「エンデュアランス号漂流記」と「これからの男たち」 

今回は「これからの男たち」はどこに向かうのかをテーマに、ツィートや動画を紹介しつつ書いていますが、まず先に「エンデュアランス号漂流記」に関する話から書いています。

 

エンデュアランス号漂流記」は、削り落として最後に残るシンプルな人間の普遍性が浮き彫りにされている点で、フランクル夜と霧における体験に共通するところがあるなぁと感じました。

よく「生活が大変な時に歌なんて、芸術なんて」というようなことを聞きます。まぁ言いたいことはよくわかるんですが、

エンデュアランス号漂流記の隊員たちは「生活が大変」なんていう次元を超えた逆境を「22ヶ月間」も経験するわけですが、22ヶ月間にもなってくると、それはよく聞く「山で遭難し自衛隊のヘリで救助されました」っていうようなものとは別物でしょう。

おまけに南極の近くなので寒さも相当きついし、不毛の地なので水や食料の問題に加えて、シャチとか嵐とか大波とかクレバスとか恐怖だらけの自然環境です。そんな恐怖と厳しい自然環境の中でただ生き残るためだけのルーティーンをこなすだけでは心はどんどん消耗し麻痺していく。

エンデュアランス号漂流記の隊員たちにとって「心が壊れない」ために必要だったのは音楽、そして「希望」だったんですね。あと楽観性ユーモアシャクルトン隊長はそういうシンプルな人間らしさを見失わなかった。そしてみなの心が折れないように配慮しながら「解決思考」をフル発揮した。

ico05-005「被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった」 夜と霧

では彼らは22ヶ月間を「音楽」とか「希望」だけで乗り越えられたか? といえば到底無理なんですね。まぁとてつもない精神力と体力と知力すべての総合力で全員が救出されたわけですが、こういう実話を読むとセウォル号の船長って一体..という感じです。

現代は昔より人間がよくなった」とか私は全くそう思わない。100年前の人間のこの胆力と男らしさ、江田島平八もびっくりな男の中の男であるシャクルトン隊長は、「解決思考」と丹次郎的な「諦めない精神」、かつ「必ず全員を連れて帰る」という煉獄さん的な使命感の塊でもある、ある種の超人ですね。

セウォル号の船長に100回読んでほしい本が「エンデュアランス号漂流記」。

体と命だけが残っていればOKといえるほど人間は強くない。栄養だけ投入されて寝てればいいほど単純でもない。それはフランクルの経験したような収容所の過酷な状況下においてもそうだった。

その意味で彼の苦悩の経験は価値を持つ。フランクルが語るように苦悩を含めた人生の意味を見出すことは可能。

彼の「夜と霧」自体もそれを証明している。「収容所に入れられた経験」、そんな悪夢のような体験のプロセス自体が価値とされ意味のあるものとして後世に伝えられ今も読まれているのは、読む側も他者の人生や経験に意味・価値を見出すことができるから。

「意味も価値もない事実に意味や価値を見出す」それが人間に備わった能力なのでしょう。そのもともと備わった能力が生きる力にもなる、ということ。意味も価値もない事実を意味も価値もない事実として見る「のみ」では人間らしい生は生じない。意味と無意味の両義性、その葛藤や矛盾のゆらぎの中に人間らしい「心」が生じる。

ico05-005「自分の未来をもはや信じることができなくなった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。」

「強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分が待っていると、つねに思い出させることが重要だった。」

「わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ! やけくそのユーモアのほかにもうひとつ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。」 ー 夜と霧より

 

フランクルの「意味への意志」、ロゴセラピーのような主観的アプローチには、極限状態を生きた人間の知恵が込められているといえるでしょう。シャクルトン隊長はひとつひとつの判断の的確さも素晴らしかったが、とにかく度胸があった。探検隊はみな男だったし、やっぱりこれは男性的な危機の乗り越え方なんだなぁと痛感します。

日本もある意味で「漂流」の時代に移行しているともいえますね。激変する世界の動向、様々な危機や巨大なゆらぎを経験する未来がもう近くまで来ているといえるでしょう。平和な日常が足元から崩れていく未来は近いのかもしれません。

 

ここで動画を紹介♪ 「林業」って建設業よりずっと危険な仕事といわれていますが、この動画で林業で働く若者のシーンが出てきます。ミニ映画のような構成です。寺尾紗穂さんの歌が後半に入っています。この歌もすごくいい。

 

 

