タブラ・ラサと「余白」の心

いろいろと忙しく飛ぶように過ぎた数か月ですが、ようやく少し落ち着き、書きかけの記事をいくつか仕上げました。

最初に寺尾紗穂さんの歌を紹介しています。他の記事でも紹介していますが、彼女の曲にジョニ・ミッチェルの雰囲気を感じる、なにかとても懐かしい感覚。声がほんとうにいいなぁ。

寺尾紗穂は著書『天使日記』の中で、以前ライヴで “森の小径” を歌ったときのことを振り返りながら「世の中に軍歌があふれても、人の心の色まで染め上げることはできなかったと思う」とこの曲について記していた。それは激動の時代にいくばくかの希望を見せてくれる。人の心が染まらないのはすなわち感情に余白があるからだ。 引用元⇒ 寺尾紗穂 余白のメロディ

 

 

ネット以前」と現在で変わったのは、不可視化されていたものが可視化され過ぎて分断がより強化されたり、相対的に劣位な側のルサンチマンを刺激しただけでなく、

今は個人主義の時代とはいっても、日本人の御本尊は今も昔も「世間様」であり、「SNSに憑依された没個性化の時代」の「世間様」は今はSNSなのでしょう。

そしてSNSを内面化した自我は「SNS型世間様」に恥ずかしくないように適応し、世間様の名のもとに村八分をしたり私刑をしたりして原始的衝動(攻撃欲動)を解放したりするのでしょう。

「SNS型世間様」においては、群衆心理はクラスター単位に分かれ、それに感染した個人が疑似的なアイデンティティを形成し没個性化して原始的衝動を解放した結果、クラスター集団の闘争劇場と化してしまったといえるでしょう。

いうなれば世間様の分霊がそれぞれに神化し八百万神になるも、かつての日本的おおらかさは微塵もなく、いびつな形で欧米的な二項対立の宗教戦争を引き起こしている状態ともいえるでしょう。

「殺伐さ」というものがネオリベの力学による時代の価値観、他者観の変化によって生じているのも関係しているでしょうが、

「ネット以前」のおおらかさが欧米的な二項対立・善悪二元論的になった原因は、SNSによって他者認識が非身体的になり、ロゴス主体、文字言語主体の共感や情報分析的な質に偏ってしまったことが大きいでしょう。

 

触れずして言語的に分析し続けるだけの他者理解は、どれだけロジカルであっても「SNSで繋がった」と思い込んでいても「切断されたまま」である。

実際は「接続過剰」など起きてなくて、「(他者と切断されたままなのに)私は他者と関係している、繋がっている、共感している」と思い込めるSNS的環境によって逆に、概念だけの他者がリアルだと勘違いするようになる。

ネット以後」の共感にせよ関係にせよ、過剰な反応やリアクションの量だけは増えたが、個々の身体性は逆にどんどん浅くなっている。芸術家とかでなくとも、身体性が深い人がそんなものを「つながり」などとはいわないだろう。

ほんとうは「つながり過ぎた」のではなく、あまりに軽い泡のような不確かなつながりを共感とか関係と思い込んで身体の感覚がおかしくなっているだけのようにも思う。コミュニケーションバブル期とでもいえる錯覚現象。

それがさらに進むとリアルを観てもSNS的人間観を投影してしまい、リアルに触れることも十分にできなくなる。

身体を通して他者に触れていくことで少しずつ開示されるものが唯一性としての他者のリアル。泡のような幻影にとらわれずにまず身体を取り戻そう。バブル崩壊したあとには乏しい身体性と荒野のような虚無しか残ってないとしても、そこにはまだリアルがある。

時間がかかる他者認識の過程、様々なわからなさ(開示されないもの)と共にあることが「おおらかさ」に繋がる。「切断されたまますぐに他者のことがなんでもわかってしまう」かのようにおもえる人間観は、他者を自身の合理性の範囲で見切っていくだけで、実際は何も触れずみてもいない。

いや、何も触れずみてもいないから「すぐに他者のことがなんでもわかってしまう」と思い込める。触れている他者を一言で語ることはとても難しい、というよりできない。自身それ自体を語れないのと同様に。

 

 

タブラ・ラサ

ジョンロックのいう意味での「タブラ・ラサ」は存在せず、生まれたときの意識にはすでに身体由来の原初の意識が生じている。それはまっさらな状態ではない。

標準社会科学モデルでの「空白の石板」、幼児は空白の石板でその後に環境要因(社会)によって書き込まれ作られたものが「心・精神」なのか? この「生まれか育ちか」の二項対立は今でも続いているが、人文系(左派)は環境要因(社会)のほうにウエイトが高い傾向がありますね。

 

大人たちが絶対知らない「赤ちゃんのふしぎな能力」 足し算引き算もわかっている!?  より引用抜粋

最近の発達科学は、スクラッチ(白紙)の状態から全ての心的機能が学習・経験によって獲得されるのでは「無く」、あらかじめ基盤となる心的機能の存在を想定している。
(中略)
米国ハーバード大学教授のエリザベス・スペルキは、人間(動物)はうまれながらにして生きていく上での基盤となる知識——コア知識(core knowledge)——を有しているとの仮説を提唱している。

彼女らがコア知識として最初に提案したのは、物体(object)、行為(action)、数(number)、空間(space)の4種類のコアとなる知識である。たとえば,生後間もない乳児であっても、物体をバラバラに認知しているのではなく、まとまりをもったものとして認知していることが、実験室実験によって明らかにされている。

ペルキの「コア知識」仮説を後押しする研究は枚挙にいとまがない。物体に関する知識以外にも、様々な領域で早期の知識が明らかにされつつある。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 大人たちが絶対知らない「赤ちゃんのふしぎな能力」 足し算引き算もわかっている!?

