていたというところが巧妙、狡猾なんです。

そうすることで本体の特異な異常性を悟らせないようにし、個人としての凶悪さを隠そうとしていたということです。

それにハンナも見事にはまってしまった。ナチスドイツの行った蛮行というものを激しく憎んでいたゆえに確証バイアスが生じざるをえなかったのでしょう。

「その行為に直接的、間接的に関わったすべての者たちに罪の意識を持たせたい」という「前提」があるゆえに、集団全体に対して内的帰属をしてしまう。

「全員にアイヒマン的なものがある」と内的帰属して一般化した方が「感情」の次元で納得できる答えであり、同時に啓蒙的な意義もあると合理化できるからこそ確証バイアスが強く働いてしまう。

その結果、逆にアイヒマンという個人の複雑性や「悪の巧妙さ」が見えなくなる。それこそがアイヒマンの狙い。誰もがアイヒマン的な罪人とすることで自らの罪を相対的に薄めることができる。

「巧妙さを見えなくする巧妙さ」、そこにアイヒマンの際立った悪性が働いているということですね。

これはプーチンのような高知能型の悪性も同様です。「アメリカだって同じことをしてきただろう、お前と俺に何の違いがあるのか」と悪を相対化をしながら、個人としての突出した異常性を棚に上げて平然と殺戮しまくる。

 

とはいえ「私たちは..」といえるような傾向性が「私たち」にはあります。サピエンスには生き物としての傾向性、特徴があります。と同時に個体差、個人としての差異もあります。人間は種としての類型と個の差異の両義性を生きています。

「前提を疑う」ということなしにはどんな思考もやがてはひとつのステレオタイプ思考になっていく。それがわからない人は「アイヒマンという個人」を見ず「悪の凡庸さ」というステレオタイプ思考で他者の仮のペルソナを見て、それだけで「正体見たり!」みたいに思い込んでしまい、

逆に「個人の差異」が見えなくなってしまう。まぁしかしこのような「単純化」というのはよくあることで、誰もが多かれ少なかれ何かを単純化して表現しているし、それは必ずしも常にダメというようなものではなく、ときにそれは必要なものでもあるけれど、

ひとつの条件・要素があるというだけで何かと何かを結び付けて「悪」のようにして裁くことばかりしている人をみると、「この人って特定のイデオロギーでしか物事が見れなくなっているじゃない?」とは思います。

また種としての類型と個の差異だけでなく、国、社会、集団等の場の力学、その時代の状況などの時間の力学等、個を超えた外部の力学で形成されるエートスがあります。

ただ国、社会、集団は全く変化しない静的なものではなく、過去と似ている状況もあれば似ていない新たな状況も同時に混在しつつ変化しながら動的に存在しています。

エートスは、社会や集団の特色を理解するために有用な概念ですが、同時に多様性や変化にも注意を払う必要があります。エートスは固定的なものではなく、歴史的・文化的・社会的な条件によって変化する可能性が常にあります。

したがって、なにがどのように化学反応してどのように現象化するか?というのはそう簡単にはいえないはずのものなんですね。