「これからの男たち」はどこに向かうのか

シャクルトン隊長はライオンである、元からとてつもなく強い何かを持っている。ごくまれにそういう人物は存在するし、そういう男は凄いと思う。しかし私は福田恆存 氏の語るように「人間は弱い」ということを前提にしています。あまりに多くの「壊れゆく人々」を見てきたから。しかし同時に人間は「ただ弱いだけ」でもない。

少しの他力が加わればそこから変われる力も持っていたりする。強さと弱さのゆらぎの中で葛藤する、それも人間の「心」なのでしょう。

戦後、福田は批評家・劇作家として活躍する。彼は人間の不完全性を洞察し、そこから進歩的文化人たちを斬った。福田は絶対者と人間の二分法を重視した。人間は、理想社会を構築することはできない。なぜならば、絶対者ではないからだ。
 この両者の区別がつかない不遜な人間こそ、近代主義者の群れだった。福田は庶民の凡庸な英知を抱きしめる手で、彼らを払いのけた。そこには人間の弱さをいとおしむ眼と共に、理想の高みから庶民を裁くインテリへの嫌悪があった。 ⇒ 福田恆存 人間は弱い [著]川久保剛

 

 

 

左翼も右翼もどっちもあっていいが、「左翼まみれ」みたいな感じはやっぱり偏ってますね。NPOの大空幸星さんが一部のNPOが左翼の巣窟のようになっている点を指摘していましたが、党派性の利害対立にマイノリティが利用される形で吸収されてしまうと別の政治運動に変質してしまうんですね。

 

 

結局のところ党派性での二項対立の文脈に置き換わってしまえば、個々の人生への取り組み方の違いとか、思考の型の差異とか、そういう個別性、多様性が排除され、ひとりひとりの声を丁寧に拾い上げていくプロセスをカットして、マイノリティを単純化し選別したり排除してしまう力学に変質してしまう。

インクルージョンとかなんとかいって活動してる人たちも同様で、「弱者のために」といいながら自分と異なる者たちに対してはスルー。

 

「非婚化」を進行させるままに任せても確かに男性優位は解消されていきますが、少子化を加速化していけば社会自体が維持できなくなって崩壊してしまう。

その場合、フェミニズムは社会を根底から破壊し己自身も消滅するカルト思想に過ぎないことを自ら証明するだけとなる。しかしただ破壊するだけでは創造的なものにはならない。

サピエンスのオスメスの進化心理学的な原理に従えば、強者選好のステレオタイプになってしまいますが、フェミニズムが既存の構造に対して真に創造的になり得るとすれば、「弱者男性を選好する」という形の「反逆」こそが最も構造の変化にとって創造的になりえる。

強者男性は男性原理主体の世界の高出力の動力源だから、そこをスポイルしていくことが最も大きな変化を生み出す。男性原理優位の社会そのものに「揺さぶり」をかけていくのであればこれ以上に効果的な揺さぶりはないかもしれません。

そして「陽キャの弱者男性」は男性原理優位な人も結構多いのですが、「陰キャの弱者男性」は女性原理優位な傾向がある。だから「陰キャの弱者男性を選好し世界に反逆する」という組み合わせがマクロな変容に繋がります。

本当の革命は「好き嫌い」や「快不快」などのサピエンスの雌雄の本能を超えた非サピエンス的な力学にある。あえて自然界の法則性に逆らう、そういう非サピエンス的な力学が新しい価値を前提にした人間社会を創造する。

世界がもっと女性原理で動くようになれば、男性は男性原理主体で生きる「必要」がなくなっていく。そうすることで陰陽の不調和、偏りがバランスし、男性原理と女性原理が調和していきます。まぁサピエンスには無理な話でしょうけど

 

 

サンデルのいうことは一理あっても、サンデル自身は上部構造にてまさにその恩恵を受けながらそれを維持したまま「下」に向けて問う。この場合、サンデルは特権の恩恵+道徳優位性の両方を得てさらにその権威性を盤石とする。

そしてサンデルのような上位者がこぞって再配分やら資源配分などを語ったところで、自らは能力主義の構造があるゆえの優位性の立場を現在も生きるように、

結局、アファーマティブ・アクション的な構造への調整と同様に、後進(若い世代)に丸投げすることになる。だから現実としてそれを背負うのは後進たちである。

自らはタワマンに住んで高級車に乗りながら「平等に貧しくなろう!分け与えよう!差別をなくそう!」、そうやって上から語り続けるインテリたちのような啓蒙特権者たち。

これをマクロな規模でみれば、「先進国と発展途上国の関係」とも相似の関係にある。下部構造を発展途上国に担当させ上部構造を先進国が担当しながら、権威のある先進国側だけが常に美辞麗句を語るのと同様。

