秩序と自然  閉じられた個人 / 開かれた個人

アメリカでよく懲役三百年とかそういう話を聴いたりしますが、併科主義による判決でそうなるわけですが、ギネス認定の最長の判決は「141,078年」だそうです。

そして1972年、スペインで約4万通の郵便物を配達せずに自宅に隠していた男が逮捕され、驚くべきことに「1通につき9年の懲役」を言い渡されたそうですが、めちゃくちゃ厳しんですね当時のスペインは。これ合計だと懲役36万年になります(笑)。

とはいえ、最高裁判所が彼の無罪を認めて釈放したということで、よかったですね。

仮に1972年のスペインで今のビッグモーターのようなことが起きた場合、合計の懲役で1000万年を超えそうな気がしますね、しかも絶対に無罪にはならないでしょう。

ところで民事訴訟における損害賠償として世界最高額とされているのは、2014年に米国で起きた石油流出事故に関する訴訟で、BP社が約2兆3千億円の和解金ということです。

 

話は変わりますが、私は、お笑い芸人とかがもし誰かを訴えるなら「兆」以上の額を請求してほしい、と思うことがあるんですね。

「兆」の上の単位は「京」でその上が垓(がい)ですが、さらにその上に秭(じょ)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(こうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)と続きます。

恒河沙(こうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)とかカッコいい感じがするし、不可思議(ふかしぎ)とか無量大数(むりょうたいすう)になるともはや宇宙的な雰囲気すら漂っています。

さらば青春の光のコント「ぼったくりバー」で那由他(なゆた)を使ったお笑いネタがあります。「200那由他飛んで3万」を請求されるのが気に入ってます。

リンク先でそのネタのMAD動画が見れます。このMADなかなかの仕上がりです ➡ 「30,000 200,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,030,000」

 

まぁ「兆」の上の単位であれば何でもいいんですが、たとえば「5那由他(なゆた)を請求する!」とか言ってほしいですね。実際には絶対にその額にはならないわけですが、裁判のときに「5那由他」というぶっ飛んだ言葉が使われるたびに笑いを禁じ得ないわけじゃないですか。

場が真面目で厳粛で誠実であればあるほど、「5那由他」という請求額が凄いパワーを発揮し、絶対に笑ってはいけない状態になるでしょう。まぁどうせ適正な額に落ち着くわけだし、そういう真面目な場面こそ芸人の意地を見せてほしいところではあるんですね。

昔、「おこ」から派生した「ギャル語怒りの6段活用」というのがありました。通常、「怒り」を六種類の表現に分けて段階的に扱うなんて、頭の固い大人には全く思いつかないことじゃないですか。生真面目に言語をそのまま使うだけでしょう。

「250万円を請求する!」とかいかにもリアルな額で生々しい感じにやるよりも、気持ちを乗せて「1000無量大数を請求する!」という風に使うと面白いんじゃないかと思うんですね。

 

ではここで一曲紹介♪  VOCES8による「ルクス・エテルナ(永遠の光)」です。VOCES8はイギリスの声楽(ア・カペラ)グループで、2005年に結成されました。1 8人のメンバーで構成されており、ルネサンス期の合唱曲から現代のポピュラー音楽まで幅広いレパートリーを持っています。

ルクス・エテルナ」は作曲家エドワード・エルガーの作品で、無伴奏8声部の混声合唱と微分音、「声」という楽器が神秘的なゆらぎを生みだしています。

 

秩序と自然  「閉じられた個人」「開かれた個人」

社会学者のノーバート・エリアスは、社会秩序とは、人々が共有するルールや価値観(ノモス)と、自然や他の社会との関係(ピュシス)によって支えられていると考えました。社会秩序がどうやってできたかや、どうやって変わってきたかを理解するには、社会がどんなルールや価値観を持っているかだけでなく、社会がどんな自然や他の社会と関わっているかも見る必要があると言っています。