 

ケンブリッジ大学の心理学者サイモン・バロン=コーエンの新生児の男女の観察・実験、そして他の実験ではベルベットモンキーやアカゲザルでの観察からも性差が報告されていますが、

まぁ性差に関しては今回はテーマではないのでおいといて、「タブラ・ラサ」と比喩できるような何かは本当にないのか?といえばそうではないというのが今回のテーマです。それと「瞑想」に何の関係が?と思うかもしれませんが、ジョンロックのいう意味での「タブラ・ラサ」とは異なります。

 

「余白」の心

瞑想というものは多元的です。そもそも瞑想にせよマインドフルネスにせよ、それは臨床心理や精神科医が生み出したものではない。

古来からあるものをある特定の目的の範囲で編集したものに過ぎない。しかしもともとあるものがどれ程の幅や奥行きがあるかは彼ら・彼女たちは「身体」では知らない。瞑想はそもそも「社会に適応するために存在しているのではない」ということ。

瞑想は「責任」などというものとそもそも無関係。心を政治に結び付けたがる左派的な運動とか、そしてそういうイデオロギーを持ち込む者たちは、「個人的なことは政治的なこと」からさらに「心は政治(社会)」に結び付けたがるが、瞑想や芸術の根源はそもそも社会の外にあるため、価値以前、責任以前の実存に触れるものなんですね。

「余白」の心を生きているから実存に触れられる。しかしそれは社会的には役に立たない、あるいは無力。ただこの無力というのは「生」の側から見れば反転もする。逆説的には、魂の力が残っているがゆえに「余白」の心を生きられる。

頭でっかちなインテリは知識だけでなんでも知った気になるから質が悪い。無学なバカ(とされている人)のほうがずっと賢かったりするのは身体知の領域では日常茶飯事。

臨床で用いられるマインドフルネスは負のスキーマへの対処としてメタ認知的な注意・観察の技法として目的化されていますが、瞑想における「脱中心化」というのはスキーマと同化したした状態を外していく「初期化」の過程ともいえるんですね。

過去記事で社会的自我と自然自我のふたつの自我に関して書いていますが、生得的なものに由来するのが自然自我ともいえます。臨床で用いられるマインドフルネスは社会的自我の次元ですね。瞑想としては浅いんですが、それゆえに(社会的にみれば)副作用も害も少なく、目的に対しては合理的でバランスの良い技法だと思います。

責任というものは社会的自我と結びついているものです。だから、臨床で用いられるマインドフルネスでも「今・ココ」の身体を基点にすることで、社会的な時間感覚、そして責任の主体である社会的自我との同化状態から外していく作用がある。シンプルにいえば「生き物の自然状態に戻る」ということ。

全てではないが、芸術家の一部は自然自我を主体に生きているとも表現できます。自然自我というのは社会化以前に存在する生き物としてのヒトから自ずと生じてくる心です。生き物の次元と社会の次元、そのどちらにウエイトがあるかは人によって異なる。

そして臨床で用いられるマインドフルネスとは異なり、本来の瞑想によってさらに深めていくと自然自我の運動性すら外していくとどうなるか?に関しての詳細はこのブログでは書きませんが、

「タブラ・ラサ」は自然自我以前に存在し、「余白」の心のさらに奥にある「魂」とでも表現できる何か、それに触れるということは臨床で用いられるマインドフルネスにおいては生じません。クライエントは行者ではないので。

自然自我は進化心理学的な力学で生じている原初のヒトの自我とすれば、社会的自我はジョンロック白紙説のような構築主義的な概念でいえば、「白紙に後から書き込まれたもの」という人間観になりますが、

人を全体性で見たとき、それは純粋な構築主義的存在ではなく白紙ではないんですね。しかし社会的な生き物としての人間は構築的なものが優位な存在として生きていることも事実なので、そこにスポットを重点的に当てざるを得ない。

だから社会・政治の力学が重要にはなるが、それをあまりに全面化すると心は余白を失う。余白を失うと人は実存の独自性を見失う。だからここにもバランスが必要なんですね。

政治(社会)に対して「半心」であること。「心=政治(社会)」にすべてを飲み込まれないように気をつけましょう。

当事者を政治に巻き込む学者・専門家は自分たちの活動、理念に沿う形で当事者の価値基準を方向付けて囲い込んでいく。「己の仕事と理念に合理的」という理由で意識的あるいは無意識的にそうする。

当事者の実存、その内奥は非政治的な社会の外を生きている。心も同様に。社会や政治から外れたところにある何かに触れることを通して無意識それ自体が変容していく。

この変容のプロセスも社会や責任とはなんの関係もない独自性である。まったく別の領域における運動性。当事者を政治に巻き込む学者・専門が対応できない、応答もできない、そして巻き込めないところに唯一性としての生がある。そこに気づくことで「お目覚め運動」とは全く異なる新しい何かに出逢っていく。

社会にも政治にも権力にも触れられない「もともとあるもの」に触れることで「在ることの肯定」が生じる。この肯定は巷でいう自己肯定感とは異なるものであり、「もともとあるもの」だから他者や社会的な力学を介さない。