権威のある側(先進国側)だけが常に上位になるようになっている。そして「痛みを伴う自覚や実行」は結局いつも他者(下部構造の外集団)にやらせる。

 

 

「構造」を温存したまま、リソースに恵まれた側の言説に影響を受けた意識の高い人たちがキレイな理想をキラキラした目で語っても、「俺たちわたしたちには関係ない話だね」「贅沢な話だね」となるだけなんですね。

血を流し戦う兵士や、土木・建築、電気、水道、様々なインフラを支えるきつくて危険な職場で働く労働者たち、重責を負う仕事、そういう下部構造も平等にさせることでしか、現実の多元性を理解できないのでしょう。

 

 

社会は男を助けないし、フェミニズムも男を助けない、そんなものにかぶれた今のインクルージョンとやらは男にはそもそも無用。フェミニズムやインクルージョンこそが「自己責任」を強化している(あくまで男性に対してだが)。

「左派の思想にかぶれたインテリ、アカデミア、フェミニストのインクルージョン」から男は離れ、自身を鍛えるか、技術を磨くか、とにかく「助けもせず協力もせず文句しか言わない連中」になど期待せず、粛々と「力」をつけていく以外にない。

それが無理で助けや支えが必要なら、非フェミニズムの男性の専門家か非フェミニズムの女性の専門家と繋がっていきましょう。社会運動や政治活動に巻き込むような支援者及び専門家からは離れましょう。

 

 

誰かが上位であるためには誰かが下位でなければならない、その合理化のために「配慮対象から外される属性」がどうしても必要になる。全部配慮すると有限な上部の席の奪い合いが激化するから。たとえば氷河期世代はそうやって「下位」に固定された。

日本の40代、50代の中年のおっさんは世界で最も自殺者が多い悲惨な状況だが、それは社会の下部構造を頑張って支えているからである、という点にスポットがあたることはまずない。頑張って疲れている人をキモイおっさんとして生贄化する社会である。これでは日本に再び活力は戻らないだろう。

さらに輪をかけてフェミニズムは男に「責任」を徹底的に押し付けていく。男は生まれながらの罪人で特権者で加害者で強者らしいので、全て自己責任にされるだけ。「自殺者が多い?だからどうした甘えんな!自分たちで何とかしろ!」それが「この社会の生贄、本当の近代的奴隷」に向けられている本音である。

 

「本当に助けが必要な弱い状態にある人」ほど他者に相談できない。他者に相談できる時点である程度は強い状態にあるという意味だけでなく、「弱い状態」の告白によって社会的評価が下がりにくい属性かどうか、という社会的構造にも左右される場合がある。

またそれだけではなく、「お前は○○である」の定義などの「呪い」の作用をあまりに受けすぎ内面化しすぎているからでもある。

「強者が植え付けた呪い」と「弱い状態にある自身」が内部で殺し合って激しく消耗している状態になっているんですね。だからこういう人は「呪い」に凄く敏感になり、強者や権威性による「操作」「誘導」に非常に敏感です。

他者のもつ隠された権力性を臭いでかぎ取るという次元、これはほんとうに弱り切った状態のイキモノが生き残るために発動する本能の一種なのでしょう。

 

統計データ画像集 – 男性から見たジェンダー資料   〇 共感格差

 

「頭」と「口」だけではなく「身体」を使って動かなければ現実は動かないのと同じように、ツイッター政治なんて私刑やカルトが増えるだけで、その結果は互いに首を絞め合う窮屈な相互監視社会を生むだけ。

権力側にとっては勝手に庶民同士でバトルロワイヤルして声の大きい危険分子同士が相殺し合うか相互監視で身動きがとれなくなってくれた方が楽でいい。だから庶民のバトルロワイヤルは不毛。

男性は声を上げるにも力がいる。しかし問題を解決できる余力のある男性にとって声を上げる必要性は相対的に少なくなるので、けっきょく問題を解決できできない状況に置かれた弱い男性は声を押し殺して限界まで耐えるしかなく、力尽きればそこで人生は終わる。

トラやライオンのようにひとりで強いならひとりで生きればばいいが、弱いものたちは弱いものなりの戦い方をするしかない。