エリアスは、社会秩序は相互依存関係の網の目のようなものであり、その中で人々は行動や感情の自己抑制を強化していくと考えました。そして暴力や残酷さを抑えることが文明化の過程の一つの側面であると考えました。

エリアスは、中世から近代にかけてのヨーロッパ社会において、人々の行動や感情がより自己抑制され、細分化された規範やマナーが発達したことを示しました。これは、国家や法律による暴力の独占や統制が進んだことで、人々が他者との関係において暴力を用いる必要性や可能性が減少した、ということです。

エリアスの文明化論は、西欧社会における個人の情動抑制の変遷過程と社会の国家形成過程とが相互に影響しあって文明化の過程を形成するという考え方で、中世から近代にかけて、西欧社会において暴力や衝動が抑制され、礼儀やマナーが発達し、個人の自己制御能力が高まったことを示しました。

また、この個人の文明化過程は、封建的な騎士社会から中央集権的な宮廷社会へと移行する社会の文明化過程と密接に関係していると主張しました。

エリアスの文明化論は、スポーツや教育などの分野にも応用されています。スポーツにおいては、「スポーツ化」という概念を用いて、スポーツがどのように文明化されたかを説明し、教育においては、「礼儀作法」という概念を用いて、教育がどのように文明化されたかを説明しました。

彼は、スポーツが人間に楽しい興奮を提供する一方で、暴力や敵意を規則やマナーで制限し、社会的な秩序や和平を維持する役割を果たしていると考え、また、スポーツは「カタルシス」という概念で理解できるとも述べました。

カタルシスとは、芸術や文学作品が人間に与える浄化的・治癒的効果であり、スポーツも同様に人間の抑圧された感情や欲望を解放し、心理的な安定をもたらすことができるという考え方です。

しかし、エリアスは、暴力や残酷さを抑えることが必ずしも人々の感受性や共感性を高めることにつながるとは考えませんでした。むしろ、彼は、暴力や残酷さを抑えることで、人々がそれらに対する耐性や感度を失うこともあると指摘しました。

例えば、第二次世界大戦中のナチス・ドイツにおいて、多くの人々がユダヤ人や他の少数民族への大量虐殺に無関心であったり、協力したりしたのは、「閉じられた個人」という自己像が広まったことで、人々が自分と他者との関係性を見失い、暴力や残酷さを理解できなくなったことによると説明しました。

時代は変わりますが、カロリーヌ・フレストというフランスのフェミニスト・ジャーナリストが書いたエッセイ「傷つきました戦争」では、ポリティカル・コレクトネスと呼ばれる、人種やジェンダーなどの属性に基づいて他者の言動を規制しようとする運動やイデオロギーに対して批判的な視点を示しています。

ここにも「閉じられた個人」が関係しているともいえます。「閉じられた個人」たちの内集団運動が、「外集団とされたものたち」へ向けた暴力性や残酷さがどれほどののものかを本人たちは全く感受できない。

「我こそは正義」ゆえに「我らの暴力性や残酷さ=正義」であり何の痛みも感じない、むしろ相手が苦しめば苦しむほど痛快、「我らの勝利!」という感じの闘争。それはまさに「私刑は娯楽」の姿であり「己が正しさの怒り」に酔っぱらってしまった状態ともいえます。

「敵認定された外集団」はもはや「人ではないもの」として、一切の共感を遮断するかのような冷徹さをその運動の随所で見せる。

内集団・外集団バイアスを強化したアイデンティティ・ポリティクスは、結局のところカルトとよく似た百ゼロ思考、敵認定した対象への徹底した遮断と断罪、そういう質になっていきます。

こうなってくるとアイデンティティ・ポリティクスは相互確証破壊に向かうでしょう。傷つきました「戦争」と表現されるように、それは戦争的な闘争状態になってしまっているからそうなるんですね。

集団で生きていく以上、どうやっても何らかの衝突や争いは起きる。しかし「怒り憎み罰し威圧し続ければ相手が変わる、社会、世界が変わる」と思っているような一方通行の戦争的な運動スタイルでは、社会、世界は表面的には変わっても、実質的にはより悪くなるでしょう。

仮に今から十年後に、それらの運動を通して新たな制度やシステムを強引に形成して「ほら、十年前に私たちが行った運動で世界は変わったでしょう!」と誇らしげに語ったとしても、表面の形だけ整えただけで、むしろ質的に劣化しているんですね。

仮に今のようなやり方で強引に構築し続けた場合、より強力な破壊が内部で進行し続け、もっと複雑で手の施しようのない悲劇が起きる可能性を高めでいくでしょう。

日本人は大人しくて、多くの人たちには暴れる力など残っていない」と思っている人がほとんどでしょうが、臨界点を超えて同時に条件が揃えば、想像を超えた凶暴性が立ち現れてくる可能性は高くなります。

たしかに現時点では日本の集合的無意識のシャドー(影)は巧みに抑圧されていて、「よく飼いならされた畜群状態」ですが、だからこそ強力な負の力を蓄え続けています。長年に及ぶ歪が相当量蓄積しています。

「大人しい奴等」と言われ続け、「何もできなやしないさ」と言われ続けてきた日本人、しかし社会の地下でシャドーのマグマは充填され続けています。

そしてこの現象の怖いところは、一気に連鎖的に暴走が生じてくることです。最近の「無敵の人」の出現は昔より数は少ないのですが、それは島国で民族として同質性が高く、かつ自己家畜化、去勢が過剰に進んだ社会だからそうなっているだけ。

日本にも多様性がないわけではないのですが、海外よりも穏やかにまとまっている(ようにみえる)のは、個々の自己家畜化が進んでおり、かつガラパゴス的環境ゆえに、内部では多様性のバランスがとれているからです。

それに比べるなら海外は「野生の多様性」でかつ異質性も強い集団がぶつかり合う状態なんですね。だから激しい。

「大人しい人が多い」=「凶暴さの総量が少ない」というわけではないんですね。むしろ「犯罪が減っている」=「抑圧化された凶暴さの総量が多い」のです。そういう社会の集合的無意識のシャドー(影)はより濃く強くなっています。

「凶暴さ」というのは「(内界の)自然」の現れのひとつに過ぎません。「(内界の)自然をどう扱ったか」の結果に凶暴さという質として立ち現れてくるだけです。

ここで社会のバランスがもっと崩れて過剰に潔癖にクリーン化し続けていくと、もはや極限状態にまで負のエネルギーが高まっていきます。その結果「(内界の)自然」は凶暴さの質を高めていくのです。

見方を変えるなら「社会それ自体が個人よりも圧倒的に凶暴」ゆえに個人の凶暴性(内界の自然)を抑え込めているともいえるのですが、「社会それ自体の凶暴さ」が巧みに隠されている、「凶暴に見えない形」で行われているのが現代の先進国社会なんですね。

「先進国社会における去勢」というのは過去の権力の姿ようなわかりやすい力づくの支配みたいな形ではなく、「暴力と見せずに行われる暴力」として行われる管理教育、規範の内面化の結果であり、この「見えない暴力」は総量でみれば物凄い量です。

「自己家畜化が高度な社会性と結びついている」とはいっても、際限なく去勢され続けることへの過剰適応は、やがて生き物としての力を衰弱させ、それ自体を維持できなくなっていく。そうなってくると「生命の側」からの反動が生じてきます。

現在の多様性社会化による日本外からの「野生の多様性」の流入は、「生命の側」からの反動のキッカケになるでしょう。グローバル化が日本的畜群に「冠進化」を引き起こす。

「本物の剥き出しの暴力」が姿を現すのはまだ先のことでしょうが、「あの頃の日本はよかったな」と今このときが懐かしく感じるほどの負の現象が噴出してくる未来が訪れる可能性はあります。

そうなってはもう遅いんですが、『理念が形として達成さえすれば「世界は変わった、よくなった」と単純に考える「目に見えるもの」しか見えていないインテリ、活動家、専門家等』には理解できないまま、現在はその方向に直進しています。

フレストは、ポリコレが文化を検閲し、社会を分断し、対話を妨げる風潮であると主張しています。彼女は、アメリカの議論に欠けている普遍主義の視点から、世界的なポリコレの暴走に対話の活路をもたらそうとしています。そして自分の立場や出自で行動をジャッジし、「傷つきました」と言って議論を終わらせることは、対話や理解の可能性を奪うことになると主張しています。

エリアスの考え方では、社会秩序は人々の相互依存関係によって形成されます。つまり、人々は他者との関係の中で自分の行動や感情を抑制する必要があります。これは、文明化の過程と呼ばれる長期的な変化に伴って強化されてきました。例えば、食事のマナーや身だしなみなどは、上流階級の文化が広がることで変化してきました 。

しかし、エリアスは、この文明化の過程が単純な進歩や退化ではないとも指摘しています。文明化は、人々の自己抑制を高めることで、より高度な社会や文化を可能にしますが、同時に人々の自由や創造性を制限することもあります。また、文明化は、人々の暴力や残酷さを抑えることで、より平和な社会を目指しますが、同時に人々の感受性や共感性を低下させることもあります 。

したがって、エリアスは社会秩序を単なる規則や権力ではなく、人間関係の複雑さや動的さを重視して捉えています。また、彼は文明化の過程を単純な進歩や退化ではなく、多面的な発展として理解しています。

社会秩序の内部と外部という考え方は、ノーバート・エリアスだけでなく、他の社会学者も提唱しています。例えば、エミール・デュルケームは、社会秩序を自然的秩序強制的秩序に分けて考えました。

自然的秩序とは、社会の成員が自発的に秩序を要求する意志に基づく秩序であり、強制的秩序とは、社会の権力や規範によって課せられる秩序です。デュルケームは、社会の規模や複雑さによって、自然的秩序と強制的秩序のバランスが変わると考えました。

そして社会秩序は社会的事実という外在的で一般的で強制的な現象によって保たれると考えました。彼は連帯という概念で、社会がどのように統合されるかを分析しました

また、マックス・ウェーバーは、社会秩序を合法的支配のタイプによって分類しました。合法的支配とは、社会の成員が支配者の権威を正当なものとして認めることです。

ウェーバーは、合法的支配には伝統的支配(慣習や信仰に基づく支配)、カリスマ的支配(個人の魅力や能力に基づく支配)、合理的法的支配(法律や規則に基づく支配)の三つのタイプがあると考えました。

ウェーバーは、社会の近代化に伴って、合理的法的支配が優勢になると考えました。このように、社会学者はそれぞれ異なる視点から、社会秩序の内部と外部を分析しようとしました。

エリアスは、人間の自己像は社会的な過程によって形成されると考えました。彼は、人間の自己像を「閉じられた個人」と「開かれた個人」の二つのタイプに分けて分析しました。

私はエリアスの考え方は社会の一面をよく捉えていると感じます。

閉じられた個人」とは、自分と他者との関係性を見失い、自分を「孤立した理性的な存在」として捉える自己像です。この自己像は、文明化の過程において、人々が暴力や残酷さから距離を置き、感情や衝動を抑制するようになったことで生まれました。

しかし、この自己像は、暴力や残酷さを理解できなくなり、他者への共感や感受性を低下させる危険性もあります。エリアスは、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人への大量虐殺が、「閉じられた個人」の自己像が広まった結果であると考えました。

開かれた個人」とは、自分と他者との関係性を認識し、自分を「相互依存的な存在」として捉える自己像です。この自己像は、文明化の過程において、人々が社会的な網の目の中で生きることを意識するようになったことで生まれました。この自己像は、暴力や残酷さに対する感受性や共感性を高める可能性があります。

エリアスは、「開かれた個人」の自己像が文明化の過程を促進することで、より平和で協力的な社会を目指すことができると考えたんですね 。